形師と                             _


 ガラにもなく、難しいことを考えてみたみたりもするのである。

 いつか、聞いた。昔むかしの思想だった気がする。依存関係による生起、という、ややこしい名前のもの。
 愛があり、ある一人の人間ともう一人の人間が愛し合っている。それでは愛はどこにあるのか。前者の人間の中に? それとも後者の人間の中に? ――答えはどちらも、ノー。愛し合っているその関係の中にこそ"愛"がある。そういったものだった。
 他のたとえもあった。川というものがどこに存在するのか。水と、それが流れる大地のえぐれとの関係がまさに"川"だ。川というのは、関係に過ぎない。そうしてすべては分解されてゆき、最後には実在するものは何もなくなるのだ、という。

 よくわからないままに、なるほど、と思ったものだ。わかったつもりになることなら、誰にだって、容易に、可能だ。
 しかし、幼い彼にはある提示されたモノをこの"依存関係による生起"とやらに従い分解することは、とても、できそうにない。
 幼い頭を悩ませて、その黒髪の少年は、ひとり首を傾げた。

「――水と大地のえぐれとの関係が、川でしょ。それはわかる」
 黒髪の少年はひとり思い悩んでいた。
 十歳のちいさな彼とて、時には古い思想に想いを馳せることがある。しかしそれは半ば逃避に近いものがあった。
 家の二階のある一室。やけに豪奢な印象のあるその部屋にどでんと置かれた天蓋つきの巨大なベッドの前に、少年は佇んでいた。
 ――彼には、目的があった。ただ、今は、逃げているだけだ。
「川の関係はわかるよ。でも、じゃあ、師弟関係ってナニ? 師匠と弟子の関係だよね。そのままだよね。
 じゃあナニ? この関係はナニ? お師匠さまと、ボクの関係って?」
 すぴー、と、間の抜けた寝息が聞こえた。ベッドの中で、何かがもぞもぞうごめく。時々呻き声も聞こえた。
 動き回ったせいで布団がばさりとベッドから落ちた。すみれ色の長い髪をもつ美しい――随分と寝相が悪いが――女性の姿があらわになる。別に特筆すべき点はない。胸がはだけているわけでも色っぽいわけでも全くない。色気も何もないだぼだぼのパジャマに身を包んで、随分と幸せそうに眠っていた。
 彼女は紛れもなく、少年の師匠だった。まあ、その筋では有名な人物といって差し支えない。そして少年は彼女に師事している。
 この関係は間違いなく"師弟関係"と呼んでいいものであった、はずだ。
「お師匠さまのウデはすごいよ。わかってるよ。わかってるけどさ、毎朝毎朝なんでボクが起こさなきゃなんないの?
 ねえお師匠さま起きてよ! 起きてよ、起きないの? 起きないんだったらお師匠さまの悪口いっぱい言っちゃうよ?」
 ――反応はない。反応は特にないが――「クマとスルメをスイカの中で……」――ひどく珍妙な寝言でなら、返された。
 寝言とともに、もぞもぞ動く。起きる気配は、ない。
 彼女はひどく寝起きが悪い。毎年毎月毎日毎朝弟子である彼が彼女を起こさなければいけない。気に入らない。どうして子どものボクが。やりたくない。こんな関係は絶対におかしい。
 更に言うなれば彼女はろくに家事もしない。料理洗濯掃除に買い物、気がつくと少年がちいさな身を躍らせてすべてをやる羽目になっている。
 更に更に加えるならば、彼女はずぼらでだらしなくて――
「あらいい朝ねクライブ」
 ぱちり、と。
 唐突に、眼前の女性が不機嫌そうに目をひらいた。
「うわああぁぁぁあああッ!? お、おししょうさま!?」
 少年はずささささ、と勢いよく後退した。
 ――だんっがしゃーんがたがたがた。
 音を立てて棚の中の陳列物が倒れた。
 しばしの静寂。少年は気まずげに自分の激突した棚を見上げた。ガラス戸が、思い出したかのようにキィ、とひらく。
「……朝からやってくれるわねぇー。はい、ちゃんと直しておいてよ?」
「あ、は、は、はいわかりましたお師匠さまっっ……!」
 心臓が鼓動を早める。自分が胸中げあげ続けた彼女の悪口がもしかしたら彼女に届いたのではないかと――彼女の不機嫌な顔を見るにつれ、そんな不安にかられる。ありうる。彼女は地獄耳だし、細かいことだっていちいち覚えてるし、自分の噂に敏感な自意識過剰人間で――
 ああ駄目だ駄目だ駄目だ、こんなことを考えてはまた彼女に知られてしまう。
 彼――クライブはひとりで頭をぶんぶんぶんと振った。考えてはいけない考えてはいけない考えてはいけない。
 弟子の挙動不審な行動に、女性は訝しげに美しい眉を寄せた。顔をしかめても美しいが、パジャマと寝癖が全てを台無しにしている。
「クライブあんた傍から見てそれは怪しいからやめなさいな。あと早く立ちなさい」
「え? あ、はい、…………えと、お師匠さま、聞こえてなかっ、た?」
 おずおずと訊ねる。その問いに、彼女は頬に手をあてて首を傾げた。
「は? ……何がよ、あんた何か言ったかしら?」
「え、ううん、なんでもないよ! うん!」
 彼女は本気で心当たりがないようだった。一気に心が晴れ上がる。このぶんだと心に虹のひとつやふたつかかっていてもおかしくはない。
 勢いに任せて彼はぴょんっと立ち上がった。ああ、素晴らしい朝だ。
 弟子のくるくる変わる表情に小さく笑みをもらして、女性はベッドからおりて伸びをひとつ、した。
「あー、いい朝ね! よく寝たわあ……」言いつつ、あくびをひとつ。目をこすりながら、訊ねる。「クライブ、朝ゴハンできてる?」
「うん、できてるよ、お師匠さま! もう下に準備してあるよ」
「あーもう、いい子ねクライブ! あんたみたいに出来た子が弟子に来てくれてるおかげで、私助かっちゃうなー」
 彼女は、嬉しすぎるとでも言うかのように眉を寄せて笑った。
 クライブも嬉しかった。そうだ、そうだよ、お師匠さまが喜んでくれてるんだから、いいじゃないか。お師匠さまはボクを頼ってくれてる。だからボクはそれに応えようとしたんだ――
 彼もそのあどけない顔に笑みを浮かべて、女性の服の裾を引っ張った。
「じゃあ、下行こうお師匠さま! 冷めちゃうよ」
「そうね、あったかいうちに食べたいものね」彼女はにっこりと応える。「ていうか私お腹減っちゃったな。先行って食べてるわ」
 クライブは眉をひそめた。一緒に行くんじゃないのか。先に食べてるってどういうことなのか。ボクは行けないのか。
「だってあんた、その棚直さなきゃでしょ」なおも彼女はその美しい笑みのまま、言う。「私、そんなの待てないわよ」
 その言葉の意味を飲み込むまでに、少しの時を要した。
 その間に彼女は極上の笑みを浮かべ、その長い髪をさらりとなびかせ去っていった。
 一人取り残された少年は暫くそのまま立ち尽くしたまま――
 やっぱりお師匠さまなんてキライだ。
 行き場のない想いを胸に、彼は陳列棚に手をかけた。


 クライブが片付けを終えるのと同じ頃、階下の食卓。――女性の部屋ほど、豪奢な印象はない。落ち着いた、品のいい空間だ。
 彼女の眼前のテーブルには、弟子が朝から用意していれくれた料理、の、空き皿が並んでいた。既に食後である。
「はぁー、食った食った!」
 彼女は多少膨れた腹を、ぽん、と叩いた。
 弟子のクライブの作る料理は本当に美味しい。彼女とてこの若き弟子に感謝している。本当に感謝している。
 あんな無情なことをむげに言うのは、彼を思いやってのことなのだ。別にいじわるを言っているわけではない。
 "働かざるもの食うべからず"だ。彼は自分の責務を終わらせねばならない。うむ、自明の理だ。
 ――その言葉を彼女に適用するならば、彼女が弟子を放置して朝食にありつく権利はどこにも存在しないのだが、まあ、そこはそれ、である。彼女の中では、他人は他人、自分は自分、なのである。自分に耳の痛くなるようなことを適用することはない。自分を棚に上げるのは既に基本作業だ。
 それゆえに弟子に横暴呼ばわりされていることに彼女は、気づいてすら、いない。
 ――とん、とん、とん。
 随分と軽い印象の、その階段を下りてくる足音は、弟子のものに違いない。
 案の定暫くすると、廊下の角を曲がってクライブが現れた。そうだ、早速挨拶しなければ。
「あらクライブ、お疲れサマー! おいしかったわよ朝ゴハン」
「そーですか、そりゃー、よかった……」
 彼女のあまりに晴れやかな笑顔と対照的に、少年の顔は既に諦めの域に入っていた。
 無理もない、が、彼女にはよく理解できなかった。
「なぁーによ、こんないい朝にそんな暗い顔して? 勿体無いわよ?」
「ゆうびんとってきます……」
 ふらふらと彼は玄関に向かってゆく。「あら」と呟く彼女の声を背に。
「……駄目ねぇ、人生楽しまなきゃなのに。育て方間違ったかしら?」
 むしろ育ててもらっているのはお師匠さまのほうなんじゃないの。
 ――彼は突っ込みたい気持ちを必死に抑えていた。

 †

「あら、郵便結構来てるわね。結構結構――商売繁盛はすばらしいことね」
 女性は、テーブルの上――食器は勿論弟子に片付けてもらった――に広げられた封筒たちを眺めて、腕を組み満足げに頷いた。
 ――ここは村外れの丘の上にある人形店、「ドルチェ」。小奇麗で品の良いたたずまいのちいさな家だ。
 彼女はこの店を営む有名な人形師だった。御年二十五歳の彼女は自分の過去を決して語ろうとはしない、が、早くからこの仕事をしていたと弟子には話していた。その弟子も、七歳の時に身寄りを亡くし、様々な遍歴の挙句に彼女のもとに辿り着いた。やることもないので、弟子として頑張っている。ついでに家事までやらされることになろうとは、誤算だったが。
 クライブはテーブルに広げられた封筒を一通手に取り、訊ねた。
「ねえ、お師匠さま、お師匠さまの名前ってなに?」
「私の? ……その封筒に書いてあるでしょ?」
 さも当然のように言う。言われたとおりに少年は封筒の宛名欄に目を走らせる。書かれた名前は「レース・アルカーナ」。
 だがそれが本名でないことくらい、彼にだってわかる。もともと彼は勤勉なのだ。彼は師匠に向かってにこっと微笑んだ。
「で、……どういう意味か言って?」
「"神秘"あるいは、"謎"。個人的には神秘のほうが好み」
「…………」
 それもさも当然のように言う。
「それ、思いっきり偽名だよね」
「あら、勘違いしてもらっちゃ困るわね」師匠は弟子の半眼に、ウィンクで応える。「本質を表す言葉に、偽りは存在しなくてよ?」
「だからああああ」
 クライブは一気に脱力した。封筒の散らばった机に突っ伏す。
「なによ。神秘的な女は美しいのよ」彼女は口を尖らせたが、すぐに思い直したように、ころころと笑う。「あ、でもお子ちゃまにはわっかんないわよねー」
 弟子はもうぐうの音も出ない。
 机に顎をついたまま、ただただ半眼で師匠を睨んだ。おかしい。全くもって話が噛みあわない。
 しかし師匠は弟子の半眼も心中も何も察することなく察することさえしようとしないまま、得意げに人差し指をぴっと立てた。そしてそのまま、くるくると回したまま続ける。
「大体あんたはねぇ、めんどくさく考えすぎなの。心のままに生きるのが大事なのよ。美味しいごはん、快適な眠り。ストレスを溜めないことが重要ね! 私がこんなに美しいのもそのおかげだわ。あと適度な仕事も達成感を得られるからいいわね。好きなことを職にできるのっていいわよーって、聞いてるのクライブ? ねえってば、おーい」
 回していた人差し指で、弟子の額をつつき倒す。
 知ってる。知ってるよ、お師匠さまの言ってることは当たってる。ボクはめんどくさく考えてしまうほうだ。美味しいご飯も大切。快適な眠りも必要。ストレスを溜めないことだって、心地よい生活を送る上では最善の生き方だと思ってる。
 ――でも、ストレス溜まってるのは誰のせいだと思ってるの。
 無抵抗のまま人差し指に突かれながら、クライブはふてくされた。

 無駄に楽しそうな師匠の笑顔が、今日も妙にまぶしかった。