細い指が、糸を針にくぐらせる。
 膝の上にくたりとする赤い布に針をくぐらせる。何度も、何度も、繰り返した。
 針仕事は得意だ。この程度のほつれなら、お茶を蒸らすような短い時間で手早く出来る。それでも、彼女は終わらせたくなかった。すこし考えて、またするりと糸を抜いてみせた。
「――ねぇ、リカ。俺のマント、何回縫ってるの?」
 背後から聞こえた甘くやさしいテノールに、少女はびくりと身を竦ませた。
 陽はまだ高く、広いテラスでひかりを透かした薄い白いカーテンをそよりと爽やかな風が揺らす。窓辺の少女の白金の髪も、あかるい光に縁取られてまるでまばゆいひかりの糸のように、ふわり風にあそんでいた。少女の顔は見えない。青年は先程からずっと、窓辺の椅子に腰かけて窓の外を臨む少女がそのほっそりとした細い指先を器用に動かして縫い物をしているのを、黙って眺めていた。これが、何時間続いた事だろう。少女はずっとことばを発しなかった。発したことばから、何か望ましくない事態がずるずると引きずり出されてしまうのを恐れるように、ことばを発することを――いや、そもそも青年と顔を合わせることさえ恐れていた。
 少女と言っても、彼女は既に成人をむかえている。既に女性と呼んでも差し支えない年齢ではあるが、そのちいさなあどけない顔も、細い手足も、そして青年より頭二つ分も低いそのちいさな背丈も、少女という表現がしっくりくる。あかるく綺麗な若草色の瞳が印象的な、あどけなく可愛らしい娘。
 彼女の名前は、リカルダという。ロサスという姓を名乗っていた彼女も、嫁いでからは夫のローデンヴァルト姓を継いでいた。が、未だにそう名乗るのを聞いた事がない。彼女はいつでもリカルダ=ロサスで、夫の姓を名乗るのをどこか気恥ずかしく思っていたと言っていい。
「な、な、なかなか、あの、上手くいかなくて、その」
 澄んだ声で、上擦った言葉を返す。振り返らない。代わりに、縫い物をする手元の動きがせわしなくなった。この調子ではそのうちマントに大穴が開く。背後から夫である青年ライヒアルトのちいさなため息が聞こえた。
「そんなにしっかりしてなくても大丈夫だよ?」
「だだだ、だ、だめだよ、だって、アルトくんは、お、王様なんだから」少女の声が早口になる。「おおお、王様が、きれいにしてないなんて、だめだわ」
「だって、ほつれたのって裾の方でしょ? 見えないよ」
「だだだだだめったらだめなの!」
 別に完璧にマントを補修したい訳ではない。単に、顔を合わせない口実が欲しいだけだ。青年が僅かに傷付いたように低いゆったりとした声で、「……俺のこと、嫌? 話したくない?」と訊ねてきた。思わず、顔を上げる。
「そ、そんなわけ……ないじゃない」
 ちらりと窺うように青年を振り向く。だが、その端正な顔を見た瞬間、すぐに俯いてしまった。顔が熱い。
 リカルダと夫のライヒアルトは幼馴染で、戦災孤児として同じ家に引き取られていた。その頃は隣で寝る事など日常茶飯事だった。共に旅をしていた頃もだ。それでも、状況が変わってから――つまり夫婦として皆の前で誓いを交わしてから、彼女はそれが出来なくなった。結婚して再び一緒に暮らすようになってから、一度も隣で眠ることはおろか近付くだけで飛び上がってしまい、彼を避けてしまう。その態度が彼を傷付けているかもしれないとずっと思っていて、それでもやはり、だめだった。どうやって接していいか分からなかった。彼は、自分の、夫なのだ。その事実を思うだけで、顔が赤らむ。端的に言えば、少女は現状を受け入れられずにいた。
「じゃあ、お茶でもしようよ。俺、淹れるよ?」
「……う、わ、わたしが淹れる……から、アルトくんは座ってて」
 少女は渋々立ち上がった。アルトくんが淹れるとどうなるかわからないし、とぼそぼそ呟いて、少女はぱたぱたと執務机を横切り大きな扉から部屋を出ようとした。彼の前から離れる事が出来ることに、少しほっとする。心臓が飛び出しそうだった。早くひとりになって、落ち着けたい。何日も何日も、そう思っている。
「待って」
 ――夫のライヒアルトの声に、立ち止まる。
「う、え? な、なにかあっ……?」
 振り返った先に、いつの間に立ち上がったのだろう、すらりとした長身の青年。頭二つ分ほど背の高い彼の顔をまともに見上げ、少女はちいさく悲鳴を上げて後ずさった。
 きれいな顔だ。整った顔立ちと、はしばみ色のやわらかな髪。故郷にいた頃は、寝癖を直してあげると、ありがとー、と無邪気に笑っていたものだ。空をうつしたような明るい瞳も、今は僅かにかなしげに少女の顔を覗き込んでいた。どうしていいかわからないように、彼はくちびるを噛んでいる。少女は顔を赤らめ、下を向いた。彼に何て言えばいいんだろう。恥ずかしい? 何が? このひとと一緒にいることが? ――違う。うまく言えない。けれど、彼が傷ついているのは確かだった。こんな状態がもう、一か月ほども続いている。毎日同じ部屋で眠っていても、少女はいつも緊張していた。近付かれることさえ怖くて、ひとりソファで眠ろうとした。そんな彼女に彼はそのやさしい声で、リカはベッドで寝て、俺はソファでいいよ、とやさしく笑う。近付くことも、手を触れる事さえ彼はしない。それでも優しく許してくれる彼に罪悪感すら抱き始めたのは、何日目のことだったろう。それなのに、それでも。
「……お、お茶、淹れに、いく、から……」
「お茶はやっぱりいいよ。……ねぇ、俺、リカと前みたいに色々話したいし、笑ってて欲しいよ。リカがそうやって緊張しちゃうのは、俺のせいだとは思うけど――」
「ア、アルトくんは悪くない……よ」
 目を背けたままこたえる自分の声は、言っている傍から尻すぼみになって消えていく。どう言っていいかわからない。彼のかなしげな声音を聴いているのはつらいのに、それを打ち消す手段がない。――きっと、女性として、女性らしく、夫である彼の傍にあればいい。きっと彼もそれを望んでいる。けれど。――青年は俯く。
「近付くことも駄目かな。……その、前みたいに、出来るだけでも、いいんだけど」
「……い、いやだ、なんて、言ってないわ」
「だってリカは、俺を避けてるよ」
 力無い声。少女はくちびるを噛んだ。違う、違うの。あなたを、傷付けたい訳じゃない。そんな声聞きたくない。だけど、彼にこんな顔をさせているのも、かなしげな声にさせているのも。少女は一瞬夫の顔を見上げ、すぐに顔を下げた。「アルトくん、そんな顔、しないで」とちいさな声で言う。青年は首を横に振った。
「リカが笑ってくれたら俺もそうする」
「……わ、わたし、笑ってるわ、……ね?」
 にこり、笑ってみせる。表情がうまく動かない。さぞ引き攣った笑顔だったことだろう。青年がまた、表情を曇らせた。
「今のリカ、ジークと初めて会った頃に似てる。いくら俺が能天気でも、分かるよ。君は俺を、怖がってる」
「わたしがアルトくんを怖がるわけ……」
 言葉が終わらぬうちに、ライヒアルトは一歩前に出た。彼女の肩に、手を掛ける。リカルダは引き攣ったような声を上げた。肩にかかる大きなてのひらの感覚。温かいそれが、じわりと底知れない不安感を煽る。彼の表情は、真剣そのものだった。少女はびくりと肩を竦ませ、俯く。まともに彼の顔が見れない。心臓が早鐘を打つ。きゅっと目を瞑った。刻む鼓動の音が、うるさい。顔も耳も熱い。ああ、こんな瞬間が嫌だった。考えるだけで、胸が苦しくて、その先なんて考えられなかった。彼の言うとおりだ。――怖い。
 結婚してからも、「男性」である彼を意識するのも、「女性」である自分を意識するのも、どうしても出来なかった。彼は気のいい幼馴染で、いつも弟のように世話をしていたのに、いきなり関係を変えることなんて出来なくて。――いや、恐らく意識し始めたからこそ、自分は怖いのだ。変わりたくない。今までのままでいたい。早鐘を打つ心臓は、確かに彼に惹かれる気持ちを表しているのに、それを認めたくない。認めた瞬間、全てが変わってしまうから。
 黙って俯いたまま小刻みに震えるリカルダに、ライヒアルトはちいさくため息をついた。少女が、僅かにまた、ぴくりと震えた。彼を散々避けておきながら、彼に呆れられたくなかった。やさしい彼は、あかるい彼は、ため息を他人につくことは殆どない。近頃そのため息をつかせているのは、自分なのだ。その事実に、底知れぬ不安を抱く。触れられるのも怖い。だけど、嫌われてしまうのはもっと怖かった。少女は思わず顔を上げる。
「――ねぇ、俺は」ライヒアルトはその甘やかなテノールを低くする。囁くように、掠れるような低い声。「君が好きだよ。君といるのが好きだ。笑っててほしい」
 ひゃ、と少女はか細い悲鳴を上げた。いつも無邪気な彼の声が、今日はどこか違う。「男性」を意識させるそれに、身を竦ませる。いやだ。いつものアルトくんに戻ってほしい。こわい。胸がどきどきする。
「ごめんね、俺は君を笑わせることさえ出来ない。俺が君の旦那さんとして足りないなら、言って」
「ちが、うの、アルトくんは、そのままで、いいの、……」少女はかぶりを振った。泣きそうな震える声で、言う。「いつもの、アルトくんで、いいの」
「いつもの俺って? 能天気で、何も考えてない俺?」
「そういう、わけ、じゃ――」
 不意に、彼が少女の顎に手を掛け、ぐっと引き上げた。少女はちいさな悲鳴を上げる。自分を見下ろす青年の端正な顔から、目を逸らせない。真剣なその眼差しは、いつもの彼とは違う。
「俺は君に近付きたいだけだよ。……あのね、リカ。知ってる? 俺だって――」
 青年はその端正な顔を切なげに歪め、じっと少女を見詰める。震える細い顎に触れた大きな手の感覚が、その温かさが、怖かった。彼が怖い筈ではなかったのだ。彼の中に眠る男性性が、とても――怖かった。ああ、自分は涙を浮かべていただろうか。滲む視界と、頬を伝うもの。少女は必死に顔を下げようと抵抗しながら、きゅっと目を瞑った。何かが変わってしまうおとがする。境界線は、すぐそこにある。それを感じていた。ああ、でも、それでも。わたしは。
 不意に、青年の手が離れた。少女は驚き、顔を上げる。
「――もう、そんなに、怖がらないでってば。……さすがに俺も傷付くよ?」青年の顔からは、先程の妙な目付きの鋭さが消えていた。彼はやや気まずげに頭を掻く。「……ごめんね。傷つけたいわけじゃなくって、俺は、ただ」
 彼は口を噤んだ。怯える少女に目をやり、一瞬困ったように目を逸らす。そしてしばらく考えた後、彼は両手を開いた。少女は身構える。そして直後に、ふわりと身を包まれる感覚と、服越しに頬に伝わる体温。そして、少女の心臓の音と同じくらいに早鐘を打つ、鼓動。
「こうして、触れたいだけだよ。――もう、俺、そんなに変なこと言ってる? ぜんぜん、君が怖がるようなことじゃないと思うんだけど」青年はふてくされたような声で言い、少女を引き寄せる腕に力を込めた。「俺だって怖いよ、君に嫌われるの怖い。でも、君は可愛くて大好きな俺のお嫁さんで、……もう」
「あ、ある、と、く」
 顔が熱い。少女は真っ赤な顔をして、青年の名を呼ぼうとした。声が震える。――怖くはなかった。ただ、熱い。熱に浮かされたようだ。何を言っていいか分からない。言葉が見つからない。きゅっと抱き寄せられて、頬がぴとりと青年にくっついた。青年の腕の中は、熱かった。それが自分の熱さなのか、彼の熱さなのか、分からなかった。震えているのも、早鐘を打つ心臓も、リカルダだけではなかった。彼も、同じ。
「ねぇ、リカ。……本当は、今までみたいに話してるだけでいいなんて、嘘だ。だけど、別に、俺は、急がないよ。ただ、すこしだけ、君をぎゅってしたいだけ。それでいい。それでいいよ。……それも、駄目?」
「え、あ、う……っ」
 言葉にならない声を上げて、少女は震える。嫌じゃない。このひとの腕に抱きしめられるのは、嫌じゃなかった。だけど、心が告げる。境界線を、越えたくない。わたしをただのか弱い女にしないで。"あの"アルトくんの前で、弱いひとりの女になりたくない。それは負けを認めるのと同じ事だ。絶対に、許されない。それなのに――
「……ゆっくり、歩こう。君の望む歩調で歩くよ。俺はそれでもきっと、しあわせだ。でも――」青年は、そっと少女の頭を撫でる。「もう一度、聞くよ。俺は君といたい。リカ、俺と一緒に生きてくれる?」
 少女は黙ったままだった。
 ――このひと以外の誰と生きろと言うのだろう。きっとたくさんの偶然の巡り合わせを越えて、"どうしようもない幼馴染み"に抱いた想い。それを運命と呼びたくはなかった。偶然と偶然の積み重ね。その末に、このひとと生きると、わたしが、決めた。その想いは、変わらない。一緒にいたいのは、傍にいたいのは、わたしも――同じだ。
 何を恐れているのだろう。わたしはとっくに境界線を越えていた。このひとと生きると決めた時から、このひとの切ない顔を見て胸を痛めた時から。このひとを一生分護り抜きたいと、そう思った時から。
 ――少女は、ゆっくりと頷いた。確かに、一度だけ。
 そう頷いた瞬間、力が抜けた。リカルダの、そして、ライヒアルトさえも。
 青年の腕の力が抜ける。崩れ落ちるように身を折り、大きくため息をついた。青年の頭が少女の頭に触れたのを感じ、少女は僅かに身を竦ませた。そんな彼女を、彼は今一度強く、ぎゅっと抱きしめた。
「――リカはさあ、何も言わないし、黙って俺を怖がるから、俺、気が気じゃなかったんだよ」青年は安堵しきって力の抜けた声で、ややふてくされたように言う。「俺だってさ、いっつもへらへらしてるけど、別に何も考えてないわけじゃないし」
「わ、わた、わたし……」
「リカのばか。すきだよ。俺、君のことすきだ。よくわかんないけど、すごく、すきだ」――支離滅裂だと、リカルダは思う。けれどそれを口にするよりも先に、頭の芯がぼうっと熱くなる。頭が回らない。「嫌われるのが怖いよ。君は俺を嫌わないって知ってるけど、それでもなんて言ったら君を傷付けないかっていっつも考えてる。君の表情が曇るのが怖いし、傷付けたくない」
 堰を切ったようにふてくされた声で続ける彼の言葉を、黙って聞いていた。何と答えていいかわからない。
「もう、こんなの、初めてだよ。責任取ってよ」
「せせせ、せきにんって」
「ぎゅーくらいさせてよ、リカのばか」
 ふてくされたような声で青年の告げる、不満そうな言葉。まるでいつもリカルダが彼に投げているようなその言葉に、彼女は思わず青年の顔を見上げた。――至近距離に、青年の顔。そうだった、顔が近かった。忘れていた。少女は目を見開く。
「……その次もしていいの?」
 青年はやっと、にこりと笑った。少女は悲鳴を上げんばかりだったが、言葉が出ない。反射的に彼の鳩尾に拳を叩き込んだ。さほど衝撃はなかったらしいが、うぇ、と彼は呻く。
「いったた……、……流石に俺も、その心の準備はないよ。俺も、小心者だから」
 どこが、とリカルダは心の中でひとりごちた。何が小心者だ。いつもいつも、平気な顔でわたしの平静を乱してくるくせに。――そんな彼女の胸中はつゆ知らず、彼はもういちど彼女をぎゅっと抱き寄せた。
「ありがと、リカ。……ゆっくり、歩こう。俺と、君とで、同じ歩幅で」
「……、」
 少女は口籠った。そのあまりに優しい声に、力が抜けそうになる。故郷にいたころの自分の立場なんて、威厳なんて、もうまるで、形無しだ。護ってあげなきゃいけない相手だと思ってたのに、このひとに翻弄されている。それが無性に悔しい。それなのに――やはり、嬉しかった。こんなに不器用な自分の傍を、彼は同じ歩幅で歩いてくれる。胸の奥がきゅうっとする。こみあげる想いを、いとしさと呼ばずになんと呼ぼう。
 リカルダは黙ったまま、もう一度、頷いた。確かに胸に宿る想いを、肯定するように。


「……うー。リカ抱っこして寝たい。安眠できる気がする」
 ――不意に青年がもらす。瞬間、少女は思わず、彼を突き飛ばした。ええー、と呻きながら青年がよろめく。
「そそそそそそそれ以上安眠されたら、こ、こ、困るもの! そそそんなの、だだだだだめよ!」
「べ、別に変な意味はないよ、ぎゅーの延長でさー」
「だめ、だめったらだめ!」
「ええー……」
 境界線は本当に、難しい。いつか越えられる日はくるのだろうか。
 真っ赤な顔をして肩をいからせる彼女に、青年は困ったように頬を掻いてみせた。
 ああ、それでも。彼は思う。ゆっくりと歩む日々はきっと、悪くない。この不器用で愛しい妻をたまには困らせながら、少しずつ距離を縮めていこう。


 あなたと、君と、生きていく世界。
 それが愛しいということなのだと、ゆっくりと知ってゆく。
 ――そんな日々はきっと、悪くない。