3 変貌

 あれから、どれくらいの時が流れただろうか――
 ジャキはふと物思いに耽ることがある。
 誇り高き王子であった時代は遠く彼方に。永遠の王国ジールに戻ることも出来ず、そして彼はひとりゲートでこの中世の時代に飛ばされた。最愛の姉の居所も知れぬまま、こうして何年経ったことだろう。
 いや、――もう自分はジャキと呼んでいい存在なのだろうか。
 もう、七年にもなるだろうか。もう自分より他に彼が誰なのかを知るものはなく、既に、確かにあの日々を自分が過ごしたのかどうかすら、不確かになっている。ただそれを確かめることが出来るのは、幼き日に姉がくれた、おまもりだけだ。
 中世に単身落ちた自分を拾って育ててくれた――というよりは何かジャキの魔力に恐れをなして将来取り入ろうと色々世話をしてくれているらしいビネガーとの付き合いのほうが、既に最愛の姉と過ごした日々よりも長くなってしまっている。お世辞にも美しいとはいえないビネガーを見ていると何か虚しい気持ちになってくるのは気のせいではないだろう。何しろこの男、失敗するわ間抜けだわ第一の部下とか自称するようになってからも人に頼る癖は抜けてはいない。美しい姉を思い出すにつけ、その落差は目に見えて大きい――まあ、これまでの恩もあるからそんなことははっきり言えるわけではないが。それに、まあ、嫌いでもない。好きだというわけでもないが。
 まだ力は完全ではない。まだ自分が未熟者だということくらい感じていた。まだこの魔族の手を借りていかねばならない。何も行動を起こすことなど出来ないから――
「魔王さまァ〜ン」風の中、気の抜ける声が、崖下から彼の耳に届いた。「お夕食よン」
 ビネガーが部下だと公言していたマヨネーだ。姉のサラほどは美しくないにしろ、それなりに整った容姿をした女――のような男だ。彼も空魔士と呼ばれる魔道士である……恐らく。
「わかった」
 返事だけ返して、ジャキは崖のふちに立ち尽くしたまま空を仰いだ。自分ひとりの時間を過ごすにはこれほど良い場所はないだろう。自然の美しい景観が広がる。そこは、一面のくれないいろを、している。
 姉と見た空のいろ。姉の髪の結い紐と似たいろをした空のいろ。姉はいつでも自分の側に居て、そして優しく微笑んでいた。
 ジャキとてあの後姉がどうなったかを知る由もない。消える間際に見た姉の焦燥感に満ちた表情。もう逢えないかもしれない彼女の想い出ばかりが、胸をよぎって――
「――あね……ぅぇ……」
 微かに紡がれた言葉は風にとけてゆく。口に出してみたところでもう彼女には届かない。また逢うことが出来るのかどうかも分からない。ただひたすら、姉を破滅から救うことの出来なかったことが悔やまれてどうしようもなく。幼かった自分には何の力もなく、姉を踏み台にして得られた幸福に酔いしれている光の民を憎みながら、自分だって姉を踏み台にして生きていたのではないかと――優しかった姉は何も言わない。あなたは何も心配しなくていいのよ、ジャキ。そう、いつも言って、微笑んでいた。
 ――一筋、涙が頬を伝う。
「如何なされましたか、魔王様」
 背後から聞こえた声に、ジャキはすぐさま涙を拭って振り向いた。「――ソイソー」
「何を悩んでいるのかはわからないが、あまり悩まれますな、魔王様」
 穏やかなその男――ビネガー曰く自分の部下だという、外法剣士ソイソーだ。ビネガーやマヨネーのようにおちゃらけた男ではなく、実際にジャキが一番信頼を置いているのはこの男だ。
「僕は魔王なんかじゃない」目の前の剣士の目を真っ直ぐに見て、まだ若い、かつての王子は言う。「僕は――まだ君たちから様付けで呼ばれるほど偉くなんかない」
「――俺たち魔族の誰を貴方に仕向けたとて貴方に勝てるものなど居まい。貴方の魔力は絶大なものだ――忘れることなきよう」
「それを覚えていたからって何になるんだ」
 絶大な魔力――それが、一体何になったというのだ? 生まれてからこのかたジャキは力など憎むべきものでしかなかった。母を狂わせ、姉を苦しめ――絶大な魔力を持っているというそのことだって忌まわしい。心ごと閉ざして、力など誰にも見せずに。強い魔力を持つことが誇りのあのジール王国においてジャキは異質な存在であったに違いない。そんなものは誇れるものではないのに――
「修行の成果ですかな。昔はなにか抑えられていたようでもあったが、成長しているようだ。貴方が幼い頃よりも格段に強い力を感じる」
「……」
 こんなに忌まわしいと感じている、類稀なる"力"のおかげで、彼はひとの身でありながら魔族の長として君臨出来るという、可能性がある。皮肉なものだ。ジャキは目を伏せた。
「そしてその魔力が徐々に貴方を変貌させている」
「……!」
 反射的に、耳を抑えて目をかたく瞑った。
 ――気づいては、居たのだ。瞳が底暗く炎のようなものを覗かせるようになってはいた。それに、かつてはひとの耳をしていたのが、だんだんと魔族のような尖った耳に――
「僕、は――嫌だ――変わるのは……嫌だ」耳を抑えたまま、かぶりを振る。姉とかけ離れていく。ますます自分がジャキではなくなっていくのではないかと――
「変化を受け入れずして何が出来るというのか?」
 ソイソーがかぶりを振るジャキをじっと見つめて、言う。
「貴方は何がしたい。変わらずにいて、何をしようというのか?」
「僕――は」
 辛そうに、かすかに目をひらく。
 ――幼き頃に垣間見たあの強大な力。母を狂わせたあの力。姉を苦しめた、あの――
 あの日から中世で生きることを余儀なくされたジャキが、いつも心のうちに秘めていた思い。全てを破滅に導いたあいつ――奴さえ居なければ――諸悪の根源は全て――
 静かに手を下ろす。知らず知らずのうちに拳を握った。フラッシュバックするあの頃の光景――魔神器、それを制御する姉、狂気に満ちた笑いを浮かべる母、そして彼女がいつも言っていた言葉――ラヴォス神――
 弾けた。強い憎しみと怒りが胸の内を駆け巡る。握った拳が、震える。
 全てが姉を押しつぶそうとしていた。母はラヴォスの力に取り付かれ、そして強い魔力を持つ姉を利用して。そして姉は魔神器の制御のために来る日も来る日も疲れた顔をしていて。微笑む顔が痛々しくて――そしてその姉の苦しみの上でのうのうと平和な生活を送り続ける光の民。全てが憎らしく、そしてその全ての諸悪の根源は、ラヴォス――
 底冷えのするような表情で、ジャキは拳を握り締める。強く、強く――
「――奴を」
 その後に何を続けようとしたのかは、ソイソーには分からない。だが彼は口の端をかすかに上げて、若き未来の魔族の長の前に跪く。
「貴方はいずれ魔族の王として君臨なさるだろう。その時はその力で全ての者を使うと良い――貴方はその目的の為に力を付けることだけを考えればいい。私たちは魔族の長に力を貸そう――そして貴方は魔族を救ってくれ」
「……ソイソー」ジャキは彼を見下ろした。「有難う」
 穏やかに彼は頷く。
「それでは、失礼」――そして身を翻し、姿を消した。
 風の中には、もう誰もいない。
 ――ラヴォス――ラヴォス、ラヴォス、ラヴォス!
 憎しみが彼を支配してゆく。ジャキは手のひらを見つめた。
 いつか、あの忌まわしき偽りの神を、この手で――
 ぎゅっと手を握る。
 この力を最大限に使ってやる。全てを利用してみせる。そして、奴を――
 例え自分が自分で無くなったとしても――


 彼は徐々に、だが確実に変貌を遂げていた。
 その姿も、そして心さえも――