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【文章】書き直し1話

何度も小説書きなおしたりしてるけれど、
出先で読み返す用にぺちりしておく
暫定

続き
 これが世界の終焉なのだろう。
 ふと、脳裏に過ぎったのはそんな思いだった。どこか遠い、まるで他人事のようなそのぼんやりとした言葉。僕は諦めているのだろうか。目を伏せた瞬間、掌にぬらりとした感触と、熱い吐息。己を咎めるように存在を示したそれに、思わず身を震わせる。
 風に巻き上がる砂塵と噴煙との境界線は、遠近感すら曖昧にさせていた。遠い故郷の山脈なのか、そこに横たわるだけの岩場なのかさえ分からない。炎の燻る臭いに、一瞬、咽そうになった。慌てて口許を抑える。その瞬間、地響きのような低い唸り声。はっとして、目を見開く。この洞窟の隙間からやっと見えるだけの細く切り取られた世界は、ひどく薄暗かった。砂色に煙るその視界の先に、目を凝らす。いくつも折り重なった大きな影は、竜達の骸だろうか。
その時、爆発音と閃光が狭い世界を照らし、揺らした。――いや、違う。あれは、咆哮だ。咆哮と共に吹き出された炎が、一瞬、煙る砂色の中に大きな二つの影を浮かび上がらせた。黄金に瞬く竜。そして、闇のように昏い色をした竜。
「あなたは、希望の仔だから……あたし達が、きっと護るから」
 祈るように呟く小さな少女の声に、しっと沈黙を促す。少女がはっとして、口を噤む。表情は見えない。狭い洞窟の陰に、押し殺したいくつもの息遣いだけがひそやかに反響する。足元で身を横たえた小さな希望の仔の熱い息遣いだけが、僕の意識を鮮やかにした。目を閉じて、眠ってしまいたい。目を開けたら、きっとすべてが終わっている。もう僕に出来ることは何もない。この少女にも。――それならば、この意識に何の意味があるだろう?
 答えは出ない。目の前で繰り広げられている戦いは、ひとの手に負えるものではない。きっと、竜達にも手に負えないのだ。終焉にも似た世界でただ闘う一対の竜は、きっと神だ。世界の行く末を決める、いわば裁定者たちの闘い。闇の竜は世界を滅ぼそうとし、黄金の竜はそれを食い止めようとしている。ひとがここにいることが、もはや無意味なのだ。黄金の竜に護られたとしよう。それでも、故郷は既に喪われたのだ。親も、友達も、みんな死んだ。逃げ延びたのはごくわずかだ。僕と、ラハヤと、長老様のせがれと、あと何人か。みな、帰る場所をなくした迷い子だ。このまま生きて、何になるだろう。すべてを、失ったのに。
その時、僕の膝元でただ熱い吐息を押し殺していたちいさな竜の仔が、咎めるように僕の掌を突いた。僕の考えている事が分かったのだろうか。諦めるなと、言っているのだろうか。何の、ために?
 ――お前たちの戦いだ。僕達にそれに巻き込まれたんだ。
 幾度となく胸の中で繰り返した、怨嗟の言葉。喪った全てと、その元凶。それでも、ラハヤは一心にその仔を護ろうとした。ちいさな希望の証、黄金のその仔を。
 違う。その仔は、ラハヤの希望なのだ。世界の希望とは違う。ラハヤは生きたいのだ。竜の仔が生きている限り、ラハヤは生きることを信じられる。だから。
「リーナス……」
 小さな震える声が僕を呼んだ。ラハヤだ。
「オンニが怒っているわ……」
「静かにしていて、ラハヤ。お願いだ。……名前を、付けたのかい、その仔に」
「この仔は、希望なのよ。あたしたちの幸運(オンニ)なの」
「また君はそうやって、何にでも名前を付けて」
「だって、名前がなくてはどう呼んだらいいかわからないわ」
「神の仔に名前がいるかい? いずれ神の懐に戻る尊い御身だ。僕たちが名前を呼ばなくたって……」
「神の仔? 違うわ。この仔は、竜の仔よ。あたし達は、オンニの親にこの仔を託されたの。たったそれだけ」
「何でもいいったら」
 こんな時でも、ラハヤはどうでもいいような事にむきになる。それが何だか可笑しくて、少しだけ気が抜けた。外では、死骸と砂煙と炎が渦巻く死の世界なのに。
「オンニ。……あたし達が、あなたを護るわ」
 囁くラハヤの声に、竜の仔オンニは僅かに頭をもたげたようだった。
 護るなんて、僕達に出来る訳が無い。僕達はただ、ここでこうしてじっと隠れているだけだ。何が幸運だ。何が希望だ。この仔を護り抜いたところで、そこに何がある? 
「ねえ、リーナス。あなたは、この仔を護ることが不服?」
「そういう訳じゃないよ。ただ、希望って言っても……」
 それはいったい何の希望なんだ、と言いかけたところで、仔竜は咎めるようにまた僕の掌に頭を押し付けた。
「……リーナス、あのね。この仔は、世界の希望よ。例え全てが失われてしまっても、あの神さまみたいな黄金の竜が斃れてしまっても、この仔がいれば――未来で、この仔はきっとひとを護ってくれる。あの黄金の竜のように」
 ラハヤの囁く声は、祈りにも似ていた。小さな声に、静謐な響き。ひそやかな息遣い。彼女は今、神託の巫女のようで。
「――未来の世界に、届く希望よ。あたし達は、それを護るの。ねえリーナス、素敵でしょう。あたし達は……未来を創るのよ」
 ラハヤの声は震えていた。涙が滲んだような、震える吐息。
 その時、僕は知った。ラハヤが望むのは、闘いの先に待ち受ける生などではなかった。生も、死さえも越えて、その先に横たわる世界の希望。ラハヤは――世界を、護ろうとしているのだ。
「……生きよう。この仔を護って、僕達も生きよう」
「リーナス?」
「……幸運(オンニ)と一緒に、生き残ろう。そして――未来を、創ろう」
 君の笑う、未来を。

  †

不意に頭をはたき落され、ライヒアルトは「うぇ」と呻いた。
 急速に意識が反転する。此処は何処だろう。曖昧な境界を彷徨う意識に、頭がついてこない。
「もお、アルトくん! 何度呼んだらわかるの!?」
 澄んだ愛らしい少女の声に叱りつけられる。徐々に色を取り戻していく世界。青年は残像を振り払うように頭を横に振った。ここは砂塵の渦巻く終焉の世界ではない。竜もいない、ラハヤもいない。薄暗い中にも暮れなずむ夕陽の差す穏やかな我が家だ。青年は振り向き、両手を腰に当てて眉根を寄せる小柄な少女に向かって気まずそうに肩を竦めて笑ってみせた。しかし残念ながら笑顔で彼女の怒りは誤魔化されないらしい。これは困った。
 青年の名はライヒアルト=ローデンヴァルトという。二十一になったばかりだが――目の前で、幼馴染の少女リカルダ=ロサスの大きな若草色の目がつり上がっているのを見て、肩を縮める。三つも年下の少女だが、いつもこうして彼女に怒られている。しかし無理もない。彼女が夕食の支度に忙しくしているというのに、自分はせっせと読書に勤しんでいたのだ。それも、何度も呼ばれていたらしい。ちっとも気付かなかった。ちらりと木机に視線を落とす。お気に入りの、大昔の英雄物語の本。陽が高いうちから読んでいて、気付いたら日が暮れていたのだとでも言おうか。いや、その言い訳はあまりにも情けない。反論の余地は無かった。ライヒアルトは少女に向き直り、申し訳なさげに笑う。
「あはは、ごめんねリカ。えっと……?」
 小首を傾げて少女の答えを待つライヒアルトに、彼女も困ったように小首を傾げた。腰に当てていた両手をおろし、片手を頬にあてる。さらり、と長い白金の髪が肩から滑り落ちた。
 少女の顔は、もう怒ってはいなかった。代わりに、もお、と呆れたようなため息をつく。
「また本読んでたの? 今度はなあに? 英雄物語の方? それとも黒蝶姫?」
「英雄物語のほう。やっぱりいいよねぇ、本って」
「アルトくんったら、もお」
 お気に入りの本の話となると途端に表情の緩むライヒアルト。リカルダは諦めたように深いため息をつき、気を取り直したように顔を上げた。ライヒアルトは背もたれに向き合うように椅子に座り直す。椅子に座っている自分とさほど顔の高さの変わらない小柄な幼馴染の少女。態度こそ母親や姉のようだが、その小柄さもあどけない童顔も、まるで子供のように愛らしい。両手を腰に当てた仁王立ちの姿で怒っているのも、まるでおしゃまな少女のように不釣り合いで、それが逆に可愛らしくもあった。みっつ年下の、幼馴染のリカルダ。ライヒアルトの、家族。
 十八には見えないよなあ、と思い出したように少女をしげしげと見つめる。それを言うなら、彼女に常日頃怒られている自分も到底二十一らしくはないのだろうが、体の発育だけなら自分はかなりものだ。背は誰よりも高い。
――などとどうでもいいことを考えていると、リカルダが訝しげな眼差しで見つめ返してきた。目と目が合う。ライヒアルトは、にこりと微笑み返す。脱力したように、少女の肩が落ちた。
「で、リカ。俺に用だったんだよね?」
「う、うん、そうそう……薪がなくなりそうなの。運ぶの手伝ってもらいたくって」
 アルトくんと話してると調子狂っちゃう、とぼやく少女にライヒアルトは悪びれもせずに笑い、椅子から立ち上がった。
「よっし、じゃあ行こっか。……じいちゃんはいなかったの?」
「あーっ、アルトくんったらおじいちゃんに任せようとして!」
「ち、違うってば、単純に気になったの。きょーうーみっ」
 手をぱたぱたと振るライヒアルト。随分低い位置からリカルダがむうっと眉根を寄せて疑わしげに見上げてくる。胸の下程に背の低い少女に、いつも頭が上がらない。
「んー……、また、村かな。何かあったとか言ってた?」
「魔物の気配を感じたんだって。もお、遅くならないといいけど」
 少女は困ったように頬に手を当て、ことりと小首を傾げた。

  †

「それにしてもアルトくんったら。いっつも本ばっかり」
「あはは、でも面白いじゃない?」
 ライヒアルトはその端正な顔に無邪気な笑みを浮かべ、澄んだ碧眼を細めてみせる。リカルダは、もお、と呆れたように肩を竦めた。この青年の英雄譚好きも没頭癖も、今に始まった事ではない。今まで何を言っても変わる事のなかった困った癖だ。これからも多分、変わることは無いだろう。ひとつ、ため息。
 暮れなずむ夕焼けの空が、折り重なる緑の隙間を縫うように、いくつものひかりを落とす。金色に染まる夕焼けの森にも、もうじきゆるやかに夜の帳がおりていくだろう。
 倉庫に行き、戻ってくるところだった。幼馴染のライヒアルトは、薪が固く結わえ付けられた束をいくつか木製の小さな荷車に載せて引いていた。荷車はそう大きなものではない。長身の彼がその台車を引いていると、まるで不釣り合いで時々可笑しくなる。
 三つ年上の幼馴染ライヒアルトは、ややあどけなさを残した目鼻立ちの整った青年だった。そのすらりとした長身と相俟って、近隣のメーディス村のおばさま方のちょっとしたアイドルだった。黙ってさえいれば、確かにいい男なのだろうと思う。
しかし、困ったのは二十を超えたにも関わらず、変わらないその無邪気さだ。好奇心にくるくるとめまぐるしく表情を変える、ぱっちりと大きな碧眼。そこが可愛いのだと喫茶店のファーナーおばさんは言っていたけれど、毎日相手をしているリカルダにとっては手のかかる大きな子どものようだった。自分も子どもっぽいと言われることはあるがそれは背格好ゆえだ。その「子どもっぽさ」の性質は、彼と自分とでは大きく異なるだろう。
「そういえば、じいちゃんは魔物が出たって言ってたんだよね」
 舗装のなされていない森の路を、がたんがたんと揺れる荷車を引きながら、ライヒアルトは小首を傾げた。傍らで麻袋を抱えるリカルダが、小首を傾げる。
「うん、そう言ってたわ。最近多いね」
「ねー。なんかあるのかな。襲ってきたりとか?」
「もお、や、やめてよ。そんなの、しゃれにならないわ」
「そしたら俺が剣で倒すのになー。で、俺が怪我したらリカが治してくれるの。あはは、なんか英雄物語みたいだね」
 一人で盛り上がっているライヒアルト。随分楽しそうである。彼はいつも楽しそうだ。リカルダは困ったように眉根を寄せる。
「もお。わたし、アルトくんの読む英雄物語の魔法使いみたいに攻撃魔法とか使えないんだからね」
「えー? リカならきっとすぐに使えるようになるよ」
「もお……そもそも、使う必要、な、い、のっ!」
 えー、と不満げに口を尖らせるライヒアルトに、ため息。
 リカルダは魔法の心得がある。薪に火をつけたり保存庫に入れておくための氷を作ったり、とりわけ得意なのは傷を癒す魔法だった。それもこれも、使用頻度が高かったせいだ。ライヒアルトは子供の頃から夢見がちで、冒険譚に憧れて、森の中に枝と鍋の蓋を携えて飛び込んでいって、魔物もいないのに何故か怪我をして帰ってくるのだ。
「あのね、アルトくん。アルトくんがそんなんだから、ちびちゃんが真似して枝振り回して飛び出していくんだからね。いい年なんだから、しっかりしようよ」
 諭すように言う自分の声は、諦めにも似た脱力した声だった。しかし、ライヒアルトはにこり笑う。
「でもさ、戦う力は必要だと思うよ」
「どうして? 危ないわ。家にいれば安全なのに」
「絶対の安全なんてないよ。攻め込まれた時に、身を護るために力は絶対に必要なんだ。ディート兄ちゃんも、そう言ってた」
「ディートお兄ちゃんは騎士の家の生まれだったから説得力あるけど……だって、アルトくんのはごっこ遊びじゃない。戦える人に任せておけばいいの。おじいちゃんとか」
「でも、じいちゃんは……」
 珍しく、ライヒアルトは口籠った。言葉を選ぶように、口をもごつかせる。リカルダは首をことりと傾げた。
「……おじいちゃんじゃ、ダメなの?」
「そうじゃなくってさ。――じいちゃんも、いつまでもいるわけじゃないってこと。だから、さ……」
 リカルダは目を見開いた。そんなこと、考えもしなかった。確かに、養父は高齢だ。いつまでもいるわけじゃない。
 沈黙。かあ、かあとからすが鳴く声と、梢を揺らす風のおと。がら、がら、がたん、と鳴る車輪。考え込むように黙り込んでしまったリカルダに、ライヒ
アルトは明るい声を上げた。
「――とにかくさ、そういうこともあるってこと。俺も強くならなくちゃって思ってるんだ。ディート兄ちゃんもいないし、リカもちびたちも、いつかは俺が護らなくちゃ」
 青年の声に、顔を上げた。いつもの、優しい微笑み。やわらかく細められた澄んだ碧眼の中に宿るいろは、いつもの子どものような彼とはどこか違って。いつの間に、そんなことを言うようになったのだろう?
 リカルダは戸惑い、無理やり眉根を寄せてみせた。
「そんな急に大人っぽいこと言ったって、似合わないわ」
「ええー? ひどくない?」
 青年は笑う。さほど傷付いた様子でもない。いつもの、無邪気な笑み。
 血のつながらない兄弟分の、ライヒアルト。幼い頃から共に育った、大切な家族で、幼馴染。いつも一緒にいたはずの彼の変化を、わたしはいつ見逃したのだろう? それとも、あのふっと大人びた瞳のいろは、わたしの気のせい?
 リカルダはちらりとライヒアルトを見上げた。彼は空を見上げて、嬉しそうににこにこしている。いつものアルトくん。
「夕焼けってきれいだよねー。俺さあ、たまにこうやって見上げてると躓くことあるんだよね」
「もお、よそ見しながら歩くからでしょ」
「だってこんなに綺麗なのに見ないの勿体ないよ?」
「そういう時は、立ち止まって見るの」
「あ、そっかー。そうだね」
 あはは、と笑う。まるっきり、いつもの彼で。リカルダは少し、ほっとする。
「そういえばさ、ディート兄ちゃんって今、何してるんだろうね。手紙、来なくなっちゃったし」
「そうだね、何してるのかなあ……」
 ディートマル。年の離れた、血のつながらない兄貴分。ずっと前に、家を出て行った優しい人。騎士の家の生まれで、ライヒアルトに剣を教えた人。そして、騎士になることを志して、ここを出て行った。出て行ってから暫くは、便りが来た。これから南部に行くと書かれたものを最後に、彼からの便りは絶えた。養父は、きっと南部へ行くのは危険な道を通らねばならないから、そこを越えての配達は断られてしまうのだろうと言っていた。けれど、リカルダはディートマルに何かあったのではないかと随分心配したものだ。真偽は分からない。優しい人だった。もう一度、会いたいねと話すこともあった。いつか、戻るのだろうか。旅立った先で騎士になったのならば、無理かもしれない。
「不思議なもんだよね。一緒に暮らしてたのに、生まれも違って、生きて行く道も違うって。……いつか、リカともそうなるのかな」
「別々の道に行くっていうこと?」
 リカルダは俯いて考え込む。幼い頃から変わらない、彼のいるこの生活。それが変わっていくことなど、どうしても考えられなかった。彼はもう生活の一部で、切り離せない。首を振る。
「……わたし、多分穴倉を出て行かない。アルトくんは?」
「んー、わかんないけど。でも色んな世界を見たいとは思うよ」
「アルトくんひとりじゃ、無理だわ」
「えー? なんで?」
 きょとんとして口を尖らせるライヒアルトに、リカルダはふっと笑う。アルトくんは、わたしがついていてあげなくちゃ。心配で、放っておけない。手のかかる、子どものような幼馴染。
 生まれも違う。きっと、行く先も違う。それでも家族として共に暮らすあの家を、彼らは《魔法使いの穴倉》と呼んでいた。
 彼らは戦災孤児だった。身寄りを失い、魔法使いの老夫婦に引き取られて共に育った。いまは、養父母とライヒアルトとリカルダ、そしてちいさな弟分と妹分がいる。穏やかで、やさしい日々。
 その暮らしを、壊したくない。リカルダはそう思い、天を仰いだ。やわらかでやさしい、緋のいろだった。


  †

 《魔法使いの穴倉》に住まう初老の魔法使いロルフは、すっかり日の落ちた森の中を歩いていた。時折がさりと葉を揺らすものに僅かに驚くこともあるが、大概は無害な、同じ森に住む仲間だ。危害を加えようとは思わないし、相手にしてもそれはそうなのだろう。闇夜の森、ざわめく葉陰。それでも彼の足取りは、穏やかなものだった。不穏な要素は何ひとつもなかった。
 そう、何ひとつもなかった。魔物の気配を感じ、近隣のメーディスの村に行ったものの、今日も何もありはしなかった。魔物は、この森の生き物のように無害なものではない。悪意を持って人に害を為そうとする生き物だ。それが素通りしていくことなど考えにくいが――現に、何もなかったのだ。無駄足を踏んでしまった。
 何も無いのならそれでいいではないかと、ロルフは思い直したように首を振った。春先だが、夜の森はやはり肌寒い。今は闇で色も分からない愛用の菖蒲色のローブのフードをかぶる。その褐色の肌が示す通り、ロルフは南方の火の山の島の生まれだ。故郷を出て何十年が経とうと、寒いのは苦手だ。慣れるものではない。
 子どもたち――引き取って育てている戦災孤児の子どもたちの待つ《魔法使いの穴倉》とメーディス村とは、歩いて十分か十五分ほどだろうか。さほど遠くはない。しかし何故穴倉に住んでいるのかといえば、単純な話だ。村で大工に頼んで家を建てるより、あの洞窟を地術で掘り広げて住居に仕立て上げる方が安上がりだったのだ。部屋も増やし調理場もつくり、暖炉や天窓もつくり、近くの川から支流をひいて水浴び場をつくったりもした。あまりにも充実した設備には満足している。今更村に暮らす理由も無い。が、それでも村人たちとは懇意にしていた。各地を転々としていたロルフではあったが、ここに骨を埋めてもいいと思っている。概ね、満足のいく穏やかな暮らしだった。
 世界は戦争状態にあった。正確に言えば、それは五十年も昔に遡る。戦争が始まった時、彼はまだ若く、僻地の故郷に暮らしていた。それゆえ戦いの起きた理由はよく知らなかったが、それは人と人との戦争ではなかった。人と、竜との戦い。
 ロルフは、養子のライヒアルトが好んでよく読んでいた古代英雄譚を思い起こす。物語を好んだ息子に、昔ロルフが買ってやったあの本は、かつて強大な力を持った一対の竜達の世界を巻き込む戦いを描いたものだった。その戦いにおいて、人間が力を振う場面はなかった。しかし、その中で人間は重要な役目を果たしたのだ。黄金竜の仔、次に竜族を総べるその仔を人間は護り抜き、竜と人とは永遠の友情を誓った。そういう話だった筈だ。竜と人との、友情。そんなものは、今の世では笑いものにされるだけだ。竜は人間を疎ましくなり、この世から平らげようとしたのだというのが定説だ。人は竜と戦い、過去の英雄譚とは違う結末を辿りながら、今静かに滅びへ向かっている。人に、高等種の竜族と戦うだけの力があるわけがない。決定的な負けを悟った人間に、竜族も手を下そうとはしない。静かな滅びをただ、眺めているのだろう。多くの国や街が滅び、ひとは他の土地へ行くことを阻まれ、時折竜族の手のものに襲撃され、また街や村が減っていった。もし今世界地図を描いたなら、きっとひどく寂しいものであるに違いない。ロルフたちに出来るのは、この穏やかな森の中でひっそりと暮らしていくことだけだ。
 息子のライヒアルトは、竜をどう思っているだろう。警戒するべき恐ろしき敵か、物語の中のように助け合える存在か。後者かもしれないな、とも思う。彼は昔から英雄譚かぶれだった。リーナスと、ラハヤ、そして、〝幸運〟の名を冠した黄金竜の仔、オンニ。息子のライヒアルトは、キャストを立ててよくごっこ遊びをしていたものだ。共に暮らしている老魔法使いのリリーが奇跡の娘ラハヤ役を、娘のリカルダは幼かった為台詞の少ない黄金竜の仔オンニ役を、勿論あの英雄譚かぶれのライヒアルトは主人公のリーナスを演じていた。何故か邪悪な黒竜役をさせられていたロルフはその他愛も無い劇を眺めながら、ライヒアルトはリーナス役には向いていないなと思っていた記憶がある。醒めた悲観的なあの主人公と、無邪気で楽観的なライヒアルトはまるで対照的だった。息子も、二十一になる。リカルダは手を焼いているようだが、優しい青年に育ったと思う。人の心を和ませる笑顔と、青空のような大きな碧い瞳。彼と話していると、誰も彼もが邪気を抜かれるようだと思う。
 彼が主人公の英雄譚があるのだとしたら、きっと彼は優しい選択をし続けるに違いない。甘い、子どものようにやさしい選択。
 彼が旅したいと望んだ世界が、物語の中には無数にあった。数えきれないそれを、彼はいくつも読み耽り、いくつもの世界を旅した。それでも彼は、現実の世界で心躍る冒険は出来ない。悲しい世の中だと思う。子どもが好きに外で遊べないなどと、そんな窮屈な時代では子どもが可哀想だ。
 しかし、とロルフは思う。世界を変える力など無い。人間は小さな生き物だ。身を護る力をもって、精一杯の穏やかな暮らしを護る事しか出来ないのだ。
 考えながら歩くうち、ほわりと闇に滲むやわらかな光はすぐそばにあった。愛しい我が家。《魔法使いの穴倉》。
 軒先に吊るされたベルをちりんと鳴らし、観音開きに設えた木の扉を押し開いた。ぎい、と音を立てるその先、鼻腔をくすぐる美味しそうな香りと、やわらかな暖気。冷たい夜の森を抜けて、愛しい我が家の気配はあまりにも温かい。
「おかえりなさい!」
 帰宅の証である小さな呼び鈴の音に、目を輝かせて子供たちがロルフを出迎える。十になるやならずの、少年イェルンと、少女マルテ。ちいさなその姿に、思わず目を細める。
「ただいま。……遅くなってすまなかったな」
「ねえじいちゃん、おみやげは? おみやげある?」
「無い無い」
 えー、とむくれる少年イェルンの若い麦穂のようなくすんだ金髪を撫でてやる。そしてその隣で嬉しそうに両手を上げて飛び跳ねる少女マルテの小豆色の髪を撫で、視線を部屋の奥に向けた。家に入ってすぐに、家族の共有スペースである食卓があった。椅子に腰掛け、振り向いて片肘を背もたれに載せた青年がひとり。はしばみ色のやわらかな髪と、澄んだ碧眼が印象的な息子のライヒアルトは、にこりと笑う。
「じいちゃん、その様子だと何も無かったみたいだね」
「何かあるよりはましだろう。こちらは、変わりなかったか?」
「なーんにも。じいちゃんがお土産に何か楽しい話持ってきてくれるの待ってたんだ」
 ライヒアルトが朗らかに笑う。すると背後の調理場から、抗議するように口を尖らせた〝娘〟のリカルダが現れた。
「おじいちゃん聞いて、アルトくんったらまた読書ばっかりで呼んでも呼んでも反応してくれなかったんだから!」
 手にしたシチュー皿を食卓に並べながらそうぼやく彼女と、舌を出して肩を竦めるライヒアルトとに目を遣り、思わず噴き出す。全くこの子たちの関係ときたら、年齢がまるで逆のようだ。
「全く相変わらずだな、お前たちは。ライヒアルト、大樹の魔女が本の催促をしていたぞ。何を借りていたんだ?」
「あーっ、そういえばまだ読んでないや……竜使いの民の本借りたんだよ。魔女婆ちゃん怒ってた?」
「いいや、いつも通りさ。……竜使いの民とはな。話には聞いた事があるが」
「黄金竜と黒竜の話、あるじゃない? もしかしてその黄金竜の仔を助けたリーナス達と関係ある話なんじゃないかと思ってさ。背表紙だけ見て借りてきちゃったんだ。うわー、忘れてた」
「一体いつから借りているんだ」
「えー、いち、にい、……何か月か前じゃないかな……」
 話を聞いていたリカルダが、のんきに指折り数える彼に、呆れたように半眼をくれている。ロルフも小さく嘆息した。大樹の魔女が怒らなかったのが不思議なくらいだ。大樹の魔女アルテアは、近隣のメーディス村に住む偏屈な老魔女だ。得体が知れない、と村人達からも敬遠されていたが、ライヒアルトだけはその豊富な蔵書目当てに彼女の家に通っていた。もしかすると、かの人嫌いの魔女は、本の催促ではなくライヒアルトの来訪を催促していたのではなかろうか。ふとそんな考えが浮かぶ程には、ライヒアルトは人の心を絆す。放っておけなくなる、と言ってもいいだろうか。リカルダの視線に気付き、へへ、と笑ってみせる彼を見、そう思う。何だかんだ許されてしまうのだ。得な男である。
「早く返せよ。……ところで、リリーはどこへ行った?」
「ここにいますわ。おかえりなさいませ」
 不意に応える、しっかりとした品のある声。しわがれてもなお優美さを失わないその響きに、振り向いた。部屋の奥から、雪のように白い髪をきれいにまとめ上げ、肩に繊細な模様のショールを纏う年老いた女。ぴんと伸びた背と、凛とした涼やかな藤色の瞳。女は老いてなお美しい顔に、優美な笑みを浮かべる。
「無駄足を踏んだようですわね」
 女の言葉のからかうような響きに、ぐ、と言葉を詰まらせた。どうしてこうも、いつも皮肉を飛ばしてくるのだろう。ロルフはひとつ咳払いをした。
「リカルダの料理が冷めてはかなわん。食事にしよう」
「あら、おじいちゃん。図星ですのね?」
 ふふ、と笑う声。共にこの地に住まう、老魔法使いリリー。ロルフはぴくりと眉を跳ね上げ、歪みそうになる口許を必死に笑みのかたちにした。
「その話はまた後でも良かろう」
 まあまあ、と含みある微笑みを浮かべるリリー。同居人として共に暮らしてきたが、彼女は妻ではない。妻にするならもっとおとなしく淑やかな女を選ぶ。なかなかに口が達者なこの女にまともに渡り合えないということは、この数十年でよく分かっていた。
「おじいちゃんもおばあちゃんも、ちびちゃんたちも席について。アルトくん、シチューよそうの手伝って?」
「え、今日シチューなの? やった!」
 リカルダの言葉に、ライヒアルトが嬉しそうにぱちりと手を叩き合わせた。ちいさな子どもたちも、まるで飛ぶように食卓についた。魔法のメニューらしい。ロルフは、ふっと笑う。
 ――時は、戦争の最中。小康状態とはいえ、穏やかな時代ではない。ロルフ自身も何度も帰る家を失った。それでも。
 帰る家。灯りのともる、やさしい家。その存在は、なんと心を和ませることだろう。自然と、笑みが浮かぶ。
 護り続けたいものが、ここにある。それが何より嬉しかった。

  †

 幼馴染が困っている。
 庭先のハーブの手入れをしながら、リカルダはぼんやりとその光景を眺めていた。やわらかな木漏れ日の中、軒先のベンチで読書に興じていたライヒアルトは、いまや完全に包囲されていた。若い麦穂色の髪と、明るい小豆色の髪が揺れる。わあわあと、穴倉の弟分イェルンと妹分マルテが彼に何事か訴えかけているのを見て、リカルダは耳をそばだてた。
「お祭りなんて、聞いてないけどなー、俺」
「でも、あるの! おーまーつーりー!」
「今日なの! 村にいーくーのっ!」
 困ったように頬を掻くライヒアルトに、子どもたちはそう大声を上げて訴えていた。ぴんときたリカルダは、ふわりと笑う。
「アルトくん、もしかしたらエーレの試食会じゃない?」
「エーレの? もうそんな時期かぁ。いちごの時期だね」
 合点がいったように、ライヒアルトは頷いた。
 穴倉から十数分のメーディス村に、ただ一軒の喫茶店がある。《エーレの実》という名を冠したそのちいさな喫茶店では、村の特産である林檎や苺を使った菓子作りをしている。収穫直後に決まって執り行われる新メニューの試食会は、小さなメーディス村のちょっとしたお祭りといっても良かった。村人がレシピを持ち寄り、エーレのおばさんがそれを試作する。見事村人達から高評価を得て新メニューに加えられたレシピの主は、年数回分のエーレでの飲食無料券を与えられる。のどかでやさしい祭りだ。穴倉に引き取られてからその試食会に参加した子どもたちは、普段食べられないお菓子をたくさん食べられるのだと、毎年楽しみにするようになった。その時期が、きたのだ。
「エーレの試食会かぁ、いーなぁ」
「アルト兄ちゃんとリカ姉ちゃんもいっしょにいこうよ」
 少年イェルンに揺さぶられたライヒアルトが、それを押し止めながら「薪割りしなくちゃいけないからなあ」と笑う。
「それじゃ、わーって、すぱーんって、割って、いこ!」
 少女マルテが、嬉しそうにそのちいさな手を突き上げてぴょんぴょんと跳ねるのを見、ライヒアルトは思わず噴き出した。
「兄ちゃんそんなに強くないから無理かなー。でも、これから木こりのベックさんちに行かなくちゃいけなかったから、送るだけなら出来ると思うよ。帰りは夕方でいい?」
 ライヒアルトの問いに、イェルンがちいさな手を握ってガッツポーズを決める。マルテの飛び跳ねる高度があがった。そんな穏やかな様子に、リカルダも思わず笑みがこぼれる。
「最近魔物の気配が頻繁にあるらしいから、心配だけど……アルトくんが送ってくれるなら大丈夫かなぁ。お願い出来る?」
「うん、任せといてよ」頼もしげにそう答えて本を閉じるライヒアルト。子供たちに視線を落とし、微笑む。「姉ちゃんの許可が出たよ、よかったねぇ、ちびたち」
 歓声を上げて飛び跳ねる子どもたちと、揺れる木漏れ日のひかりとがくるり踊る。ライヒアルトの形の良い碧眼がふわりと細められた。が、その直後不意に彼の目元がきりりとした。見ていたリカルダも、子どもたちも思わず目を丸くする。
「ただし! 村の外には出ないこと。大人たちの目の届くところにいること。いいね?」
 ぴっ、と人差し指を立ててしかめっ面を作ってみせるライヒアルトに、マルテは神妙に頷いた。イェルンは腰ひもに差していたお気に入りの愛剣――少し前に拾った立派なブナの枝だ――を抜き払い、天に掲げた。
「ま、魔物が出ても、このイェルン様がやっつけるけどな!」
誇らしげに愛剣を振り回し、仰け反る程に胸を張る。ライヒアルトは耐え切れずに噴き出した。
「あはは、そりゃ、頼もしいや。でも、戦いを避けるのも戦士としての賢い選択だよ、イェルン」
 イェルンはその生意気そうな顔に神妙ないろを浮かべ、頷いた。笑いをかみ殺し、ライヒアルトも神妙な顔を作る。
「だから、無事に帰還すること。いいね?」
「いえっさー!」
「はあい、隊長っ!」
 ぴしりと返す、敬礼のかたち。あどけない隊員たちに、ライヒアルトは漸くやわらかに目元を緩ませた。
 彼は、本当はとても面倒見の良いひとだ。こうして小さな子どもたちを相手にしている時は、誰よりも優しいお兄さんになる。
 きっと、彼は三つ年下の少女に頼り切っているだけなのだろうということは、彼女自身にも薄々分かっていた。だからあんなに子どものような振る舞いをする。
 本当はもう少しだけ、しっかりしてくれるといいんだけどな。
 心の中でふとつぶやいた想いは、嘘ではない。
それでも、頼られるのは嫌いじゃなかった。

  †

 ちいさな子どもたちをメーディスの村に送り届けて数刻。
 薪割りを半分程終えたライヒアルトは食卓で一息ついていた。
「――で、どうだった? 楽しそうにしてた?」
 向かいに座るリカルダも、家事にひと段落ついた様子だった。彼女は紅茶の注がれたカップに口をつける。彼女に倣うように、ライヒアルトもカップを手にした。少女の歌うように弾む声に、思わず微笑む。子どもたちに負けず劣らず、浮かれ気味だ。
「大はしゃぎだったよ。……リカも何だか嬉しそうだね。何かあったの?」
「ふふー。別に?」
少女は花が綻ぶように笑った。小さな両のてのひらでカップをそっと包みながら、目を伏せてカップに口を付ける。そうしている間も、風に踊る花のように、流れる調べにリズムを刻むように、さらりと髪を揺らしながら少女は揺れる。今
にも歌い出しそうな彼女の様子に、ライヒアルトは思わず噴き出した。
「それ、別にっていう様子じゃないってば」
「だってね、ちびちゃんたちがエーレの試食会のお菓子、おみやげにもらってきてくれるっていうから」
 紅茶に落とした砂糖のように、笑顔がふわりと甘やぐ。
小さい頃、彼女もエーレの試食会が大好きだったな、とライヒアルトは思い起こす。彼女が試食会に行けなくなったのは、家事を引き受けるようになってからだ。普段はあまり菓子などは口にしないが、甘いものが好きな彼女のこと、きっと本当は行きたかったのだろう。嬉しくて仕方ない様子が、普段のしっかりした様子とは裏腹で、なんだか微笑ましかった。
「リカ、エーレのおばさんのお菓子大好きだったもんね」
「ファーナーおばさんの作るお菓子は絶品なんだから!」夢見るように、ちいさなため息。「エーレの林檎パイ、食べたいなぁ」
思わず、ライヒアルトはくすりと笑った。
「今度連れてってあげるってば。奢るよ?」
「ぇ、だ、ダメよ、それはアルトくんが稼いだお金じゃない。そんな、それはわたしのわがままだもの……」
 急速に少女の笑顔が萎み、おずおずと力無くカップを置く。
 ライヒアルトは小さく笑って肩を竦めた。まったく、気にしいなんだから。きっと今も脳裏に、こんがり焼き目のついたエーレの林檎パイがぐるぐるしているに違いないのに。
「あーあ、なんか俺もエーレの林檎パイ食べたくなっちゃったなー」くすくすと笑う。「だから一緒に行こうよ。ね」
「ア、アルトくん……、……ぅ、うぅ」
 困ったようにしどろもどろになりながら、視線を彷徨わせる少女。素直に好意に甘えられないのは、彼女自身のしっかりしすぎる性格のせいだろう。彼女にとって、彼に奢られることは「わきまえるべきこと」のうちのひとつなのだ。しかし、あと一押しである。
「ほらほら、俺全部食べきれる自信ないよ? 残しちゃうよ? もったいなくない? おばさん、きっと悲しむなー」
「も、もお、アルトくんってばあ……」
 くすくす笑うライヒアルトに、半ば泣きそうなリカルダが視線を斜め下に彷徨わせたまま呻いた。完全に困っている。
「だからさ、一緒に食べようって。リカに奢るんじゃないよ、俺が食べたいだけ」
「……そ、そおいう、ことなら」
 視線がおずおずと彼の元に戻ってきた。まるで捨てられた子犬のような眼差しに、笑いをかみ殺す。
彼女はとてもしっかりしていて、あまり他人に何かを望んだりはしない。けれど彼女もしたいことがあるのだということは、何となく分かっていた。伊達に三つも年食ってはいない。
からかってみせると、年相応の少女らしい様子を覗かせる彼女。自分がそこまで表情の変わる方だと思っていないらしいが、すぐにわたわたと慌てたり困ったように視線で助けを求めたり、先程のように嬉しそうに揺れていたり、それはどこか愛らしい小動物にも似ていて。彼女本人は良しとしないだろうが、本当は彼にも甘やかしてやりたい気持ちはあった。リカの言う通り、もう少ししっかりしなくちゃな。俺は年上なんだから。――ふっと笑って、ぱちりと手を合わせる。
「じゃ、決まりだね。林檎パイの時期になったら、エーレに寄ろう? ……で。今日のちびのお土産はなんだろうねえ」
「そうだった、ちびちゃんのおみやげ!」
 急に、彼女もぱちりと両の手を合わせた。跳びあがるように正した姿勢と、ゆれる白金の髪。
「ちびたち、帰りに食べちゃったりしてね?」
「そ、それを止めるのが隊長の役目でしょ。監督責任!」
 焦燥にも似た色。ほら、またくるりと表情が変わる。くすくすと笑う彼に、一瞬彼女は憮然とした表情を浮かべた。
 そんな、時だった。
 ――ばあんっ!
 勢いよく叩き開けられた玄関の両扉。きこり、きこりと蝶番のいびつな音を立てて跳ね戻るそれを背にして、不意に現れた来訪者――育て親のロルフが息遣いも荒く佇んでいた。