《魔法使いの穴倉》に住まう初老の魔法使いロルフは、すっかり日の落ちた森の中を歩いていた。時折がさりと葉を揺らすものに僅かに驚くこともあるが、大概は無害な、同じ森に住む仲間だ。危害を加えようとは思わないし、相手にしてもそれはそうなのだろう。闇夜の森、ざわめく葉陰。それでも彼の足取りは、穏やかなものだった。不穏な要素は何ひとつもなかった。
 そう、何ひとつもなかった。魔物の気配を感じ、近隣のメーディスの村に行ったものの、今日も何もありはしなかった。魔物は、この森の生き物のように無害なものではない。悪意を持って人に害を為そうとする生き物だ。それが素通りしていくことなど考えにくいが――現に、何もなかったのだ。無駄足を踏んでしまった。
 何も無いのならそれでいいではないかと、ロルフは思い直したように首を振った。春先だが、夜の森はやはり肌寒い。今は闇で色も分からない愛用の菖蒲色のローブのフードをかぶる。その褐色の肌が示す通り、ロルフは南方の火の山の島の生まれだ。故郷を出て何十年が経とうと、寒いのは苦手だ。慣れるものではない。
 子どもたち――引き取って育てている戦災孤児の子どもたちの待つ《魔法使いの穴倉》とメーディス村とは、歩いて十分か十五分ほどだろうか。さほど遠くはない。しかし何故穴倉に住んでいるのかといえば、単純な話だ。村で大工に頼んで家を建てるより、あの洞窟を地術で掘り広げて住居に仕立て上げる方が安上がりだったのだ。部屋も増やし調理場もつくり、暖炉や天窓もつくり、近くの川から支流をひいて水浴び場をつくったりもした。あまりにも充実した設備には満足している。今更村に暮らす理由も無い。が、それでも村人たちとは懇意にしていた。各地を転々としていたロルフではあったが、ここに骨を埋めてもいいと思っている。概ね、満足のいく穏やかな暮らしだった。
 世界は戦争状態にあった。正確に言えば、それは五十年も昔に遡る。戦争が始まった時、彼はまだ若く、僻地の故郷に暮らしていた。それゆえ戦いの起きた理由はよく知らなかったが、それは人と人との戦争ではなかった。人と、竜との戦い。
 ロルフは、養子のライヒアルトが好んでよく読んでいた古代英雄譚を思い起こす。物語を好んだ息子に、昔ロルフが買ってやったあの本は、かつて強大な力を持った一対の竜達の世界を巻き込む戦いを描いたものだった。その戦いにおいて、人間が力を振う場面はなかった。しかし、その中で人間は重要な役目を果たしたのだ。黄金竜の仔、次に竜族を総べるその仔を人間は護り抜き、竜と人とは永遠の友情を誓った。そういう話だった筈だ。竜と人との、友情。そんなものは、今の世では笑いものにされるだけだ。竜は人間が疎ましくなり、この世から平らげようとしたのだというのが定説だ。人は竜と戦い、過去の英雄譚とは違う結末を辿りながら、今静かに滅びへ向かっている。人に、高等種の竜族と戦うだけの力があるわけがない。決定的な負けを悟った人間に、竜族も手を下そうとはしない。静かな滅びをただ、眺めているのだろう。多くの国や街が滅び、ひとは他の土地へ行くことを阻まれ、時折竜族の手のものに襲撃され、また街や村が減っていった。もし今世界地図を描いたなら、きっとひどく寂しいものであるに違いない。ロルフたちに出来るのは、この穏やかな森の中でひっそりと暮らしていくことだけだ。
 息子のライヒアルトは、竜をどう思っているだろう。警戒するべき恐ろしき敵か、物語の中のように助け合える存在か。後者かもしれないな、とも思う。彼は昔から英雄譚かぶれだった。リーナスと、ラハヤ、そして、幸運≠フ名を冠した黄金竜の仔、オンニ。息子のライヒアルトは、キャストを立ててよくごっこ遊びをしていたものだ。共に暮らしている老魔法使いのリリーが奇跡の娘ラハヤ役を、娘のリカルダは幼かった為台詞の少ない黄金竜の仔オンニ役を、勿論あの英雄譚かぶれのライヒアルトは主人公のリーナスを演じていた。何故か邪悪な黒竜役をさせられていたロルフはその他愛も無い劇を眺めながら、ライヒアルトはリーナス役には向いていないなと思っていた記憶がある。醒めた悲観的なあの主人公と、無邪気で楽観的なライヒアルトはまるで対照的だった。息子も、二十一になる。リカルダは手を焼いているようだが、優しい青年に育ったと思う。人の心を和ませる笑顔と、青空のような大きな碧い瞳。彼と話していると、誰も彼もが邪気を抜かれるようだと思う。
 彼が主人公の英雄譚があるのだとしたら、きっと彼は優しい選択をし続けるに違いない。甘い、子どものようにやさしい選択。
 彼が旅したいと望んだ世界が、物語の中には無数にあった。数えきれないそれを、彼はいくつも読み耽り、いくつもの世界を旅した。それでも彼は、現実の世界で心躍る冒険は出来ない。悲しい世の中だと思う。子どもが好きに外で遊べないなどと、そんな窮屈な時代では子どもが可哀想だ。
 しかし、とロルフは思う。世界を変える力など無い。人間は小さな生き物だ。身を護る力をもって、精一杯の穏やかな暮らしを護る事しか出来ないのだ。
 考えながら歩くうち、ほわりと闇に滲むやわらかな光はすぐそばにあった。愛しい我が家。《魔法使いの穴倉》。
 軒先に吊るされたベルをちりんと鳴らし、観音開きに設えた木の扉を押し開いた。ぎい、と音を立てるその先、鼻腔をくすぐる美味しそうな香りと、やわらかな暖気。冷たい夜の森を抜けて、愛しい我が家の気配はあまりにも温かい。
「おかえりなさい!」
 帰宅の証である小さな呼び鈴の音に、目を輝かせて子供たちがロルフを出迎える。十になるやならずの、少年イェルンと、少女マルテ。ちいさなその姿に、思わず目を細める。
「ただいま。……遅くなってすまなかったな」
「ねえじいちゃん、おみやげは? おみやげある?」
「無い無い」
 えー、とむくれる少年イェルンの若い麦穂のようなくすんだ金髪を撫でてやる。そしてその隣で嬉しそうに両手を上げて飛び跳ねる少女マルテの小豆色の髪を撫で、視線を部屋の奥に向けた。家に入ってすぐに、家族の共有スペースである食卓があった。椅子に腰掛け、振り向いて片肘を背もたれに載せた青年がひとり。はしばみ色のやわらかな髪と、澄んだ碧眼が印象的な息子のライヒアルトは、にこりと笑う。
「じいちゃん、その様子だと何も無かったみたいだね」
「何かあるよりはましだろう。こちらは、変わりなかったか?」
「なーんにも。じいちゃんがお土産に何か楽しい話持ってきてくれるの待ってたんだ」
 ライヒアルトが朗らかに笑う。すると背後の調理場から、抗議するように口を尖らせた娘≠フリカルダが現れた。
「おじいちゃん聞いて、アルトくんったらまた読書ばっかりで呼んでも呼んでも反応してくれなかったんだから!」
 手にしたサラダ皿を食卓に並べながらそうぼやく彼女と、舌を出して肩を竦めるライヒアルトとに目を遣り、思わず噴き出す。全くこの子たちの関係ときたら、年齢がまるで逆のようだ。
「全く相変わらずだな、お前たちは。ライヒアルト、大樹の魔女が本の催促をしていたぞ。何を借りていたんだ?」
「あーっ、そういえばまだ読んでないや……竜使いの民の本借りたんだよ。魔女婆ちゃん怒ってた?」
「いいや、いつも通りさ。……竜使いの民とはな。話には聞いた事があるが」
「黄金竜と黒竜の話、あるじゃない? もしかしてその黄金竜の仔を助けたリーナス達と関係ある話なんじゃないかと思ってさ。背表紙だけ見て借りてきちゃったんだ。うわー、忘れてた」
「一体いつから借りているんだ」
「えー、いち、にい、……何か月か前じゃないかな……」
 話を聞いていたリカルダが、のんきに指折り数える彼に、呆れたように半眼をくれている。ロルフも小さく嘆息した。大樹の魔女が怒らなかったのが不思議なくらいだ。大樹の魔女アルテアは、近隣のメーディス村に住む偏屈な老魔女だ。得体が知れない、と村人達からも敬遠されていたが、ライヒアルトだけはその豊富な蔵書目当てに彼女の家に通っていた。もしかすると、かの人嫌いの魔女は、本の催促ではなくライヒアルトの来訪を催促していたのではなかろうか。ふとそんな考えが浮かぶ程には、ライヒアルトは人の心を絆す。放っておけなくなる、と言ってもいいだろうか。リカルダの視線に気付き、へへ、と笑ってみせる彼を見、そう思う。何だかんだ許されてしまうのだ。得な男である。
「早く返せよ。……ところで、リリーはどこへ行った?」
「ここにいますわ。おかえりなさいませ」
 不意に応える、しっかりとした品のある声。しわがれてもなお優美さを失わないその響きに、振り向いた。部屋の奥から、雪のように白い髪をきれいにまとめ、肩に繊細な模様のショールを纏う年老いた女。ぴんと伸びた背と、凛とした涼やかな藤色の瞳。女は老いてなお美しい顔に、優美な笑みを浮かべる。
「無駄足を踏んだようですわね」
 女の言葉のからかうような響きに、ぐ、と言葉を詰まらせた。どうしてこうも、いつも皮肉を飛ばしてくるのだろう。ロルフはひとつ咳払いをした。
「リカルダの料理が冷めてはかなわん。食事にしよう」
「あら、おじいちゃん。図星ですのね?」
 ふふ、と笑う声。共にこの地に住まう、老魔法使いリリー。ロルフはぴくりと眉を跳ね上げ、歪みそうになる口許を必死に笑みのかたちにした。
「その話はまた後でも良かろう」
 まあまあ、と含みある微笑みを浮かべるリリー。同居人として共に暮らしてきたが、彼女は妻ではない。妻にするならもっとおとなしく淑やかな女を選ぶ。なかなかに口が達者なこの女にまともに渡り合えないということは、この数十年でよく分かっていた。
「おじいちゃんもおばあちゃんも、ちびちゃんたちも席について。アルトくん、シチュー運ぶの手伝って?」
「え、今日シチューなの? やった!」
 リカルダの言葉に、ライヒアルトが嬉しそうにぱちりと手を叩き合わせた。ちいさな子どもたちも、まるで飛ぶように食卓についた。魔法のメニューらしい。ロルフは、ふっと笑う。
 ――時は、戦争の最中。小康状態とはいえ、穏やかな時代ではない。ロルフ自身も何度も帰る家を失った。それでも。
 帰る家。灯りのともる、やさしい家。その存在は、なんと心を和ませることだろう。自然と、笑みが浮かぶ。
 護り続けたいものが、ここにある。それが何より嬉しかった。




 幼馴染が困っている。
 庭先のハーブの手入れをしながら、リカルダはぼんやりとその光景を眺めていた。やわらかな木漏れ日の中、軒先のベンチで読書に興じていたライヒアルトは、いまや完全に包囲されていた。若い麦穂色の髪と、明るい小豆色の髪が揺れる。わあわあと、穴倉の弟分イェルンと妹分マルテが彼に何事か訴えかけているのを見て、リカルダは耳をそばだてた。
「お祭りなんて、聞いてないけどなー、俺」
「でも、あるの! おーまーつーりー!」
「今日なの! 村にいーくーのっ!」
 困ったように頬を掻くライヒアルトに、子どもたちはそう大声を上げて訴えていた。ぴんときたリカルダは、ふわりと笑う。
「アルトくん、もしかしたらエーレの試食会じゃない?」
「エーレの? もうそんな時期かぁ。いちごの時期だね」
 合点がいったように、ライヒアルトは頷いた。
 穴倉から十数分のメーディス村に、ただ一軒の喫茶店がある。エーレの実≠ニいう名を冠したそのちいさな喫茶店では、村の特産である林檎や苺を使った菓子作りをしている。収穫直後に決まって執り行われる新メニューの試食会は、小さなメーディス村のちょっとしたお祭りといっても良かった。村人がレシピを持ち寄り、エーレのおばさんがそれを試作する。見事村人達から高評価を得て新メニューに加えられたレシピの主は、年数回分のエーレでの飲食無料券を与えられる。のどかでやさしい祭りだ。穴倉に引き取られてからその試食会に参加した子どもたちは、普段食べられないお菓子をたくさん食べられるのだと、毎年楽しみにするようになった。その時期が、きたのだ。
「エーレの試食会かぁ、いーなぁ」
「アルト兄ちゃんとリカ姉ちゃんもいっしょにいこうよ」
 少年イェルンに揺さぶられたライヒアルトが、それを押し止めながら「薪割りしなくちゃいけないからなあ」と笑う。
「それじゃ、わーって、すぱーんって、割って、いこ!」
 少女マルテが、嬉しそうにそのちいさな手を突き上げてぴょんぴょんと跳ねるのを見、ライヒアルトは思わず噴き出した。
「兄ちゃんそんなに強くないから無理かなー。でも、これから木こりのベックさんちに行かなくちゃいけなかったから、送るだけなら出来ると思うよ。帰りは夕方でいい?」
 ライヒアルトの問いに、イェルンがちいさな手を握ってガッツポーズを決める。マルテの飛び跳ねる高度があがった。そんな穏やかな様子に、リカルダも思わず笑みがこぼれる。
「最近魔物の気配が頻繁にあるらしいから、心配だけど……アルトくんが送ってくれるなら大丈夫かなぁ。お願い出来る?」
「うん、任せといてよ」頼もしげにそう答えて本を閉じるライヒアルト。子供たちに視線を落とし、微笑む。「姉ちゃんの許可が出たよ、よかったねぇ、ちびたち」
 歓声を上げて飛び跳ねる子どもたちと、揺れる木漏れ日のひかりとがくるり踊る。ライヒアルトの形の良い碧眼がふわりと細められた。が、その直後不意に彼の目元がきりりとした。見ていたリカルダも、子どもたちも思わず目を丸くする。
「ただし! 村の外には出ないこと。大人たちの目の届くところにいること。いいね?」
 ぴっ、と人差し指を立ててしかめっ面を作ってみせるライヒアルトに、マルテは神妙に頷いた。イェルンは腰ひもに差していたお気に入りの愛剣――少し前に拾った立派なブナの枝だ――を抜き払い、天に掲げた。
「ま、魔物が出ても、このイェルン様がやっつけるけどな!」
誇らしげに愛剣を振り回し、仰け反る程に胸を張る。ライヒアルトは耐え切れずに噴き出した。
「あはは、そりゃ、頼もしいや。でも、戦いを避けるのも戦士としての賢い選択だよ、イェルン」
 イェルンはその生意気そうな顔に神妙ないろを浮かべ、頷いた。笑いをかみ殺し、ライヒアルトも神妙な顔を作る。
「だから、無事に帰還すること。いいね?」
「いえっさー!」
「はあい、隊長っ!」
 ぴしりと返す、敬礼のかたち。あどけない隊員たちに、ライヒアルトは漸くやわらかに目元を緩ませた。
 彼は、本当はとても面倒見の良いひとだ。こうして小さな子どもたちを相手にしている時は、誰よりも優しいお兄さんになる。
 きっと、彼は三つ年下の少女に頼り切っているだけなのだろうということは、彼女自身にも薄々分かっていた。だからあんなに子どものような振る舞いをする。
 本当はもう少しだけ、しっかりしてくれるといいんだけどな。
 心の中でふとつぶやいた想いは、嘘ではない。
それでも、頼られるのは嫌いじゃなかった。




 ちいさな子どもたちをメーディスの村に送り届けて数刻。
 薪割りを半分程終えたライヒアルトは食卓で一息ついていた。
「――で、どうだった? 楽しそうにしてた?」
 向かいに座るリカルダも、家事にひと段落ついた様子だった。彼女は紅茶の注がれたカップに口をつける。彼女に倣うように、ライヒアルトもカップを手にした。少女の歌うように弾む声に、思わず微笑む。子どもたちに負けず劣らず、浮かれ気味だ。
「大はしゃぎだったよ。……リカも何だか嬉しそうだね。何かあったの?」
「ふふー。別に?」
少女は花が綻ぶように笑った。小さな両のてのひらでカップをそっと包みながら、目を伏せてカップに口を付ける。そうしている間も、風に踊る花のように、流れる調べにリズムを刻むように、さらりと髪を揺らしながら少女は揺れる。今にも歌い出しそうな彼女の様子に、ライヒアルトは思わず噴き出した。
「それ、別にっていう様子じゃないってば」
「だってね、ちびちゃんたちがエーレの試食会のお菓子、おみやげにもらってきてくれるっていうから」
 紅茶に落とした砂糖のように、笑顔がふわりと甘やぐ。
 小さい頃、彼女もエーレの試食会が大好きだったな、とライヒアルトは思い起こす。彼女が試食会に行けなくなったのは、家事を引き受けるようになってからだ。普段はあまり菓子などは口にしないが、甘いものが好きな彼女のこと、きっと本当は行きたかったのだろう。嬉しくて仕方ない様子が、普段のしっかりした様子とは裏腹で、なんだか微笑ましかった。
「リカ、エーレのおばさんのお菓子大好きだったもんね」
「ファーナーおばさんの作るお菓子は絶品なんだから!」夢見るように、ちいさなため息。「エーレの林檎パイ、食べたいなぁ」
思わず、ライヒアルトはくすりと笑った。
「今度連れてってあげるってば。奢るよ?」
「ぇ、だ、ダメよ、それはアルトくんが稼いだお金じゃない。そんな、それはわたしのわがままだもの……」
 急速に少女の笑顔が萎み、おずおずと力無くカップを置く。
 ライヒアルトは小さく笑って肩を竦めた。まったく、気にしいなんだから。きっと今も脳裏に、こんがり焼き目のついたエーレの林檎パイがぐるぐるしているに違いないのに。
「あーあ、なんか俺もエーレの林檎パイ食べたくなっちゃったなー」くすくすと笑う。「だから一緒に行こうよ。ね」
「ア、アルトくん……、……ぅ、うぅ」
 困ったようにしどろもどろになりながら、視線を彷徨わせる少女。素直に好意に甘えられないのは、彼女自身のしっかりしすぎる性格のせいだろう。彼女にとって、彼に奢られることは「わきまえるべきこと」のうちのひとつなのだ。しかし、あと一押しである。
「ほらほら、俺全部食べきれる自信ないよ? 残しちゃうよ? もったいなくない? おばさん、きっと悲しむなー」
「も、もお、アルトくんってばあ……」
 くすくす笑うライヒアルトに、半ば泣きそうなリカルダが視線を斜め下に彷徨わせたまま呻いた。完全に困っている。
「だからさ、一緒に食べようって。リカに奢るんじゃないよ、俺が食べたいだけ」
「……そ、そおいう、ことなら」
 視線がおずおずと彼の元に戻ってきた。まるで捨てられた子犬のような眼差しに、笑いをかみ殺す。
彼女はとてもしっかりしていて、あまり他人に何かを望んだりはしない。けれど彼女もしたいことがあるのだということは、何となく分かっていた。伊達に三つも年食ってはいない。
 からかってみせると、年相応の少女らしい様子を覗かせる彼女。自分がそこまで表情の変わる方だと思っていないらしいが、すぐにわたわたと慌てたり困ったように視線で助けを求めたり、先程のように嬉しそうに揺れていたり、それはどこか愛らしい小動物にも似ていて。彼女本人は良しとしないだろうが、本当は彼にも甘やかしてやりたい気持ちはあった。リカの言う通り、もう少ししっかりしなくちゃな。俺は年上なんだから。――ふっと笑って、ぱちりと手を合わせる。
「じゃ、決まりだね。林檎パイの時期になったら、エーレに寄ろう? ……で。今日のちびのお土産はなんだろうねえ」
「そうだった、ちびちゃんのおみやげ!」
 急に、彼女もぱちりと両の手を合わせた。跳びあがるように正した姿勢と、ゆれる白金の髪。
「ちびたち、帰りに食べちゃったりしてね?」
「そ、それを止めるのが隊長の役目でしょ。監督責任!」
 焦燥にも似た色。ほら、またくるりと表情が変わる。くすくすと笑う彼に、一瞬彼女は憮然とした表情を浮かべた。
 そんな、時だった。
 ――ばあんっ!
 勢いよく叩き開けられた玄関の両扉。きこり、と蝶番のいびつな音を立てて跳ね戻るそれを背にし、不意に現れた来訪者――育て親のロルフが息遣いも荒く佇んでいた。