これが世界の終焉なのだろう。
 ふと、脳裏に過ぎったのはそんな思いだった。どこか遠い、まるで他人事のようなそのぼんやりとした言葉。僕は諦めているのだろうか。目を伏せた瞬間、掌にぬらりとした感触と、熱い吐息。己を咎めるように存在を示したそれに、思わず身を震わせる。
 風に巻き上がる砂塵と噴煙との境界線は、遠近感すら曖昧にさせていた。遠い故郷の山脈なのか、そこに横たわるだけの岩場なのかさえ分からない。炎の燻る臭いに、一瞬、咽そうになった。慌てて口許を抑える。その瞬間、地響きのような低い唸り声。はっとして、目を見開く。この洞窟の隙間からやっと見えるだけの細く切り取られた世界は、ひどく薄暗かった。砂色に煙るその視界の先に、目を凝らす。いくつも折り重なった大きな影は、竜達の骸だろうか。
その時、爆発音と閃光が狭い世界を照らし、揺らした。――いや、違う。あれは、咆哮だ。咆哮と共に吹き出された炎が、一瞬、煙る砂色の中に大きな二つの影を浮かび上がらせた。黄金に瞬く竜。そして、闇のように昏い色をした竜。
「あなたは、希望の仔だから……あたし達が、きっと護るから」
 祈るように呟く小さな少女の声に、しっと沈黙を促す。少女がはっとして、口を噤む。表情は見えない。狭い洞窟の陰に、押し殺したいくつもの息遣いだけがひそやかに反響する。足元で身を横たえた小さな希望の仔の熱い息遣いだけが、僕の意識を鮮やかにした。目を閉じて、眠ってしまいたい。目を開けたら、きっとすべてが終わっている。もう僕に出来ることは何もない。この少女にも。
――それならば、この意識に何の意味があるだろう?
 答えは出ない。目の前で繰り広げられている戦いは、ひとの手に負えるものではない。きっと、竜達にも手に負えないのだ。終焉にも似た世界でただ闘う一対の竜は、きっと神だ。世界の行く末を決める、いわば裁定者たちの闘い。闇の竜は世界を滅ぼそうとし、黄金の竜はそれを食い止めようとしている。ひとがここにいることが、もはや無意味なのだ。黄金の竜に護られたとしよう。それでも、故郷は既に喪われたのだ。親も、友達も、みんな死んだ。逃げ延びたのはごくわずかだ。僕と、ラハヤと、長老様のせがれと、あと何人か。みな、帰る場所をなくした迷い子だ。このまま生きて、何になるだろう。すべてを、失ったのに。
その時、僕の膝元でただ熱い吐息を押し殺していたちいさな竜の仔が、咎めるように僕の掌を突いた。僕の考えている事が分かったのだろうか。諦めるなと、言っているのだろうか。何の、ために?
 ――お前たちの戦いだ。僕達にそれに巻き込まれたんだ。
 幾度となく胸の中で繰り返した、怨嗟の言葉。喪った全てと、その元凶。それでも、ラハヤは一心にその仔を護ろうとした。ちいさな希望の証、黄金のその仔を。
 違う。その仔は、ラハヤの希望なのだ。世界の希望とは違う。ラハヤは生きたいのだ。竜の仔が生きている限り、ラハヤは生きることを信じられる。だからだ。
「リーナス……」
 小さな震える声が僕を呼んだ。ラハヤだ。
「オンニが怒っているわ……」
「静かにしていて、ラハヤ。お願いだ。……名前を、付けたのかい、その仔に」
「この仔は、希望なのよ。あたしたちの幸運(オンニ)なの」
「また君はそうやって、何にでも名前を付けて」
「だって、名前がなくてはどう呼んだらいいかわからないわ」
「神の仔に名前がいるかい? いずれ神の懐に戻る尊い御身だ。僕たちが名前を呼ばなくたって……」
「神の仔? 違うわ。この仔は、竜の仔よ。あたし達は、オンニの親にこの仔を託されたの。たったそれだけ」
「何でもいいったら」
 こんな時でも、ラハヤはどうでもいいような事にむきになる。それが何だか可笑しくて、少しだけ気が抜けた。外では、死骸と砂煙と炎が渦巻く死の世界なのに。
「オンニ。……あたし達が、あなたを護るわ」
 囁くラハヤの声に、竜の仔オンニは僅かに頭をもたげたようだった。
 護るなんて、僕達に出来る訳が無い。僕達はただ、ここでこうしてじっと隠れているだけだ。何が幸運だ。何が希望だ。この仔を護り抜いたところで、そこに何がある? 
「ねえ、リーナス。あなたは、この仔を護ることが不服?」
「そういう訳じゃないよ。ただ、希望って言っても……」
 それはいったい何の希望なんだ、と言いかけたところで、仔竜は咎めるようにまた僕の掌に頭を押し付けた。
「……リーナス、この仔は、世界の希望よ。例え全てが失われてしまっても、あの神さまみたいな黄金の竜が斃れてしまっても、この仔がいれば  未来で、この仔はきっとひとを護ってくれる。あの黄金の竜のように」
 ラハヤの囁く声は、祈りにも似ていた。小さな声に、静謐な響き。ひそやかな息遣い。彼女は今、神託の巫女のようで。
「――未来の世界に、届く希望よ。あたし達は、それを護るの。ねえリーナス、素敵でしょう。あたし達は……未来を創るのよ」
 ラハヤの声は震えていた。涙が滲んだような、震える吐息。
 その時、僕は悟った。違う。ラハヤが望むのは、闘いの先に待ち受ける生などではなかった。生も、死さえも越えて、その先に横たわる世界の希望。ラハヤは――世界を、護ろうとしているのだ。
「……生きよう。この仔を護って、僕達も生きよう」
「リーナス?」
「……幸運(オンニ)と一緒に、生き残ろう。そして――未来を、創ろう」
 君の笑う、未来を。




不意に頭をはたき落され、ライヒアルトは「うぇ」と呻いた。
 急速に意識が反転する。此処は何処だろう。曖昧な境界を彷徨う意識に、頭がついてこない。
「もお、アルトくん! 何度呼んだらわかるの!?」
 澄んだ愛らしい少女の声に叱りつけられる。徐々に色を取り戻していく世界。青年は残像を振り払うように頭を横に振った。ここは砂塵の渦巻く終焉の世界ではない。竜もいない、ラハヤもいない。薄暗い中にも暮れなずむ夕陽の差す穏やかな我が家だ。青年は振り向き、両手を腰に当てて眉根を寄せる小柄な少女に向かって気まずそうに肩を竦めて笑ってみせた。しかし残念ながら笑顔で彼女の怒りは誤魔化されないらしい。これは困った。
 青年の名はライヒアルト=ローデンヴァルトという。二十一になったばかりだが――目の前で、幼馴染の少女リカルダ=ロサスの大きな若草色の目がつり上がっているのを見て、肩を縮める。三つも年下の少女だが、いつもこうして彼女に怒られている。しかし無理もない。彼女が夕食の支度に忙しくしているというのに、自分はせっせと読書に勤しんでいたのだ。それも、何度も呼ばれていたらしい。ちっとも気付かなかった。ちらりと木机に視線を落とす。お気に入りの、大昔の英雄物語の本。陽が高いうちから読んでいて、気付いたら日が暮れていたのだとでも言おうか。いや、その言い訳はあまりにも情けない。反論の余地は無かった。ライヒアルトは少女に向き直り、申し訳なさげに笑う。
「あはは、ごめんねリカ。えっと……?」
 小首を傾げて少女の答えを待つライヒアルトに、彼女も困ったように小首を傾げた。腰に当てていた両手をおろし、片手を頬にあてる。さらり、と長い白金の髪が肩から滑り落ちた。
 少女の顔は、もう怒ってはいなかった。代わりに、もお、と呆れたようなため息をつく。
「また本読んでたの? 今度はなあに? 英雄物語の方? それとも黒蝶姫?」
「英雄物語のほう。やっぱりいいよねぇ、本って」
「アルトくんったら、もお」
 お気に入りの本の話となると途端に表情の緩むライヒアルト。リカルダは諦めたように深いため息をつき、気を取り直したように顔を上げた。ライヒアルトは背もたれに向き合うように椅子に座り直す。椅子に座っている自分とさほど顔の高さの変わらない小柄な幼馴染の少女。態度こそ母親や姉のようだが、その小柄さもあどけない童顔も、まるで子供のように愛らしい。両手を腰に当てた仁王立ちの姿で怒っているのも、まるでおしゃまな少女のように不釣り合いで、それが逆に可愛らしくもあった。みっつ年下の、幼馴染のリカルダ。ライヒアルトの、家族。
 十八には見えないよなあ、と思い出したように少女をしげしげと見つめる。それを言うなら、彼女に常日頃怒られている自分も到底二十一らしくはないのだろうが、体の発育だけなら自分はかなりものだ。背は誰よりも高い。
――などとどうでもいいことを考えていると、リカルダが訝しげな眼差しで見つめ返してきた。目と目が合う。ライヒアルトは、にこりと微笑み返す。脱力したように、少女の肩が落ちた。
「で、リカ。俺に用だったんだよね?」
「う、うん、そうそう。薪がなくなりそうなの。運ぶの手伝ってもらいたくって。……もお、アルトくんと話してると調子狂っちゃう」
 ぼやく少女にライヒアルトは悪びれもせずに笑い、椅子から立ち上がった。
「よっし、じゃあ行こっか。……じいちゃんはいなかったの?」
「あーっ、アルトくんったらおじいちゃんに任せようとして!」
「ち、違うってば、単純に気になったの。きょーうーみっ」
 手をぱたぱたと振るライヒアルト。随分低い位置からリカルダがむうっと眉根を寄せて疑わしげに見上げてくる。胸の下程に背の低い少女に、いつも頭が上がらない。
「んー……、また、村かな。何かあったとか言ってた?」
「魔物の気配を感じたんだって。もお、遅くならないといいけど」
 少女は困ったように頬に手を当て、ことりと小首を傾げた。




「それにしてもアルトくんったら。いっつも本ばっかり」
「あはは、でも面白いじゃない?」
 ライヒアルトはその端正な顔に無邪気な笑みを浮かべ、澄んだ碧眼を細めてみせる。リカルダは、もお、と呆れたように肩を竦めた。この青年の英雄譚好きも没頭癖も、今に始まった事ではない。今まで何を言っても変わる事のなかった困った癖だ。これからも多分、変わることは無いだろう。ひとつ、ため息。
 暮れなずむ夕焼けの空が、折り重なる緑の隙間を縫うように、いくつものひかりを落とす。金色に染まる夕焼けの森にも、もうじきゆるやかに夜の帳がおりていくだろう。
 倉庫に行き、戻ってくるところだった。幼馴染のライヒアルトは、薪が固く結わえ付けられた束をいくつか木製の小さな荷車に載せて引いていた。荷車はそう大きなものではない。長身の彼がその台車を引いていると、まるで不釣り合いで時々可笑しくなる。
 三つ年上の幼馴染ライヒアルトは、ややあどけなさを残した目鼻立ちの整った青年だった。そのすらりとした長身と相俟って、近隣のメーディス村のおばさま方のちょっとしたアイドルだった。黙ってさえいれば、確かにいい男なのだろうと思う。
 しかし、困ったのは二十を超えたにも関わらず、変わらないその無邪気さだ。好奇心にくるくるとめまぐるしく表情を変える、ぱっちりと大きな碧眼。そこが可愛いのだと喫茶店のファーナーおばさんは言っていたけれど、毎日相手をしているリカルダにとっては手のかかる大きな子どものようだった。自分も子どもっぽいと言われることはあるがそれは背格好ゆえだ。その「子どもっぽさ」の性質は、彼と自分とでは大きく異なるだろう。
「そういえば、じいちゃんは魔物が出たって言ってたんだよね」
 舗装のなされていない森の路を、がたんがたんと揺れる荷車を引きながら、ライヒアルトは小首を傾げた。傍らで麻袋を抱えるリカルダが、小首を傾げる。
「うん、そう言ってたわ。最近多いね」
「ねー。なんかあるのかな。襲ってきたりとか?」
「もお、や、やめてよ。そんなの、しゃれにならないわ」
「そしたら俺が剣で倒すのになー。で、俺が怪我したらリカが治してくれるの。あはは、なんか英雄物語みたいだね」
 一人で盛り上がっているライヒアルト。随分楽しそうである。彼はいつも楽しそうだ。リカルダは困ったように眉根を寄せる。
「もお。わたし、アルトくんの読む英雄物語の魔法使いみたいに攻撃魔法とか使えないんだからね」
「えー? リカならきっとすぐに使えるようになるよ」
「もお……そもそも、使う必要、な、い、のっ!」
 えー、と不満げに口を尖らせるライヒアルトに、ため息。
 リカルダは魔法の心得がある。薪に火をつけたり保存庫に入れておくための氷を作ったり、とりわけ得意なのは傷を癒す魔法だった。それもこれも、使用頻度が高かったせいだ。ライヒアルトは子供の頃から夢見がちで、冒険譚に憧れて、森の中に枝と鍋の蓋を携えて飛び込んでいって、魔物もいないのに怪我をして帰ってくるのだ。
「あのね、アルトくん。アルトくんがそんなだから、ちびちゃんが真似して枝振り回して飛び出していくんだからね。いい年なんだから、しっかりしようよ」
 諭すように言う自分の声は、諦めにも似た脱力した声だった。しかし、ライヒアルトはにこり笑う。
「でもさ、戦う力は必要だと思うよ」
「どうして? 危ないわ。家にいれば安全なのに」
「絶対の安全なんてないよ。攻め込まれた時に、身を護るために力は絶対に必要なんだ。ディート兄ちゃんも、そう言ってた」
「ディートお兄ちゃんは騎士の家の生まれだったから説得力あるけど……だって、アルトくんのはごっこ遊びじゃない。戦える人に任せておけばいいの。おじいちゃんとか」
「でも、じいちゃんは……」
 珍しく、ライヒアルトは口籠った。言葉を選ぶように、口をもごつかせる。リカルダは首をことりと傾げた。
「……おじいちゃんじゃ、ダメなの?」
「そうじゃなくってさ。――じいちゃんも、いつまでもいるわけじゃないってこと。だから、さ……」
 リカルダは目を見開いた。そんなこと、考えもしなかった。確かに、養父は高齢だ。いつまでもいるわけじゃない。
 沈黙。かあ、かあとからすが鳴く声と、梢を揺らす風のおと。がら、がら、がたん、と鳴る車輪。考え込むように黙り込んでしまったリカルダに、ライヒアルトは明るい声を上げた。
「――とにかくさ、そういうこともあるってこと。俺も強くならなくちゃって思ってるんだ。ディート兄ちゃんもいないし、リカもちびたちも、いつかは俺が護らなくちゃ」
 青年の声に、顔を上げた。いつもの、優しい微笑み。やわらかく細められた澄んだ碧眼の中に宿るいろは、いつもの子どものような彼とはどこか違って。いつの間に、そんなことを言うようになったのだろう?
 リカルダは戸惑い、無理やり眉根を寄せてみせた。
「そんな急に大人っぽいこと言ったって、似合わないわ」
「ええー? ひどくない?」
 さほど傷付いた様子もなく青年は笑う。いつもの、無邪気な笑み。
 血のつながらない兄弟分の、ライヒアルト。幼い頃から共に育った、大切な家族で、幼馴染。いつも一緒にいたはずの彼の変化を、わたしはいつ見逃したのだろう? それとも、あのふっと大人びた瞳のいろは、わたしの気のせい?
 リカルダはちらりとライヒアルトを見上げた。彼は空を見上げて、嬉しそうににこにこしている。いつものアルトくん。
「夕焼けってきれいだよねー。俺さあ、たまにこうやって見上げてると躓くことあるんだよね」
「もお、よそ見しながら歩くからでしょ」
「だってこんなに綺麗なのに見ないの勿体ないよ?」
「そういう時は、立ち止まって見るの」
「あ、そっかー。そうだね」
 あはは、と笑う。まるっきり、いつもの彼で。リカルダは少し、ほっとする。
「そういえばさ、ディート兄ちゃんって今、何してるんだろうね。手紙、来なくなっちゃったし」
「そうだね、何してるのかなあ……」
 ディートマル。年の離れた、血のつながらない兄貴分。ずっと前に、家を出て行った優しい人。騎士の家の生まれで、ライヒアルトに剣を教えた人。そして、騎士になることを志して、ここを出て行った。出て行ってから暫くは、便りが来た。これから南部に行くと書かれたものを最後に、彼からの便りは絶えた。養父は、きっと南部へ行くのは危険な道を通らねばならないから、そこを越えての配達は断られてしまうのだろうと言っていた。けれど、リカルダはディートマルに何かあったのではないかと随分心配したものだ。真偽は分からない。優しい人だった。もう一度、会いたいねと話すこともあった。いつか、戻るのだろうか。旅立った先で騎士になったのならば、無理かもしれない。
「不思議なもんだよね。一緒に暮らしてたのに、生まれも違って、生きて行く道も違うって。……いつか、リカともそうなるのかな」
「別々の道に行くっていうこと?」
 リカルダは俯いて考え込む。幼い頃から変わらない、彼のいるこの生活。それが変わっていくことなど、どうしても考えられなかった。彼はもう生活の一部で、切り離せない。首を振る。
「……わたし、多分穴倉を出て行かない。アルトくんは?」
「んー、わかんないけど。でも色んな世界を見たいとは思うよ」
「アルトくんひとりじゃ、無理だわ」
「えー? なんで?」
 きょとんとして口を尖らせるライヒアルトに、リカルダはふっと笑う。アルトくんは、わたしがついていてあげなくちゃ。心配で、放っておけない。手のかかる、子どものような幼馴染。
 生まれも違う。きっと、行く先も違う。それでも家族として共に暮らすあの家を、彼らは《魔法使いの穴倉》と呼んでいた。
 彼らは戦災孤児だった。戦争の中で身寄りを失い、魔法使いの老夫婦に引き取られて共に育った。いまは、養父母とライヒアルトとリカルダ、そしてちいさな弟分と妹分。穏やかで、やさしい日々。
 その暮らしを、壊したくない。リカルダはそう思い、天を仰いだ。やわらかでやさしい、緋のいろだった。