01 路地裏の黒鴉

 ――食い物が食えない日なんて、そう珍しいわけじゃない。
 だから別に、何だというわけでもないのだ。

 俺は肩で息をしながら路地裏の汚い壁にもたれ掛かってへたり込んだ。
 まだ日は昇りきらない。
 だいぶ早い時間なのだろう。やや薄暗く、薄汚れた印象のある空を見上げた。長い前髪の隙間から覗くのは、薄ぼんやりとした太陽と、あとはぺかぺか光る古びた汚い街灯だけだ。何の精細もない。

 全く、今日も朝からハードな運動をさせられたものだ。空きっ腹にこの運動である。呼吸は整わず、何だか頭もぐるぐるしてきてよくわからない。
 とにかく、まあ、"大丈夫"でないのは確かだった。
 結局今日も飯を食いっぱぐれたということだけは、自分の腹の音で明瞭に分かる。腹が減って気持ち悪い。
 くそったれ、何も考えられねえ……
 最後の食事は数日前のネズミだったろうか。それとも雑草でも口にしただろうか? ――どちらでもいい。何も入っていない腹は、飢えを訴え続けていた。
 俺の持ち得る唯一食物を得る手段――窃盗だ――ですら、パンを取り落とし路地裏に転がり込んだ時点で、勝敗は決した。俺の完敗だった。
「……畜生……今日も、失敗……かよ……」
 急激に肩の力が抜ける。
 俺は自らの失敗を思い、一人ごちた。

  †

 灰色の街。色を失った街。偽りの光の瞬く世界。
 俺の生きる"世界"――この閉塞感に満ちた街を形容するとしたら、おおよそそのような表現で事足りるだろう。
 街灯には蜘蛛の巣がはり、虫が飛び交う。壁という壁にはごろつきどもの自己主張と見られる殴り書き。乱暴にはがされた貼り紙の跡。割れた窓、飛び散る硝子片。向こうに見える大通りには、巨躯の獰猛そうな犬が見える。隠密行動中の俺の大敵だ。そんな仇敵も、この時間とあっては深い眠りに就いている。
 そう、見慣れきった、薄暗い靄に包まれた街の、いつもの景色だ。
 俺は嘆息する。朦朧とする意識の中、無意識に天を仰いだ。
 ――天には神がいる、という。
 この街の連中がそう口にしていた。俺はそんなものは知らない。"それ"は、人を救済し、悪しき者に天罰を与える存在だという。
 俺はそこまで考えて、口の端をわずかに上げた。馬鹿馬鹿しい。
 そんな尊い神サマとやらがこの天に居る、と? ――お笑いだ。こんな空に存在する者など、ひどく醜いものに違いない。美しいわけがなく、ましてやそれが人を救済など出来るはずもない。
 空はどこまでも晴れることもなく日の光を遮る。祈りも届かず聞き届けるものも存在しない。
 この街にはただ、利己的な住民や俺のように薄汚い畜生が巣食うだけだ。

 蜘蛛の巣のように張り巡らされた細い路地が交錯するこの灰色の街に、俺は物心ついた時から暮らしていた。
 家は無い。
 この街の路地すべてが俺の庭だった。――と、表現すればいいだろうか。そう言ってみれば、聞こえはいい。何にせよ、この街の路地を熟知していると言ってもいいだろうが。
 家も無く職も無い俺は、長年この路上で生活してきた。食物にありつけなければ、奪い取ることで得た。それも出来なければ、俺よりもか弱い畜生を狩ることで何とか命を繋いだ。
 ずっと、この街で暮らしていた。それでも、俺はこの灰色の街の名前も知らない。
 俺は文字が読めなかった。街の連中もわざわざこの街の名を呼ぶこともなかった。
 だからこそ、俺は――この街を、"世界"と名付けた。この街が、俺の世界のすべてだったから。
 それはとりもなおさず、俺が世界を醜く汚いものと認識している、ということに等しい。

 街は今日も灰色だ。

 限りなく自然な色を失った街に、取って付けたような作り物の下品な光がちらつく。
 ネオン、と呼ぶらしい。"自然な色"など見たことのない俺にとって、俺の世界に存在する"色"は、ただその溢れんばかりの原色たちだけ。
「――空が青い、なんて、誰が言ったんだったか……な」
 遠い面影が過ぎる。そんな"素敵"な事を大層楽しそうに語っていた、懐かしい存在。しかしそれももう俺の傍には存在していない。俺は"青"を知らないまま。
 俺は力なく目を閉じる。閉じた瞼の裏で明滅する光は、今の俺にとってただ鬱陶しいものでしかなく。  
 ちらつく残像は、未だ振り切れない。

 ――しかし、俺がその残像を意識出来たのも、ほんの束の間の事だった。

   †

 無機質な街の風景がにじんで広がったように曖昧な色を見せる。そんな、おぼろげな背景。
 そこに、ただ二人だけが存在していた。

「ねえ、にいちゃ。空って、青いの?」
 あどけない面立ちの、まだ幼い少年。年の頃なら十歳前後だろうか。黒い髪に黒曜石の瞳、ややぶかぶかの黒い着衣を身に着けたその子どもは、腕の丈に合わない長い袖を無理やり捲り上げて、傍らの青年の服の裾を引っ張った。
 その煤けた淡い金髪の青年――既に成人してから十年以上は経っているだろう――は、ん、と少年を見下ろす。
「何だ何だ。いきなり何の話だ、坊」
 極めて真剣に訊ねてくるその少年の顔を、さも面白そうに覗き込む青年。こいつはまた何を言い出したかなという、面白がるような表情しか見て取れない。
 しかし少年は、そんな彼の様子には欠片も気づかずに、真剣な面持ちのままだ。
「街のやつらがいってた。きょうは晴れてるから空がわりかし青いって」
「なーるほど……連中にとっちゃあこの色でも青いのか……」
 少年の言葉を聞き、青年は頭を掻いた。興味深げな顔で、うんうんと頷く。
「ねえ、青いってなに?」
 一人で面白がっている様子のその青年の表情に機嫌を損ねたのか、まだちいさな黒い少年は、そのちいさな両手で青年の腕を掴みぐいぐいと揺さぶる。捲り上げた袖がするすると下りてきてやがて少年は指先以外がすべてすっぽり隠れてしまった。
「おとととと。やめれって」青年は笑いながら少年を静止する。袖を捲り上げてやりながら、会話は続けた。「青か、んーっと……色のことだな。えーっとだな、色ってのはわかるか、坊」
「いろ?」
 首を傾げる少年に、青年も首を捻る。
「あー……えーと、そうだな。坊の髪と、カラスの色は同じだ。そんでもって、パンの色と、そこの壁の色も同じだな。……あー、わかるかな」
 具体例を挙げてみる。モノも常識も知らない少年に何かを教えるのは至難の業だ。伝わるだろうかと、青年は片手で顎をさすった。
 少年は暫く難しい顔で唸っていたが、やがてはっとした顔になる。
「……パンのいろと、壁のいろと、あと、にいちゃのふくのいろは、同じ?」
「おおっ! そういうこった。坊は頭がいいなー!」
「あたりまえだ」
 青年は大袈裟に拍手してみせる。さも当然と言わんばかりの少年。青年はこの小生意気な弟分のそんな様子に、「あいあい」と軽く受け流しながらも、満面の笑みで頭を撫で回してやった。
「話を戻すと、だ。青ってのは、空の色なんだけども……」青年は空を仰ぐ。建物と建物のシルエットの隙間から覗く空は、濁った色。「俺は、到底この街の空は青いとは言えないと思うんだけどねぇ」
「そら、青くないの?」
 端的な弟分の問いに、青年は首を傾げる。
「うーん。この街は、な。空気が汚れてるせいだろうかな」
「この街のそらは、青くない」
 やはり端的に結論だけ飲み込む少年。青年は笑った。
「おう。――いっぺん、坊にも青空って奴を見せてやりてえな」
「あおぞら?」
 聞いたことのない単語に、少年は首を傾げる。青年はにかっと笑って空を仰いだ。そこに"青空"など存在していない。しかし彼の記憶にはあった。"青空"、が。
「ああ、ほんとの空ってもんはスカッと晴れててな、えっと……まあ、気持ちのいい色なんだ。何て説明していいかわからんが」
「わかんねー」
「うるっせえよ」投げやりな説明に口を尖らす少年の頭を、思い切り掻き乱してやる。「ん。そうだ、坊、俺の眼を見てみろ」
「ん?」
「俺の眼の色が、"青"だ。空ってのは、こんな色をしてるもんだぜ」
 きょとんと眺める少年に、青年は僅かに顎を上げて親指で目を指し示してみせる。その色が、よく見えない。
 上向いたら、見えないじゃん。
 少年は、立ち上がってよく覗き込もうとした。
 しかし次の瞬間、滲んで消える背景。見えなくなる兄貴分。

 全てが暗転したその世界で、ただひとつの声が響く。
 ――鳥が、鳴いている。 



 俺はうっすらと目をひらいた。
 見慣れた薄汚い路地裏の風景が目の前に広がる――壁にもたれかかったまま、俺は眠り込んでいたらしい。日も先ほどよりだいぶ高くなっている。
 懐かしい夢を、見てしまった。
 幼い頃の自分と、慕っていた青年の夢。空の青さを、得意げに語っていた兄貴の夢。

 あの頃から随分と時が経ってしまった。
 服の丈だってもう余ってはいない。あの頃は肩までだった髪も随分伸びた。今はただ無造作に縛っているだけだ。そして、何よりもう隣には居ないあの男。――随分と時が経ってしまった。
 何だってこんな夢を見るのか。走馬灯だろうかな、と冗談めかして考える俺の視界に隅に、蠢く小さな"何か"が映る。
 俺の足元だ。力なく目をやると、小鳥が無邪気に遊んでいる。先程の鳴き声はこいつのものらしい。
 特筆すべきは、その目の覚めるような美しい色だろう。彩度の低いこの街の風景の中にまるで似合わない、ただ一点浮き上がるような鮮やかな色。俺はこの色を形容する言葉を持ち合わせていない。ただ、この街に似合わない明るい色だと思った。
 俺は僅かに足を動かす。
「……おい、そこ居るなよ、あぶねえ。喰うぞ」
 冗談混じりに鳥に語りかけてみる。言葉を分かるはずも無いその小鳥は、一瞬鳴くのを止めた。が、すぐにまた鳴きながら俺のまわりをぴょこぴょこ跳び回る。なんとまあ、無邪気なものだ。
 俺は無意識に口の端を上げる。
 大概近付けば鳥は逃げていくものだ。逃げない鳥というのも珍しい。それどころかこいつは、だらりと地についた俺の手の甲に飛び乗ってきた。
 ――運のいい奴だ。今の俺が動く気力もないということを知っているのだろうか?
 いつもの俺ならこいつを引っ掴んで喰ってしまっていたかもしれない。俺は慢性的に困窮していた。食えるものならなんでも食った。次にいつ何を食えるのか、見通しなどまるで立たないからだ。
 だというのに、今、無防備に俺の手で遊ぶ小鳥という格好の獲物を見ても、動く気にもならなかった。何をどうしようという気も起こらない。
 もう、どうでもいい気すらしていた。
 ――これが、限界かも、しれねえ。
 そんなことが頭を過ぎる自分に、思わず自嘲的な笑みが口の端に浮かんでしまう。
「……随分、お前の仲間たちを喰っちまったんだよ、俺。……怖くねえか、お前はよ」
 小鳥は首を傾げた。それから、また鳴いてみせる。
「……このまま何も喰わないで……この世界とオサラバするのも悪くねえ気がするよな。そう思わねえか、お前」
 ――俺は、何をぶつぶつと小鳥なんぞに話しかけているのだろうか。気でも触れたか、と自分に対して思う自分が何故か可笑しかった。
 そんなことはもうどうでもよくなっていた。意識がはっきりしない。半ばうわごとだ。
 俺はそっと、小鳥をのせたままの手を顔に寄せた。鳥は逃げもせずに大人しくしていた。そのやわらかな羽が頬をくすぐる。
 こいつは生きている、と、今更ながらに感じた。
 散々、喰い尽くした存在。食物としか認識していなかった存在。それは、あまりにも温かく。
 久方ぶりに感じた"生命"は、そのあたたかさは、あまりにも長い間自分の中から失われていた感覚だった。
「…………お前、小さいくせに温けえな」
 小鳥はただ、一声鳴いた。

 ――不意に脳裏に瞬いては消える光景。遠い思い出の残照。
 空が青いことを語り、自らの瞳を指し示して笑ってみせた懐かしい男の顔が頭をかすめて、消えた。

 そう、俺にもかつて、慕った人間がいた。
 路上生活を共にし、俺の育て親になった、気のいい男。
 こんな俺を護り、俺に全てを与え、命を落とし、死してからも街の連中に"馬鹿な男"と罵られ続けた男。
 他者の為に全てを捨てた、愚かで優しい存在。
 こんな俺を憎まず、嫌わなかった。俺を、生きる意味だと言った。
 俺の知る、唯一の愛情。
 そして、その男の瞳の色は――

「――そうか、お前は、"青い"んだ……」
 俺はここに至ってようやく小鳥を形容出来る言葉に思い当たる。
 その小鳥の色と、記憶の中の男の眼の色は酷似していた。鮮やかに透き通るような、明るい色。"空"の、色。
(でもな、兄貴……空ってもんはこいつや兄貴の眼みたいに、綺麗なもんじゃねえよ。……嘘ばっか言いやがって……)
 俺はふっと笑う。
 いつもおどけていたその人は、俺に生きろと言った。生きて、生き抜いていけと、言っていた。

 だけどな、兄貴。
 俺は既に、堕ちた人間だ――誰も見向きはしねえ。兄貴みてえに、俺に入れ込む物好きなんざいねえんだ。俺の存在なんて、あって無いようなモノなんだよ――
 記憶の中のその男に抗議するように、俺は嘆息した。
 何故だか突然、全てが馬鹿馬鹿しく思えてきてしまった。
 誰も俺を望まない。俺も他の誰をも必要としていない。俺に生きている意味などない。それなのに、俺は生にこれほどまで執着している。何がしたいというのだ、俺は? ――思わず、自嘲する。

 ああ、そうだ。
 独りになってからも、俺は兄貴以外を信じようとしなかった。概ね誰もが俺を邪険に扱った。だから俺は、人を嫌うようになった。兄貴の言うとおりに"ただ生きよう"として、モノを盗むことも覚えた。血の繋がらない幼い子どもに入れ込んだ兄貴を愚かと罵る街の住人に掴みかかりもした。ますます連中を憎むようにもなった。やがて、住人たちも俺を嫌った。それは当然の成り行きと言えた。

 誰にも愛されない、嫌われ者の"路地裏の黒鴉"――"クロウ"。
 それが、俺に与えられた名前。


 ――愛情など、存在しないのだろう。
 求めることがなければ失うこともない。俺は自分を護るために、誰も信用しなかった。信用できる人間もいなかった。
 ――俺はこの世界に憎悪を抱いているのだろう。いや、それともそれすら諦めているのだろうか。麻痺しきった感覚では、もうそれも分からない。
 俺はただ、生きていた。ただ生きているだけの畜生に成り下がっている。それだけは、知っていた。生きる意味も目的もない。
 それでも、この世界にしがみついている。生きたい。生きたくない。でも死にたくない。死ぬことなど、できやしない。

 ああ、そうだろう。
 俺は臆病な人間だ。
 

  †

 ――不意に、小鳥が鋭く鳴いた。
 いつの間にか意識を手放していたらしい。まどろみに落ちていた意識が、急速に覚醒する。一体何だというのだ、いっそ眠らせてほしいのに。
 俺は、顔を上げて頭をめぐらす。さぞ不満顔だったことだろう。しかし、目に映ったものに、思わず目を見開く。
 今まで自分が激しく求めていたモノが、そこにはあった。それは、俺に向かってすっと差し出される。
 パン、だ。貴重な生きる糧。――俺は思わず喉をこくりと鳴らした。
 視線はそのパンから白く細い腕へ移り、そこを辿るように差出人の顔に移った。いつの間に近付いたというのだろうか、やけに白い印象の少女がそこに居た。
 彼女は、パンを差し出した手はそのままに、小首を僅かに傾げて、すこし怯えたように俺の顔を窺う。
「……お腹……空いてるんでしょう……?」
 鈴の音のように澄んだ、震えるか細い声で、その白い少女は言った。

  †

「……お腹が空いてらっしゃるようだったから……わたし……」
 その白い少女は、俺と横並びになるような形で、ちょこんと壁にもたれ掛かって座り込んでいた。少し、距離を置いている。
 そんな彼女はよそに、俺は脇目もふらずにパンに貪り付いていた。
 俯きがちに、だが懸命に、何か言おうとしていたが、俺はそれどころではなかった。何しろ久々に手にしたまともな食物だ。先程までこの世とオサラバ云々言っていた人間の行為ではないだろうが、やはり生理的欲求には敵わない。何もかも置いておいてとりあえずは腹を満たしたかった。
 話を聞く様子もなくパンに食らいつく俺を見て、少女は口を噤んだ。
 とりあえずはそっとしておいたほうがいいと判断したらしく、先程まで俺のまわりで戯れていた小鳥に、自分の持っていたパンをちぎって与え始める。その様子をちらりと横目で見ながらも、俺はパンを貪った。
 やがて俺は与えられたパンをひとつ食べ終えた。一息つく。
 少女はおずおずと俺の様子を窺い、鞄をあさり始める。やがて出てきた乳白色の液体の入った瓶をこれまたおずおずと取り出した。
「……あの、ミルクも……飲みますか?」震える鈴の音のような声で、怯えながらも彼女は瓶を差し出してくる。「どうぞ」
 彼女の瓶を差し出す手を彷徨わさせたまま、俺は訝り眉根を寄せた。どうにも、気前が良すぎやしないか?
 俺はそこで初めてまともに少女の顔を見た。
 ――年は、十代半ば前後か。やけに華奢で、儚い印象を受ける。きれいな顔立ちをしている、と思った。小さな顔、たれ目がちの瞳、通った鼻筋、小さな唇。その口元は不安そうにへの字を描いていた。
 その整った顔も、肌も、透けるような白い肌だ。肩より少し長めのふわりとした髪も、どういう色なのかは形容しがたいが、とにかく白っぽい淡い色をしていた。小奇麗で上等な身なりだが、これも基調は白なので、なるほど印象がやたらに白いわけだ。
 その白い中で、ただ彼女の双眸だけが目の覚めるような鮮やかな紅い色をしていた。
 まるでうさぎのようだ――と頭の片隅で思う。怪訝そうにじろりと睨みつけられ、そのうさぎのような少女は、その紅い双眸をおろおろと彷徨わせて、もう一度おろおろと遠慮がちに俺の顔を見た。返事を待っているらしい。
 さて、どう判断していいものか――
 こんな上等な食事は俺の人生でも極稀だ。食べ物と飲み物が、人間サマの食い物が同時に飲み食い出来るだなんて事が、俺の人生に何度あっただろう?
 食うだけ食っておいて今更、と自分で感じないこともない。しかし生憎と俺は捻くれ者だ。そう育て上げたのは、この街の連中なのだ。俺はいつでも欺かれ背を向けられ踏みにじられていた。誰も信用ならない。他人とは、俺を蔑み踏みにじるもの。誰もがお互いを欺き合うもの。
 何か、裏があるのではないか? ――嫌でも勘繰ってしまう。
 妄想に取り付かれている、と、笑うなら笑えばいい。下手に信用して何度手痛い目に遭ったか分からない。
 俺は猜疑心に満ちた目で、彼女を見据えた。
「――何が狙いだ。俺に何をさせたい?」
 問いかけに、こちらの顔を遠慮がちに見つめていた少女の紅い双眸が大きく揺れる。
 長い睫毛がゆっくりとおりてゆき、彼女はまた俯いた。
「わ、……わたしは……っ」彼女はミルク瓶を持つ手を弱々しくおろした。「下心、なんて、ありません……お腹が、空いてらっしゃるようだったから、……だから……っ」
 俺は見据えた目を離さない。弁明をしながらも泣きそうな顔でこちらを窺っていた少女は、俺と目が合った瞬間、怯えた目をして震える。――その表情に演技の色はない、ようだが。
「生憎と、そんな言葉を素直に受け取れるほど真っ当な環境で育ってないんでね」
「……わ、わたしが嘘をつく理由なんて……っ、ない、です……ありません……」
 彼女はいっそう縮こまった。いやいやをするように、首を振る。俺は追及を止める気はなかった。
「――見れば上等な身なりをしてるみてえだしな。金持ちの道楽だっていう可能性もある。俺を飼い慣らして手なづけてみるか? 聖人ぶって偽善者ごっこか? ああ、そうだな、くだらねえ自己満足に浸りたいだけかもしれねえよな――この街の連中にゃ、お似合いの道楽だろうよ」
「か――金持ちの道楽だなんて、わたし、そんな、もう、家もないのに!」少女は顔を伏せて、また首をふるふると振った。「……ひどい」
 俺は、ぐ、と詰まった。思わず追及を躊躇う。
 その震える声音からは本音を突かれてしらばっくれるような様子は感じられず、ただただ少女の傷ついた様子しか窺えない。この反応を見る限り、この娘が道楽やら何やらで俺をからかっているようにも見えなかった。人間不信の俺ともあろうものが、少女の様子に思わず口を噤む。
 いつの間にか少女の肩に乗っていた先程の青い小鳥が、俺を責めるように鳴いた。ええいうるさい、俺を責めるな。
 俺は先程の彼女に負けず劣らず、おずおずと口をひらいた。
「……じゃあ、何か。お前は道楽でも何でもなしに、他人の為に金を使ったってえのか? ……酔狂なやつだな」
「だって……あなたは、弱っていた、し……わたしは、お金、持っていたから……だから、それだけで……だから……」
 少女は俯いたまま、そうぽつりぽつりと語る。その声音はなおも震えながら、それでも懸命だった。
「……は、高尚な行為だな。俺みたいな薄汚いカラス野郎に金使ったって何があるってわけでもねえだろうよ」
 俯いていた少女は、おずおずと顔を上げた。「……カラス……?」
「……俺のことさ。黒い髪、黒い瞳、黒い服、薄汚れた体。物乞いして物を盗んで治安を乱す。……俺はこの街の連中にとっての"不吉な路地裏の黒鴉"なんだよ。ついた呼び名が、"クロウ"。
 ――いい名前だろ? とんだ疫病神だ」
「……クロウ、さん」
 肩を竦める俺の顔を見上げて、少女はおずおずとそう呼んだ。一応街の連中が勝手に付けた呼称なのだが、どうやら名前が確定してしまったらしい。まあ、いい。
「……だから、俺に関わるなんて並の人間はしねえ。……そんなちゃんとした身なりの人間は、特にな」
 俺はちらりと彼女の姿に目をやった。俺のずたぼろの黒い服と、彼女の小奇麗な白い服とは見事に対照をなしている。
「だから正直、理由を聞くまで本当には納得できねえな。単なる親切心でそんなこと出来るだなんてこた、俺は信じられないタチなんでね。――どうして、お前みたいなのがここにいる? お前みたいのはこんな路地裏にいるような人間じゃないだろう」
 見据える俺の目から、彼女は気まずそうに目を逸らす。
 少女は暫く、黙り込んでいた。
 街の通りのほうからは喧騒が聞こえる。そろそろ街の連中が活動時間に入ったのだろう。
 しかしその喧騒とは対照的に、この路地裏はいつまでも薄暗い。
 曇った空の合間を縫うように、街に微かな日差しが届くと、街灯はその役目を終え光を消す。それだけで、もうここは朝とは思えぬ暗闇に落ちる。
 この薄暗さこそが、俺の行く末を暗示しているのだろう。俺は決して光のもとに居てはいけない人間なんだろう――闇に閉ざされたこの街に相応しい。
 少女の返答を待ちくたびれた俺が彼女とは別の方向に意識を飛ばし始めても、彼女は依然口をひらかなかった。それでも俺は待った。
 やがて、少女はぽつりと言う。
「……つかれ、ちゃったん、です」
 全く答えになってはいなかった。俺は眉根を寄せる。
「もう……お金なんて、いらないんです。わたし、生きてちゃ、いけないから……わたしを生かすために、父さまも母さまも、召使も、みんな……」
 全く見当外れのことを、膝を抱いた彼女はぽつりぽつりと語り始める。
 要旨が掴めずに俺は少し苛立ったが、今にも泣き出しそうな彼女に対して口を挟むこともできずに、黙り込んでいた。
「……それ、でも、わたし、まだ……どこに行っても……狙われているんです。おまえは、災厄の化身なんだ、って……
 ……もう、逃げるのも、考えるのも、ぜんぶ、つかれちゃったんです……だから、……だから」
 白い少女は、膝に顔を埋めた。
「生きてる意味も、権利も、わたし、ない、から……生きてても、仕方がない、から……もう、何も、いらないから……だから……」
 俺は眉根を寄せた。どう考えても、穏やかな話ではない。
「……何なんだよ、災厄の化身って?」
 確かに人間は迂闊に外見で判断していい代物ではないだろう。それは俺が痛いほど味わってきている。しかし、この少女は、概ね見た目どおりの人間に見えた。線の細いその少女が、震えるうさぎのようなその少女が、誰かに危害を加えようとするようには思われない。
 少女は俺の訝る声に顔を上げた。不思議そうに、その双眸が俺の顔を見つめる。
「……あなたは……、"紅の双眸"が、嫌じゃあ、ないんですか……?」
 彼女は突然そんなことを言い出した。双眸――両眼のことだ。それがどうしたというのだ――睨みつけてやろうかとも思ったが、俺の眼を覗き込む少女のその紅の双眸は真剣そのもので、俺は思いとどまった。
「……また何で、そんなこと」俺はまた眉根を寄せる。「別になんとも思っちゃねえけど」
 "紅の双眸"――何かはわからぬものの、これが、彼女をどん底にまで陥れた原因だというのか?
 少女は戸惑うように、一瞬目を伏せる。
「……わたしはこの瞳のせいで異端者なのに、……それなのに、あなたは、嫌ったりしないんですか……?」
 恐る恐る、またそのようなことを訊ねてくる。俺は薄く笑った。
「異端者も何も、俺がお前に言えた立場じゃねえだろうさ。……俺はみんなの爪弾き者だからな」肩を竦める。「俺にはお前が異端者だって言われる理由のほうがわかんねえけどな」
 少女は目を瞬かせる。やがて、おずおずと口をひらいた。
「……あなたが、初めてです」少女は俺をじっと見つめた。「村を出てから、わたしを避けないでいてくれる方は……」
 俺は肩を竦める。
「……俺はお前を十分警戒してたと思うけど?」
「でも……、それは、わたしがいきなり近付いたから……でしょう?」
 少し気まずげに、言う。流石に彼女自身も、突然接触してくる人間を不審に思うだろうということは理解しているらしい。
「まあ、な。――ま、正直まだ信用したわけじゃねえが。お前は悪い奴には見えないよ。この街に珍しく、な」
 少女の頬に朱が差す。少し、表情が明るくなった気がした。
 彼女は何かを考え込むように俯き、そしてすっと顔を上げて、俺の眼を覗き込んだ。少し、躊躇いがちに、彼女は口をひらく。
「……誰かに、お話ししたかったんです……
 わたしの勝手な独白です、けれど……聴いてくれませんか……?」
「どうせ、やることもないしな」俺は笑った。「……話してみろよ」
 少女も、笑った。微かにだけれども、はじめて、笑った。
 ――泣きそうな顔をしているより、笑っていたほうがいい、と思った。


  †

 ――遠く、深い森を越えて、更に遠く。
 その村は、黒鴉の住む街とは対照的に、澄んだ空気と明るい日差しに満ちていた。
 自然に囲まれたその村を束ねる"領主"の小ぢんまりとした屋敷も、その村の丘の上にひっそりと建っていた。
 かつては領主と呼ばれるに相応しかったその家も、次第に廃れ散り散りになっていく村々の中において、もはや村長という名が相応しい程に衰退してしまっていた。
 それでも彼らは、穏やかに助け合って生きていた。
 そんな穏やかな村の"領主"の夫婦の間に、十六年前、ひとりの娘が産まれた。
 花のほころぶように笑う娘。春の訪れを感じさせるその生命の誕生。
 誰もがそのちいさな娘を愛し、誰もが慈しんだ。ある者は孫のように、ある者は娘のように、ある者は妹のように。
 子宝に恵まれぬそのちいさな村にあっては、彼女は天よりの授かりもの。
 その娘は、白雪のようにしろく。そう、彼女は、"白雪"――シュネ、と名付けられた。
 そしてその少女は、生まれつき――その両の目から光を失っていた。
 双眸は、かたく瞼に閉ざされていた。

「ねえ、シュネちゃん。もう少しでお誕生日よね。私キッシュ作ろうかな、パイがいい?」
「ありがとう、ルーねえさま。パイがいいな、アップルパイ」
 白雪の少女はいつも笑っていた。ふわり、と。まるで花がほころぶように。
「アップルパイね! ねえ、あと、何か欲しいものってあるかしら?」
 それを聞いて、少女は悪戯っぽく笑った。人差し指を立てて、口元に当てる。
 一番仲良しの幼馴染だけに見せる、"内緒"のサイン。
「あのね、ルーねえさま。村のみんなにはまだ内緒にしててくれる?」
「なあに、何があるの?」一番仲良しの幼馴染、十二歳年上のその女性も、その顔に秘密を共有する者の悪戯げな笑みを浮かべて声を潜めた。「教えて?」
「わたしね、わがまま、言っちゃったの。お誕生日だから」
 少女ははにかむように笑う。
「シュネちゃんは我慢しいだから、ちょっとわがままなくらいがちょうどいいよ。それで? どんなお願いをしたの?」
 女性も、その長い栗色の髪をさらり、と揺らして笑った。
「ルーねえさま、わたしね」少女はとびきりの笑顔を浮かべて、小首を傾げてみせた。「目が見えるようになるかもしれないの!」

  †

「……わたしは、とある田舎領主の一人娘でした。名前は、シュネといいます。年は、十六」
 彼女はまず最初に、そう切り出した。
 口調は意外にもしっかりしていた。あまりに遠慮がちにしか話さないものだから、てっきりそういう話し方をする娘なのかと思い込んでいた。
 俺と少女は、お互いにどこを見つめるでもなく、壁にもたれ掛かりながら薄汚れた石床のあたりに視線を漂わせる。
 両膝を立てて所在なげにちょこんと座り込む彼女は、そのちいさな両手を所在なげに膝の上に置いて、言葉を続ける。
「ちいさな――ちいさな、村の生まれです。やさしい人、ばかりでした。わたしはあの村が好きでした。やさしい両親とやさしい召使、やさしい隣人たちに囲まれて、わたしは何不自由ない生活を送っていました。……ある一点を除いては」
 彼女――シュネは、そこで一瞬口を噤み、どこか苦しそうにその後を続けた。
「――思えば、そんなことは些細なことだったんです。でも、わたしはその一点をどうしても覆したかったんです。
 わたしには、見えなかったんです。生まれつき、何も。――目がひらかれることもなく、光を知ることもありませんでした。数ヶ月前、まで」
 俺は思わず彼女の眼に視線をやる。
 少女もちらりと俺の目を見、そしてすぐに目を逸らした。俯いた白い輪郭を、僅かに差し込む光が縁取る。
「綺麗な村だって、皆が言っていました。わたしもずっと、それをこの目で見たかったんです。わたしのわがまま、でした。数ヶ月前に有名な魔法医の先生にわたしの目の治療をお願いしたんです。わたしは長年の望みが叶うと、……大はしゃぎしていました。なんて、馬鹿だったんでしょう……」
 彼女は悔いるように目を伏せる。
「数ヶ月前……、はじめて、わたしは世界を見ることが出来ました。この目で。最初は光に目が慣れなくて、辛かったけれど、はじめて見るこの村は、光が溢れていて美しかった。ほんとうに、とても、美しかったんです。
 ――わたしはすべてを手に入れた気になっていました。
 だけど、まぶたの奥に隠されていたわたしの眼は、忌み嫌われし"紅の双眸"だったん、です」
 光に縁取られた輪郭が僅かに動く。癖なのだろうか、彼女はふるふると首を振った。横目で見やると、その瞳は光をたたえて揺れている。
 俺は何と言っていいかも分からないまま、とりあえず訊ねる。「――その"紅の双眸"ってのは?」
 少女は一瞬、きょとんとした表情をして俺を見上げた。が、目が合った瞬間に慌てて顔を伏せる。そしてそのままおずおずと口をひらく。
「あ……、……そうなんですね、ご存知じゃあ、なかったんですね。だから、わたしのことも……」
「俺は無学なもんでね。なんせ路上生活者だ」肩を竦める。「心配すんなよ。今更何を聞こうが、そんな馴染みのねえ知識なんざ、お前への見方を変える何のとっかかりにもなりゃしねえだろ」
 俺の方をちらりと見やり、彼女は逡巡しているかのように黙り込む。が、やがて決意したように説明をはじめた。
「……そう、ですね。"紅の双眸"、その持ち主は"災厄の化身"とも言われます。端的に言うと、強大な魔力を持つ人たちのことです。その人間たちは、かつてこの世に存在した紅い眼の邪神が、人間種族の中から選りすぐった強い魔力の持ち主と混血し、この世に災禍を撒き散らすべくもたらした"災厄の種"……なんだそう、です」
「……邪神なんて本当にいるのか? わかんねえけど……いい神サマにしろ悪い神サマにしろ、眉唾モンじゃねえの」
 口を挟んだ俺に、彼女はすこし首を傾げた。
「それは、分かりません。ただの伝説に過ぎないのかもしれないけれど、紅い眼の持ち主の力が高等種の竜族を脅かすほどの強大な魔力を秘めているというのは、今現在事実として認められているそうです。
 ……だから、紅い眼の持ち主は、それだけで忌み嫌われるんだそうです。その魔力を制御できるかできないか、また善悪どちらに用いるか、そんなことは全く意味を成さない。その存在それ自体が、危険の種なんです。……そう、言い伝えられています」
 少女はそこで目を伏せた。少し考えて、口をひらく。
「……わたしの眼をはじめて見た両親も魔法医の先生も、とても驚いて、わたしが外に出ることを禁じました。
 紅い眼のもたらす強大な魔力は人間には過ぎた力だから、制御出来ずに暴走したり、力を悪魔に利用されたりして、結局慎ましやかに暮らす人々に災禍を撒き散らしてきたんです。
 現にわたしの村は、数十年前に紅い眼の人間の暴走によって壊滅状態に陥ったそうです。だから、わたしの眼のことが知れたら、どんな目に遭うか分からないから、と――迷信深い、村でしたから」
「……お前のその力が、何か誰かに迷惑をかけたことがあんのか?」
 俺の問いかけに、少女は首を横に振る。しかしその動きも途中で緩やかに止まり、彼女は自信なさげにゆっくりと俯いた。
「わたしは……何もしていない、つもりでした。けど、結局わたしは、ずっとずっと皆に迷惑をかけてましたから、……わかりません。迷惑……、かけてたかも、しれません。
 ……数ヶ月間家の中に閉じこもりきりで、窓の外ばかり見ていたわたしの眼を村の人に見られてしまったのは、ほんの数日前のことです。家にお客様がいらして、でも皆手が塞がっていて対応できなかったんです。それで、つい、わたし……玄関で、出迎えてしまったんです。この眼が見られてしまったら、どうなるかなんて、わたし……考えてなくて……
 ――わたしの眼の話は、程なく村じゅうに伝わりました。みんな、数十年前のこの村の悲劇の記憶が色濃いから、わたしの眼の話を聞いて、豹変してしまったんです。あんなにわたしを可愛がってくれていた人たちでさえ、みんな。
 わたしは――災厄の前兆、村に災厄をもたらす邪神の化身とされたんです」
 シュネはそこで言葉を切って口を噤んだ。
 震える声のこのちいさな少女の言葉に、嘘の気配を感じることは出来なかった。ただ懸命に、彼女は言葉を紡ぐ。それがあまりに痛ましく思えて、俺は何と言えばいいのかわからなかった――俺の戸惑いをよそに、彼女は続ける。
「怖かった」
 シュネは両膝に乗せて組んだ両の手のひらにきゅっと力を入れて、縮こまった。心なしか、震えている。
「わたしの、大好きな、村の人たちが……わたしを追い出そうとして、……いいえ、殺そうと、して……屋敷に押し寄せたんです。
 両親が真剣な顔で、わたしに言うんです。逃げなさい、って。遠くまで、逃げなさい、って。たくさんのお金と、ささやかな道具を渡して、召使と一緒に馬車に押し込んだんです。村のみんなの聞いたこともないような怒声を聞きながら、わたしもう、何がなんだかわからなくなって」
 声が震えて、途切れる。突然沈黙した少女のほうを見やると、彼女は唇を噛んで俯いていた。
「……わかったから、……な」
 何と言っていいかわからずに、俺はただそう言った。少女は鞄から取り出した布で目元を拭う。そして、暫くしてまた口をひらいた。
「……わたし、あの村しか知らないのに、素敵なやさしいあの村しか知らなかったのに……あの村はわたしの眼の存在で、まるっきり変わってしまいました。
 召使が馬車を走らせて、わたしは、村からどんどん遠ざかっていきました。
 ……皮肉、ですよね……、"見えた"、……んです。村の人が、わたしの父さまと、母さまに……悪魔を産んだ疫病神って、そう叫んで、持ち寄った農具を、……」
「……わかったから」
 繰り返す俺の言葉に、何の力があるというのだろう。静止のつもりの言葉が、力なく響く。
「わたしの……わがままでした。見たかったものが……見えるようになったら、素敵だって、ずっと、思ってて……それなのに……っ」シュネは膝に顔を埋めた。「父さまも、母さまも、悪くないのに……っ、……みんな、わたしの、せいで、死ん、」
「わかったって言ってんだろ……もう、いい」
 俺は遮るように三度言葉をひねり出した。恐る恐る、少女の頭に手を置く。俺が幼い頃、あの血のつながらないやさしい兄貴にしてもらっていたように。
 少女は一瞬びくっとする。が、やがて堰を切ったように小さく震えはじめた。――泣いている。
 ああ、くそったれ――笑えないどころの話じゃない。俺になんて言葉をかけろって言うんだ、この少女に。
 俺はやり場のない靄のかかったような気持ちを紛らわすように、彼女の頭をくしゃりと撫でた。俺に出来ることはこれくらいしかなかった。――他に、なにも、出来なかった。
 俺は無知だ。この少女の抱える痛みも、この少女を苦しめる者の想いも、何もかも分からない。
 その想いの根拠を、紅い眼の恐怖とやらを、俺には理解する術もなく。あまりにも何も知らない自分に、胸中で毒づく。
 手の平から伝わる微かな震えは、暫く止まることはなかった。

 彼女はなおも、ぽつり、ぽつりと、震える声で語り続けた。
 村人は村の災厄を始末するべく、執拗に追ってきたこと。
 ようやく村人の手を逃れることのできた隣の街で、それでも誰とも知らぬ人間たちからも追われ続けたこと。
 やがて馬車馬をも殺されてしまい足を失ってしまったこと。
 彼女を助ける為に彼女を廃屋の地下貯蔵庫に隠し、自らを囮として姿を消してしまった召使のこと。
 廃屋から出てきたときには、夜の街道にはもう誰の人影もなかったこと。
 ――その、孤独感のこと。

「……それでも、わたしは、歩き続けました。この街まで、ずっと……
 どの街にいても、わたし、追われるんです……あいつは邪神の直系だって、災厄の化身だって、囁かれてはそっぽを向かれて、わたしを追わない人もわたしをみんな避けるんです……よ」
 彼女はしゃくりあげた。顔は、伏せたまま。
「誰も……だれも、みんな、わたしなんて、存在しちゃいけないって……、言ってて……、
 ……かなしくて、情けなくて、苦しくて、怖くて、ずっと、泣いて、泣いて泣いて、涙も涸れたと思ってたのに……、 
 ……知らなくて、よかった……世界なんて、見えなくてよかった……のに、こんな世界、わたし、わたしなんて、……っ」
 ――それきり彼女は黙り込んですすり泣く。
 俺はどうしようもなく、ただ彼女の頭を撫でた。
 彼女を哀れんでいる、のだろうか。――俺らしくもない。思わず口の端を歪める。
 全てを失い、世界に裏切られ、生きる意志を無くした少女――俺は、微かな同情に似たものを覚える。異端者であるという一点で、俺と彼女はとても似ているように思えた。
 片や貴族の一人娘、白くて儚いいたいけな少女。
 片や窃盗を繰り返す路上生活者、黒くてふてぶてしい強がりでしかし臆病な男。
 まるで対極だ。
 だというのに、俺も彼女も、今こうしてこの薄暗い路地裏に居る。
 交わることの無かった筈の線が、何を境に交わることになってしまったというのだろう。
 何で、この娘は、こんな目に遭わなけりゃならなかったというのだろう。
 俺がぼんやりと、そんなことを考えていた時だった。
「見ろよ! 白い女だ、白い女が居たぞ!」
 ――鋭い声が、路地裏に反響した。


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