遠い国に、英雄がいる。
 その噂に誰よりも目を輝かせていたのは幼い娘のノエミだった。
「まーたその話か、ノエミ」
「だって、えいゆう様はノエミたちを助けてくれるのよ。こわあい竜とたたかって、にんげんを守ってくれてるんだから」
 私は嘆息した。以前設えてやった木製のちいさな椅子に私と向き合うように腰かけて、訳知り顔でそう語る彼女はどこか誇らしげにも見える。以前は肩で切り揃えた自身のからす色の髪を嫌ってよく帽子で隠していたものだが、黒髪のえいゆう様≠フ話を聞きつけてからは、その頭を誇らしげに晒している。子どもとは無邪気なものだ。コンプレックスの種がひとつ消えたというのならそれも悪くはないが、と胸中でひとりごちる。しかし七歳になる娘のノエミがこの一週間ずっとえいゆう様≠フ話ばかりしているのには内心辟易していた。
「そういや、その英雄さまの話はどこで聞きつけてきたんだ?」
「ニナちゃんと遊んでたらね、もの売りのおじちゃんが教えてくれたの。すんごい、きれいな人なんだって。ノエミとおんなじ髪の色してて、すんごくすんごく、強いんだって!」
 ノエミは顔じゅうにくしゃりとした笑みを浮かべて誇らしげに答える。もの売りとは、恐らく一週間ほど前に村に訪れていた旅商人の事だろう。各地の戦いが激しくなって以降この村に人が訪れる事も少なくなったが、それでも特産であるカプリミルクには需要があるらしく、交易の地として商人が訪れる。子どもたちは、その旅商人たちの持ってくる他所の話を聞くことを楽しみにしているのだ。
 各地の戦いが激しくなり始めたのは、ノエミが生まれる少し前の事だった。どこの国だったかは忘れたが、正確な世界地図を入手した国が、それを武器に他国に進軍したらしい。それを発端とした戦争が各地に続いた後、停戦協定が結ばれた。まだちいさなノエミを抱えた私と妻は、ようやく平和になると胸を撫で下ろしたものだ。
 しかし、暫くして始まったのは、他種族との戦いだった。高等種と呼ばれる彼等の力は、人間とは比べ物にならないほどの強さだと聞く。何故人間族が狙われたのか、僻地に住まう私達には分からなかった。幸いにして、と言うべきではないのだろうが、他種族に狙われたのは屈強な軍勢を誇る大国ばかりだった。山羊のミルクを売るだけの慎ましい僻地の小村に住まう私達には、縁の無い話であると言えた。しかし、このまま続けばいずれ大国も摩耗し、このような小村にも魔の手が伸びるのであろうか。そう考えると、まだ幼いノエミの将来が心配になる。この子の生きていく未来は、どんなものになるのであろうか。もしこの子の未来を救う英雄がいるのであれば、是非応援したいところではあるのだが。
「英雄、か。どんな人なんだろうね」
「おじちゃんが、女の人だって言ってたよ。くろーい髪でね……」
「分かった分かった。……おい、ナサレナ。お前は旅商人の話は聞いてないのか?」
 ノエミの話を聞いても同じ話しか繰り返されないのは分かっていた。私が声を掛けると、狭い部屋の隅で芋の皮を剥いていた妻のナサレナが顔を上げた。
「大したことは聞いてないけど、聞いたわよ。何でも、南方の大陸の人だっていう話よ。南方の大国の王が、エルフに立ち向かうために抜擢した秘密兵器がその英雄さま≠ネんですって」
 妻の話によると、その秘密兵器の英雄さまは人間離れした力を持っていて、竜まで打ち倒すほどの強さなのだという。無慈悲な力の差の前に屈するしかなかった人間にとって、まさにその英雄は希望の光なのだ。そう、商人は誇らしげに語っていたそうだ。
「いまに、風向きが変わるだろうって言ってたわ。そのうち、世界は変わるかもしれないって。人間の天下になるって」
「はは、ま、流石にそこまではいかないだろ。どこまで本当かも分からないしなー」
「えいゆう様の話はほんとだもん!」
「おい、ノエミ、やめろ、蹴るな、人様に足を向けないの!」
 英雄の話を笑われたと思ったらしい娘のノエミに脛を蹴られた。英雄に執心するのはいいが、蹴られてはたまらない。その様子を見ていたナサレナが、可笑しそうに笑った。
「英雄さまはね、ノエミの英雄なのよ。仕方ないわ」
「ノエミの英雄、って言ってもなぁ」
「都では英雄の絵姿が人気だそうよ。売りつけられそうになったもの。……よく描けた絵姿だったわよ。白い肌に黒い髪、そう、ノエミやあなたの髪みたいなね。それで、とても綺麗な女性なの。見惚れてしまったわ」
「そんなにか。私も見ておけばよかったかな」
 思わずそうもらすと、妻に睨まれた。不条理だ。美しいものは見ておきたい、人間のあるべき欲求だというのに。
 私が慌てて肩を竦めると、妻はふんと鼻を鳴らして芋の皮剥きに戻った。やや、機嫌を損ねてしまったらしい。
「ばか、お前も美人だよ。保証する」
「適当なことばっかり言って」
 取り繕ったが撥ね付けられてしまった。
「嘘じゃないさ。……それにしても、英雄さま、英雄さまって言うけど、名前はなんていうんだ?」
「名前、ねえ……なんて言ったかしら。ノエミ、覚えてる?」
「おぼえてるよ!」
 ナサレナに問われたノエミが、目を輝かせて立ち上がった。今こそ己の出番であると言わんばかりに勿体付けた様子で胸を反らせる。
「こくちょうひめ! えいゆう様、こくちょうひめっていうのよ!」
「こくちょうひめ……?」
 名前とは思えず、眉を顰める。ナサレナが、ああ、と声を上げた。
「思い出した。そうよ、黒蝶姫っていうの。英雄さまは、まるで戦場を舞う黒い蝶みたいに美しいんですって。だから、黒蝶姫と呼ばれているの。都では黒蝶を象ったアクセサリーも人気らしいわ」
 民衆っていうのは分かりやすいわねえ、と芋の皮を剥きながらナサレナが他人事のようにぼやく。そうだなあ、と同意した。
 都では、英雄黒蝶姫≠フ人気は絶大らしい。南方の大国の女性だという事は分かったが、一体どのような出自なのかは何ひとつ分からない。ただひとつ分かるのは、黒蝶姫がノエミの英雄だということだ。遠い戦争に怯え、他人に闇色の髪をからかわれていたノエミにとって、そのふたつの不安を一気に取り去った黒蝶姫は確かに英雄なのだ。私はそっと、目を伏せる。
 本当に黒蝶姫が英雄ならば、いつか戦争は終わるだろうか。終わればいい。人間がただ屈するだけの生き物ではないと、世界に知らしめることが出来る。そうして人間達の暮らす日々が護られていったなら、どんなにいいだろう。ノエミが、幸せに生きる未来が待っているのなら、英雄が何者であろうとも関係は無かった。
「ノエミ、早く英雄さまが戦争を終わらせてくれたらいいな」
「うん! ノエミ、いちばんに応援するのよ!」
 そしてまた、くしゃりとした笑み。
 彼女の道の先を照らす、希望の光。平和な時代など知らずに育ったノエミが、真の平和の中を生きられるようにと、私はただ胸中で願う。幸せに生きてほしい。そのささやかな願いが、成就されるようにと祈りながら。


 黒蝶姫の出現は、その時代を生きる者たちに多くの希望を与えた。
 人間というものの可能性を、高等種と呼ばれるものたちとの対等な関係を、黒蝶姫の存在は照らし出した。彼女が何者であるかは、その小村の男と同じように、大多数の人間にとってはさしたる問題ではなかったのだ。黒蝶姫は、希望だった。しかし。

 ――地上の覇者と呼ばれる竜族を統べる黄金竜が黒蝶姫を打ち倒し、人間族への進撃を宣言したのは、その数年後の事だった。