――時を遡ること十数時間。
 リヴェーラを発って、一番はじめの夜のこと。

 夜が更ける。
 涼やかな虫の音。月影冴える青い夜闇に吐息をひとつ。故郷ではまだ息がしろくなったものだが、それも無く。
 場所が違えば気候も違う。それとも、故郷を発った日ももう幾日も遠く過ぎ去った為か。季節がうつろいゆくのを、こうして少しずつ感じていくのだろうか。
 ライヒアルトは馬車の隅に腰を掛けていた。ぶらり、幌の外に足を投げ出す。寒くはない。気持ちのいい澄んだ風が幌をわたる。そっと身を乗り出して夜空を仰いだ。故郷の森の中とは違い天を遮るものもなく、こぼれるような満天の星空が頭上で瞬く。
 月を眺めるのが好きだった。幌の中で眠る少女もそうだった筈なのに、規則正しく日々を送る彼女は月を眺める事も無い。一瞬、揺り起こしてやろうかと思ったが、やめた。旅慣れぬ彼女から休息を奪う事も無い。
 幌の中で眠るスヴェンとリカルダ、翼の少女ジナイーダの寝息が聞こえる。やや手狭な幌の中はそれで埋まってしまい、ライヒアルトは半ば居場所を失ったようにも思えた。ただでさえ持て余し気味の手足は、こういった狭い空間で他人と眠るにはやや不向きだ。
「――おう、アルト。暇してるみてえだな」
 不意に、幌の外から重低音。見張り当番の傭兵ジークムントが、起こした焚き火の傍で足を投げ出しながら肩越しに振り向いた。にやり、笑う。
「ジークも、暇してるみたいだね?」
 くすり、と笑って返した言葉に、ジークムントは不貞腐れたように「うるせえよ」と返す。傭兵は空を仰いだ。
「ねぇ、ジーク。そういえば、リヴェーラで俺たちといなかった時は何してたの?」
「あぁ、頭冷やしがてら散策してたぜ。ちょいと、家の中なんかを覗きつつな。蒸留酒でもありゃ儲けものだと思ってよ」
 傭兵は手にしていた瓶をあおる。きらり月影に煌めくそれは、冴える星空にも似た深い青。ライヒアルトは興味を引かれた様に身を乗り出した。
「もしかして、それリヴェーラで見つけたやつ?」
「ああ、中々の上物みたいだな。悪くねえ」
 傭兵は、ぷは、と息を吐いた。ぼんやりと考え込むように天を仰ぐ。ぱちり、はぜる薪。
「――で、頭冷えた?」
「おう、冷えた冷えた。ちょいとな、俺も苛立ちすぎてたとは思ったんだよ。よおく考えてみりゃあ、この数日酒を飲んでねえ。こりゃあ死活問題だぜ」
「えー、結局怒ったのってお酒不足が原因なの?」
「かもしんねえな」
 かっかっ、と傭兵は笑った。ライヒアルトは珍しく呆れたように眉を引き上げた。
「リカさ、本気で落ち込んでたんだよ」
「へっ、ま、過ぎた事は置いとこうぜ。――どら、お前も飲むか、アルト」
 傭兵は上機嫌そうに左手でからからと青い瓶を揺らしてみせた。月のひかりに、鈍く輝く。夜の海のようなそれは、美しい青硝子。
 興味深そうに目を丸くし、ライヒアルトは幌馬車からしゅたりと下りた。ぱちり燃える焚き火の傍に、腰をつく。
「お酒ってさ、美味いの? 前ジークと飲んだ時は、苦いなーって思ったけど」
「おう、それぁお前がまだがきんちょってコトよ。こいつぁ、苦い現実を束の間忘れさせてくれる魔法の薬なのさ」
「わっかんないなー」
 ライヒアルトは笑った。両手を背後の地につけ、重心をやや後ろにたおし楽な姿勢で、そのままかくんと空を仰いだ。瞬く星空。
「――ハルド、明日には着くかな」
「ああ、馬車ならそれくらいで着くと思うぜ。……食いもん買い込んで、ちいとお前の装備も見て、金がなけりゃちいっと働いて、だな」
「はたらく?」
 ライヒアルトは目を丸くしてジークムントの方を振り向いた。傭兵は硝子瓶をあおりながら頷く。
「人口が多いからな、ハルドは。雑事を他人に依頼するような習慣があるのさ。ま、流れ者が働くには丁度いい街よ」
 ふうん、と頷く。故郷でしていたように毎日働かずとも給金が稼げるらしい。世の中にはまだまだ馴染みのない習慣がたくさんありそうだ。
「……そういえば、こうして見張りしてるけど何か異状ってあった?」
「いや。こんな異形の乗り物も、焚き火も、野生の獣にゃ近寄りがてえ代物なんだろうよ。時たま影は見えるが、睨んだだけで尻尾を巻いて逃げ出すぜ。面白いくらいによ」
「それ、ジークが怖いんじゃないの?」
「馬鹿言え、人聞きの悪い」
 からかうようなライヒアルトの言葉を、ジークムントはかっかっと笑い飛ばした。あながち間違いでも無いらしく、また満更でも無さそうだ。ライヒアルトは噴き出す。
「ジークもさ、物好きだよね。普通俺みたいな変な奴の話になんか乗らないよ」
「馬鹿言え、面白そうじゃねえか。そろそろ面白えことに首突っ込みてえと思ってたんだよ。……アイゼンシュタットにゃ、俺の実家の鍛冶屋の跡くれえあるだろ。俺の剣を作った俺の親父の試作品が、まだあるかもしれねえ。もし何の手がかりもなくても、それはお前の役に立つだろうしよ」
「いいの?」
「持ち主も無く転がってるよりゃ、マシだろ」
「そっか」
 どこか虚ろな傭兵の声に、ライヒアルトは曖昧に頷く。自分と違い、この傭兵は両親との記憶を積み重ね、そして、奪われたのだろう。しかし乾いた声からは感情を窺うことは出来なかった。
「――ま、湿っぽい話は抜きにしてよ。飲もうぜ、アルト。男と男は酒と拳で語るもんだ」
 傭兵の声がからりと明るくなる。空元気でもなんでもなく、湿っぽい空気が得意では無いのだろう。男の言葉に、ライヒアルトは困ったように頬を掻いて「拳で戦ったら負けるよ」と笑った。違えねえ、と返しながら傭兵は酒瓶を押し付けてくる。思わず受け取ったライヒアルトは、その青い硝子瓶を深い夜空に浮かぶ月に翳した。鈍くひかりを通すそれが、青くきらめき、その身の内で流れがたゆたう。海を閉じ込めたようなその美しいそれに、しばし見惚れた。
 きれいだね、と思わず呟く青年に、ジークムントは片眉を跳ね上げた。そして、口の端を上げる。
「俺なんざその中身にしか興味はねえっつうのにな。なかなか繊細な事を言いやがる」
「きれいなものをきれいだと思う気持ちは大切にしろって、育て親が言ってたからね」
「は、お前の親らしいな。随分夢見がちだ」
 愉快げに笑うジークムントに、ライヒアルトもにこり笑ってみせた。
「じゃ、ま、男の語らいはお酒から、らしいし。飲んでみよっかな」
「おう、飲め飲め。だが、俺の分は残しておけよ」
 全部なんて飲めないよ、と笑い、ライヒアルトは青い硝子瓶を口につけ、暫し躊躇ったあと、一気にあおった。
 喉の奥がかあっと熱くなり、むせた。頭の奥がじわじわとまわる。中空を漂うような感覚に、ふらりとする。
「……よく、こん、なの、飲めるね?」
「水みてえなもんよ」
「水の方が美味しいじゃん……」
 けほ、とむせる。世界がまわる。ぐるりぐるりと、芯から意識がはがれおちる。
「おい、アルト。……やっぱりお前にはまだ早えか」
 そりゃむりだよ、と答えようとしたが、それも叶わず。そのまま記憶が、途絶えた。




「……ジークさん、これ、どういうことですか?」
 朝、遠く地平線の彼方に陽が滲み始めた頃。
 誰よりも早く目覚めた少女が、半眼をジークムントに寄越す。傭兵は決まり悪げにすっと目を逸らした。
 海都の二人は未だ目覚めず、焚き火の跡の傍に足を投げ出し座る傭兵の傍に寝転がり、ふにゃりととろけた眼差しで、青年が顔を上げた。
「りかー、おはよー、りかー」
 青年はこの上なく楽しそうだ。着衣が汚れるのにも構わず、地面に転がっている。傍らで転がる青い硝子瓶に草を詰め込んで遊んでいたらしい。全く意味がわからない。
「……アルトくん、なにしてるの? 寝ぼけてるの?」
「えー、薬草つんでた」
「アルトくん、それ多分雑草だわ」
「えー、やくそうだよ?」
 あはは、と笑って瓶に草を詰め込んでいた青年が、そのままぱたりと顔を伏せた。動かなくなる。
「……ジークさん、もう一度訊きますけど、これ、どういうことですか?」
「俺が訊きてえよ……」
 傭兵は目をすっと逸らしたまま、低い低い声でぼそりとぼやいた。どうやら酒を飲んだらしい。そして、こうなったらしい。なるほど全く意味がわからない。
 リカルダは呆れたように深くため息をつき、すとんと馬車から下りた。そして、ライヒアルトの傍らにしゃがみ込む。
「アルトくん、起きて。そんなところで寝たら汚れちゃうし、風邪引いちゃうわ。ね?」
「ううー、もうちょっと……朝の鐘鳴るまで、ねる……」
「ここに鐘はないの! だから早く起きる!」
 ぺし、と頭を叩く。ライヒアルトが渋々と恨みがましげに顔を上げた。ずりずりと肘を後退させ、それを軸に起き上がる。そして少女の前で神妙に正座してみせた。やはり意味が分からない。リカルダは訝しげな表情を浮かべながら、とりあえず「おはよう」と声をかけた。青年はゆっくりと神妙に頷く。
「……薬草摘んでた」
「だから、雑草」
「やくそう」
 ぼそぼそと、未だに認めたがらないように言い張るライヒアルト。背後で傭兵が噴き出した。そっぽを向く。
「……っく……っくくくく、何だこれ、なんだこいつ、訳分かんねえ……っくくく、ぶはははははっ、ひひ……ッ」
「ジークさん! 他人事みたいに言わないでくださいッ!」
「ひ、他人事なんだから仕方ねえだろうが、ひ、ひひ」
 つぼにはまったらしく、傭兵が笑って取り合わなくなった。ライヒアルトが薬草であることを証明しようとしているかのように身を乗り出し、リカルダの前に転がる青い硝子瓶に手を伸ばそうとした。リカルダがたまらず叫ぶ。
「もおおおおおお! アルトくんもしっかりして! 起きて! わけのわかんないこと言わないでッ! 朝なんだよ、もうそろそろ出るんだよっ!?」
「……りゃ?」
 不意に、ふらりライヒアルトの体がふらついた。そのまま、前方へ、リカルダの方へ、くらりと体勢を崩し――。
「きゃあああぁぁぁああぁあっ!?」
 幼馴染が倒れ込んでくる。血が上る。顔が瞬時に、熱くなる。反射的に幼馴染の頭を払いのけ叩き落とした。「えう」と呻き、幼馴染が地面にのめり込む。
「……おうおう、ひでえことしてやがる」
「だだだだだってアルトくんが! アルトくんが! 倒れて! こようと! するから!」
 立ち直ったらしい傭兵の言葉に、リカルダが顔を赤く染めたままパニックに陥る。叩き落とされた青年はべたりと地に伏せて何も言わない。


 
 ――青年の意識が正常に戻り、リカルダに叱り飛ばされ、訳が分からないままに首を傾げるまで、あと、もう少し。






※時間軸は4-5の前