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【文章】幸せのふる世界

あるりか

続き

「寒いねぇ」
 ほう、と手に吹きかけた吐息が、白く染まる。空気ににじんで、とけて消えた冬の名残。肌寒さに僅かに身を震わせると、あなたは「ごめんね」と申し訳なさそうに笑った。
「何か見てるの?」
「んー、そだね」
 曖昧な返事をして、あなたはテラスから天を仰ぐ。つられて、わたしも目を遣る。ふたりきりでいるには少し広いその部屋の真ん中のちいさなテーブルからは、彼のいるテラスは少し遠い。それでも見えるのは、夜の帳がおりた城下の街並み。灯りがともる建物もそう多くはない。
「リカ、ちょっときて?」
 にこにこしながら手招きする彼に、すこし小首を傾げる。さて、今度は何を見つけたんだろう?
 ちいさな頃から、彼の見る世界は素敵なもので溢れていた。わたしの見落とすささやかで素敵なものたちを、彼はいつでも素直に見つけ出す。そんなところがとてもうらやましくて、ちょっぴり悔しかった。アルトくんと同じように世界が見えたらいいのにな。――なんて思いながら、わたしは立ち上がった。大きく外景を望むテラスに近付くにつれて、肌寒い風がわたしの白金の髪をさらう。思わず肩口にかけたショールを掛け直しながら、彼の待つテラスへ。
「何かあったの?」
「空、見て」
 にこり、笑って天を仰ぐ。わたしもつられて、仰いだ。
「わ、あ。星が綺麗」
「でしょー。この時間にさ、空見るの好きなんだよね」
 海の底のような深い深い宵闇に、瞬く繊細な星々が散りばめられていた。こぼれそうな星空と、城下に流れる灯りの群れ。爪先から頭のてっぺんまで、まるで星空の中に放り込まれたようで、すこし眩暈がした。
「アルトくんってば、変わらないね。……いいな」
「えー? どういうこと?」
 彼は小首を傾げて笑う。何を言い出したんだろうこの子は、と言いたげな様子。それを言いたいのはいつもわたしなんだけどな、とちいさく笑う。
「アルトくん、穴倉にいる頃も夕陽とかよく見てたでしょ。……わたし、忙しくって見なくなったりするから。アルトくんの見る世界は、きっととってもきれいなんだろうなって。だから、いいなって」
「んー? そんなことないよ。きっと、リカの見てる世界と一緒だよ」
 あはは、と笑うその無邪気な声も、変わらない。ずっと昔から、いつもわたしの肩の力を抜いてくれる声。
「きっとね、俺はちょっと真面目じゃないだけだよ。よそ見ばっかり」
「それは否定しないけど」
「えー? 改めて言われるとちょっと傷付く」
 そんなことを言いながらも、浮かべる笑みはそのままで。わたしもつられて、笑う。口許に当てた左手の薬指にひかる指輪も、星々のひとつみたいに思えた。
「アルトくんは、そのままでいてほしいな」
「どうして?」
「どうしても」
 ふふ、と笑うわたしに、あなたは不思議そうな顔をする。
 あなたのいない日々なんて、考えた事がなかった。あなたはいつも、わたしの世界にやさしい光を灯してくれる。あなたの目が、わたしの心を和ませる。それを失ってしまったら、わたしの世界はどうなるんだろう。ふっと、考える。
 いつか、彼と共に生きることを決める前、一年とちょっと、彼のいない日々を過ごした。彼がいないことに胸を痛めるだなんて、昔の自分はきっと想像さえしなかった。あなたのいる、当たり前の日常。当たり前という名のしあわせ。
「わたし、きっとすごくしあわせだわ」
「そう? じゃ、俺も嬉しいな。うん、幸せ」
「アルトくんったら、もお」
 知らず、目元がふわりとやわらかくなる。目の奥に滲むそれは、悲しみからくるものではなくて。あなたが幸せだと笑うのが、嬉しい。わたしの幸せを、あなたが喜んでくれるのが嬉しい。しあわせという名のつくすべてで、あなたを包んでしまいたい。いつも、幸せだと笑えるように。――そんなことを言ったら、彼はなんていうだろう。きっと、わたしはそんな風に素直には言えないけれど。涙のにじむ目元を見られないように、もう一度天を仰ぐ。
 星がきれいだと、夕陽がきれいだと、ごはんがおいしいと、すべてに幸せを見出すあなたの側には、きっと幸せが溢れている。わたしの世界で星が美しく瞬くのは、きっと彼がいるからなのだろう。あなたはわたしの世界のひとつひとつに、灯りをともしていく。本当に世界を変えたのは、きっとあなたのその力なのかもしれない。誰よりも無邪気な、やさしい英雄。
「アルトくん、ありがと」
「さっきからリカ、なんか変じゃない? どうしたの?」
「へ、変っていうことないじゃない」
「だって、おかしいよ。……でも、嬉しいよ。俺こそ、ありがと」
 へへ、と笑って彼の手がわたしの頭を撫でる。ぽんぽん、とやわらかな感触がくすぐったい。子ども扱いしないで、とむくれてみせると、してないよ、と笑う。
「うん。星見るの好きだけど、リカと見てるとなんかもっと好きになれそう」
 え、と小さく声を上げる。同じようなことを、考えていたばかりだからだ。
 小首を傾げると、彼も同じように首を傾げて微笑んだ。
「好きなひとの好きなものだからさ。そう考えると、好きなものがすごい増えてくんだよね。困っちゃうなー」
 あはは、と頬を掻く。あまりに悪びれも無くいうものだから、思わずこちらが赤面する。わたしは頬に手を当てて、ばか、と呟いた。頬が熱い。いつもいつも、不意打ちしてくるのだ。心の準備が追いつかない。
「アルトくん、いつもいつも、恥ずかしくないの……」
「ぜーんぜん。恥ずかしくないよ? ほんとのことだからねー」
 思わず口から出た問い掛けに、あなたはとても嬉しそうに、そしてすこし悪戯気に笑う。わたしをからかう時の表情。
「リカは恥ずかしがり屋さんだからねー」
 わしわしと頭を掻き乱してくる彼に、思わず肘鉄。笑って避けるその様子も、妙に楽しそうで眩しい。ああ、この人は本当に、しあわせな人。それをこんなに近くで見ていられるわたしも、きっと誰よりもしあわせ。そんなこと、誰にも言う気はないけれど。
「さ、風邪引くと悪いから部屋に戻ろう」
「ちょっと冷えたね。何か飲む? 淹れるわ」
「んー。林檎パイ食べたい」
「の、飲み物を訊いてるの!」
 にこにこと見当違いな返答をしてくる彼に、思わず肩を落とす。あははー、とのんびりとした笑い。眠いのかもしれない。
「林檎パイって言ったって、今そんなの……」
「だからさ、今度村に遊びに行こうよ。ちょうど、エーレの試食会の時期じゃない?」
「アルトくんがいきなり行ったら驚かれるわ」
「えー、昔馴染みだしだいじょぶだよ。きっと」
 ふわふわとした回答に、少し頭を悩ませる。昔から変わらない。楽天的すぎるくらい楽天的。すこし考えて、思わずふっと笑う。
「……そうだね、今度遊びに行きたいね。ファーナーおばさん、元気かしら」
「きっと元気だよ」
 ね、と頷いて微笑んでみせる。あなたはそれを見て、うん、と嬉しそうに頷く。ただの相槌なのに、あなたのそばにしあわせが滲む。
 もしかしたらきっと、このしあわせはわたしの中からも滲んでいるんだろうか。だからあなたは、そんなに嬉しそうなの?
 そうだったらいいなと、思ってふっと笑った。
「明日も晴れるといいねぇ」
「そうだね」
 雨が降ってもしあわせだけど、と心の中で付け加える。

 星降る夜も、晴れの朝も、雨の日だって。
 きっとあなたが、そばにいれば。