ただ静寂だけが、あった。

 穴倉の中、"我が子"達や同居人の為に設えた部屋には、最早人影も無く、かつてさざめきのように穏やかに耳に届いていた愛らしい喧噪も、はたりと止み。
 からり、からりと回る風見鶏の音が静寂にちいさく響く。それが回るのを楽しそうに眺めていた子供たちの姿さえ、もう無い。
「静かですわね」
 やわらかな女の声。ややしわがれて聞こえるそれは、"同居人"の老婆リリーのものだ。
「そうだな。……静かだ」
 答えるロルフの前に、落ち着いた足取りでやってきたリリーがカップをことりと置いた。ハーブティーだろうか、独特の香りが鼻をつく。
 食卓は広い。己だけが座るには、そしてリリーが座ったとてその広さは目に余る。かつては愛しい"我が子"達が、ここで賑やかに食事をとっていたことを思い出す。その愛しい喧噪の記憶は目の前の静かで広い食卓と裏腹だ。ロルフは微かに笑った。
 ロルフの対面に座り、リリーは己のカップに口をつけた。品のあるその飲み方は、若い時分から変わってはいない。飄々とした性格とは裏腹に、随分品の良い女だと思った記憶がある。
 ――彼女も年を取った。その肌に皺の一つも無い頃から共に過ごし、そして戦時に身寄りを失ったみなしご達を我が子同然に育てた。その"我が子"達も、みな巣立っていった。めまぐるしい、愛しい、数十年。
「このハーブティーも、」リリーはそっと目を伏せる。「リカルダと一緒に、作っていましたのにね」
 思い起こした愛し子たちの記憶。ああ、そうだ、あの娘は本当に良く家の事を手伝う娘だった。おばあちゃん、おばあちゃん、とリリーの傍をついてまわり、共に畑の世話をしていた姿をよく覚えている。ハーブティーを飲んでみたいと言い出したのも、確かあの娘だった。ロルフが近くの村の民に一鉢貰って帰った日には、目を輝かせていた。一緒に育てましょうね、と言ったリリーに、とても嬉しそうに頷く顔を今もよく覚えている。
「そろそろ作るのを止めても良いだろう、……あの子も巣立ってしまった」
「あら、近頃はマルテがハーブを使ったケーキを考えると言ってせっせと持っていくのですよ。止める訳にはいきませんわ。……そうそう、マルテが試作品だと言ってケーキをくれたのだったわ。食べますか、おじいちゃん」
「ああ、頂こうか」
 食卓に載っていた箱は、その試作品とやらだったらしい。二人分に切り分けられていたそれは、まるで売り物のようにきれいな形をしている。この穴倉で育ったマルテという娘は、菓子作りが好きだった。それを活かしたいと、馴染みの近隣の村に暮らし、喫茶店に勤めたと聞いた。
 巣立っていった子供たちの中でも、一番近くに住む彼女は比較的頻繁に顔を出す。今まで巣立っていった子たちも、あの子のように顔を出してくれればいいと思う気持ちは確かにある。しかし、そういう訳にもいかないのだということも、よく、分かっていた。
「……ふふ、子どもたちを育てる為に安全な地を求めて此処まで来たというのに、結局最後に残るのは私達ふたり、ですわね」
「役目は果たした、という事だろうかな。……しかし、お前と二人と言われてもどう過ごしていいかわからんな」
「あら、心外ですこと。――何も、変わりはしませんわ。穏やかな日々を、これまで通り重ねるだけ」
 ロルフとリリーは、夫婦ではない。かつてそれぞれにあった伴侶は、故郷を失った時に共に命を落としている。彼らは伴侶の事を愛していた。だから、互いに想いがある訳ではない。彼らはただ、共に生き、共に戦っていただけなのだろうと、お互いがそう思っていた。それ以上でも、それ以下でもなく。
 それでも、この静かな部屋の中で思い返す数十年は、とても愛しいものだった。それを作り上げていた互いの事を、特別と思わなかったといえば嘘になる。
「……ロルフさま、」リリーは随分昔にそうしていたように、彼を名で呼んだ。「私、幸せでしたわ。こんなに、たくさんの子どもたちを見守る事が出来て」
 彼は面食らったように目を丸くした。そして、噴き出す。
「ああ、そうだな。宮廷治療班の女、としか思っていなかったお前と、このように生きるとは思ってはいなかったぞ」
「あら、私にとってもロルフさまは"宮廷屈指の、ひねくれ魔術師"でしたわ」
 くすくすと笑うリリーに、ロルフは眉根を寄せた。この女の軽口を聞くのも久々だ。
「ふん、……性格は変わっていないと見える」
「あら、ロルフさまこそ」
 かつて国に居た頃は、身分としては己の方が上だった。それでもこの女は飄々と相手をからかう言葉を混ぜてくる。そして品よく笑う、その女のふてぶてしさを煙たく思う日もあった。でも、今は。
「私達、いいパートナーだったと思いますわ」
 リリーは、くすくすと笑う。その品の良い笑顔も、真っ直ぐな物言いも、変わらない。若い時分からずっと。ロルフとて同じ言葉を胸に描いていたという事を、リリーは知っていたのだろうか?
「ふん、……それでは、夫婦(めおと)にでもなるか?」
 お決まりの冗句。決まってリリーが、お生憎様、ロルフさま、と品良く答える。私には心に決めた伴侶がおりますの、ごめんあそばせ、と笑って躱す。若い時分に初めてこのやりとりがあってから、時折繰り返された、お決まりの遊び文句。
「――それも悪くありませんわね」
 返ってきた答えに、ロルフは盛大に茶を噴き出す。女は、まあ、と目を丸くした。
「あら、はしたないですわ、ロルフさま」
「――、だ、誰のせいだ誰のッ!」
 げほげほっ、と咳き込み、なんとか言葉を返した。今、何と言った、この女は。
「貴方が仰ったのでしょう、夫婦になるか、と」
 くすくすと、彼女は笑った。ロルフは魚のように口をぱくぱくとさせる。この余裕ある品の良い笑顔が憎らしく思えたのは久方ぶりだ。平気で爆弾を落として、ふわりと笑うのだ。
「冗談じゃありませんのよ。……悪くないと思いますわ、貴方と暮らす余生も。そうでしょう?」
「………………ああ、そうだな」諦めたように、ふっと笑う。「悪く、ないな」


 かつて失った伴侶たちは、どう思うのだろう。己を忘れたと糾弾して、悲しむだろうか?
 ふっと漏らしたその疑問に、リリーはふわりと笑った。いつものやわらかで、したたかな笑み。
「愛した者の幸せを願えない殿方ならば、こちらから願い下げですわ」
 きっと彼なら、己が人生の果てに導き出した結論を認めてくれるでしょう。私はあの人を愛していました。今でもかけがえのない存在です。それは無二のもので、貴方と共に生きるからといって、それが変わる訳ではありませんの。そうでしょう?
 ――夫も子供も失い、茫然自失だったあの女の姿はもう、何処にも無い。彼女はただ、あるがままに全てを受け入れていた。愛していた者を置いて幸せになる事を恐れる事もない。罪悪感を抱き、幸せになることを恐れている自分とは大違いだと、肩を竦めた。

「貴方を愛した女性ならば、貴方の幸せを願わない筈が無いでしょう? 貴方は十分、苦しんだのだから」
 笑うその表情は、まるで聖母のようだ、と。

 ――思ったが、言わない事にした。
 きっとそうしたならば、これまで通り、茶化してくるに違いないのだから。