スペル練習


 がりがりと少し耳障りな音が部屋に響く。
「えす、えいち、ゆう…なんだっけ、える? ん?」
 俺は首を傾げながら手を止めた。
 今は止んだものの、がりがりという怪音は俺の手元から発せられていた。
 生まれてこのかた、数えるほどしか握ったことのないペンというものが今俺の手に握られていた。どうもペン先が紙に引っかかって変な音がする。少し耳が痛い。
「あ、そうじゃなくて…ほら、"r"」
 机の俺側から向かって右側に座っていたアナスタシアさんがそう訂正した。
「あーるのほうか、なんか似てませんかこの二つ」
「ふふ、確かに少し似てますね…はい、もう一度」
 彼女はくすくす笑ってそう言った。
 しきりに首をひねりつつ、俺は何度も"r"と書き続ける。怪音も鳴り続ける。俺自身もこの音のせいで耳が痛いのに、なんだか彼女に申し訳ない。なのに嫌な顔ひとつしない。
 かれこれもう一時間になる。
 俺は今、彼女に"字"というものを習っていた。
「えーと、えす、えいち、ゆう、あーる、…あい?」
「ええ、それでいいんですよ! じゃあ、書いてみて?」
 少し嬉しそうに、彼女は微笑んだ。
 なんだか嬉しくて、がりがり音を立てながら今覚えたスペルを綴る。
「えす、えいち、ゆう、あーる、あい…っと」
 "Shuri"……俺の名前のスペルだった。
 一時間ばかりかけて、雑談なども交えつつ、彼女は俺のスペルを延々と教えてくれていた。
 俺はそもそも字を知らなかったからして、基本の文字からのご教授となった。
 俺は物覚えばっかりいいほうだからそこんとこはよかったが、似てる響きのやつがあると思わず間違えてしまって、そればっかりで時間をとらせてしまった。
「シュリ。シュリって読むんですよねコレ! ねえアナスタシアさん!」
 なんだか無性に嬉しくなって、生まれて初めて自分だけで綴った自分の名前を、名前を書いたその羊皮紙を、彼女に向かって突き出した。
「ええ、シュリ、あなたの名前ですよ」
 彼女の顔はとても嬉しそうで、もしかしたら俺が嬉しかったのは字を綴れたことよりも彼女が笑ってくれたからで、ああもう何でもいいやなんかとにかく嬉しいや!
「すげー! 俺、自分の名前書けるんだ。うわ、すげー!」
 新しく出した羊皮紙に、何度も自分の名前を綴ってみる。
 間違えないで書ける。俺の名前が、紙いっぱいに書かれた。
 馬鹿みたいに喜んでる俺を見て、アナスタシアさんもなんだか喜んでくれてるみたいで、嬉しい。
「シュリ、シュリ、シュリ、シュリ。ふふふ、こんなにたくさん書いて」
 きったねえ字でまるで記号のように書き殴られた俺の名前。
 その紙をそっと指で引き寄せて、彼女はまじまじと眺めた。
「……どうですか、アナスタシアさん?」
 おずおずと訊ねてみる。
「元気な字ですね。シュリらしくて、…ね、シュリ」
「はい?」
「少し、こっちに寄ってくれますか」
「へ?」
 悪戯っぽく微笑んで、彼女はそう言う。
 俺は思わずきょとんとして、間抜けな声を上げた。
「少し、こっちに寄ってください」
「え、えーと、あの、はい」
 どぎまぎしながら、椅子ごと彼女に近寄る。
 何なんだと考える間もなく、彼女の手が俺のほうに伸びてくる。
 頭に優しい感触。
「よくできました、シュリ。…いいこいいこ」
 心地よい優しい笑い声と、彼女の手が俺の頭を撫でる感触。
 まるで子どものような扱いだけど、あまりに優しいその感覚に、俺はなんだか…なんかこう、懐かしくて、嬉しくて、ああ、なんだ…ていうかどぎまぎする!
「あ、う、え、その、ええと、ありがとうございます…」
 顔が真っ赤なのは彼女に見えてるんだろうか。
 彼女は笑顔のまま、やがてその白い腕を引っ込めた。
「さて、今日はそろそろ終わりにしましょうか? 疲れたでしょう?」
「いや、あの! …あと1個、教えてください」
「え?」
 彼女がきょとんとして、首を傾げる。
「あの…あの、アナスタシアさんの名前の綴りとか」
「私の?」
「…ほら、うん。あの。…そうです」
「……まあ」
 彼女はきょとんとしたまま、目をぱちくりさせた。
 別にヘンなこと要求してるわけでもねえのに、妙に恥ずかしくなって俺は頭を掻いた。
「…でも、ちょっとだけ長い綴りになりますよ」
「大丈夫ですよ! 俺、絶対覚えますから、だから」
 何こんなに必死になってるのかよくわからねえまま、俺は頼み込んだ。
 彼女は表情を緩ませて、笑う。
「わかりました。…じゃあ、また机に向かいましょうね」
「はいっ!」
 そしてまたあと一時間ばかり、スペルのレッスンは続いた。



 夜中の男部屋に、がりがりとペンの音が響く。
「…うるさいぞ、シュリ…」
 レナートが目を擦りながら、半分寝惚けたような声で苦情を言ってくる。
「もうちょっとだけだしさ、ほら、うん。へへへ。おやすみなーレナート」
「おやすみじゃねえよ、お前も早く寝ろ。寝れねぇ…」
 とかなんとか言いながら、奴は割合すぐに眠りの国へ旅立っていく。
 さっきからクルクスが俺に恨みがましい視線を向けているのはもう気にしていない。ほんともう少しなんだから我慢してくれクルクス。
「あーる、あい…」
 がりがりがりがり。
 たまにキィィとか鳴る有り得ない音。そのたびに強くなるクルクスから向けられた視線。気にしない俺。
「えー、えす、あい、えー…っと」
 最後の仕上げに今書いたふたつの単語をぐるぐると丸で囲んでみる。
「…へへ」
 ペンを放り投げて、書き上がった紙をもう一度まじまじ見る。
 "Shuri
  Anastasia"
 何だか妙に嬉しかった。
 名前書いてみてるだけなのに、なんか凄く嬉しい。
 なんか俺好きなんだなあやっぱり好きなんだなあ。
 ニヤニヤしながら寝転んでその紙をじっと見つめる。
「…気持ち悪いよシュリ」
「うるせ」
 半眼でそう言ってきたクルクスの言葉なぞ相手にはしないのだ。
 俺は今愛の中で生きているのだ。
「…好きな人の名前、なんか書いてるとドキドキするよな。そう思わないか、え、少年?」
「そんな経験したことないね」
「あ、つまんねーの」
「ていうか早く寝なさい」
「年上にきくコトバじゃねーぞ、それ?」
「寝なさい」
「…」
 何か言うのは諦めて、名前を書いたその羊皮紙を丁寧に折りたたんで、枕に入れてみる。
「いい夢見れますよーに!」
 手を合わせる俺。
「うるさいっての早く寝なさい」
 容赦ない言葉を浴びせるクルクス。
 俺はしぶしぶ布団にもぐりこんだ。
「…おやすみなさいアナスタシアさんv」
「……」
 何かもの言いたげな雰囲気だったが無視した。

 俺は眼を閉じて祈る。
 さて、明日がいい日になりますように。


乙女・シュリ兄の日常
甘すぎて誰も近寄れない