鼓動が痛い。
 扉口で荒い息を吐く養父のロルフに反射的に目を遣ったリカルダは、そのただならぬ表情に思わず息を呑んだ。何か、あったのかしら。険しい表情。こんな表情は初めてだった。
「じいちゃん、どうし――」
「村に火の手が上がっている、わしは村へ向かう。子どもたちを家から出すな。分かったな」
 ライヒアルトの言葉を焦燥の滲む低い声が掻き消す。
 何を言っているのか分からずにリカルダはぼんやりと養父の眉間に寄った皺を見詰めていた。村、火の手、子どもたち。その言葉が、突然意味を為した。
「ちびちゃん……たち」
 血の気がさあっと失われていく。全身を走る感覚のすべてに霜がはりついたように、ざわりと冷たい。不意に早鐘を打ち始める心臓。胸が、痛い。胸元をきゅっと握る。声にならない引き攣った声をちいさく上げて口篭る少女の代わりに、ライヒアルトががたりと立ち上がる。
「……本当、に? 村に、……襲撃?」
「小火かもしれん。だが、胸騒ぎがするのだ。子どもたちを頼んだぞ」
「俺も、行く」
 さっと扉口に身を翻していた養父が、ライヒアルトの似合わぬ低い声に、苛立ちに近い表情でさっと振り向く。
「ライヒアルト、これはお前の好きな冒険譚ではない。英雄にはなれない。それよりも、此処を護るんだ。聞き分けろ」
「違うよじいちゃん、ちびが村にいるんだッ!」
 時が、止まったような気がした。目を見開きライヒアルトを凝視する養父。真っ直ぐに養父を見据えたままのライヒアルト。身動きさえとれない、リカルダ。ざわりと揺らめく梢の音。鳥の飛び立つ不穏な羽音が、静寂を掻き消す。
「――な、ぜ……子どもたちだけで村にやった!?」
「試食会で大人達がたくさんいるから、大丈夫だと、思ったんだよ」ライヒアルトは焦燥の滲む震える声を抑えるようにそう言う。「じいちゃん、急ごう。今は話し合ってる時じゃない。こうしているうちにも、ちびたちは」
 脳裏に浮かんだイェルンとマルテの笑顔が、不意に炎に焼かれて散る。ぞおっと背筋を舐める悪寒に震えるのと同時に、養父ロルフが眉根をぐっと寄せて踵を返した。そのまま、飛び出していく。ライヒアルトがその背を追い玄関へ飛び出したのをどこか遠くに眺めながら、少女はくちびるを噛んだ。
ちびちゃんたちを送ってって、わたしが――わたしが、言った。わたしが。
「わたしの、せい……だわ」
 ようやっと出た声は、掠れていた。ライヒアルトが振り向く。
「違う。リカのせいじゃないよ」
「でも、わたしが止めてたら、ちびちゃんたちは――!」
「送り届けたのは俺だし、提案したのも俺だ。リカは悪くないよ。――俺は行くよ。リカはここを護ってて。ね?」
 ライヒアルトは、取り乱す少女を諭すように優しい口調でそう言うと、ちらりと背後の扉に目を遣る。
「俺が絶対、ちびたちを連れて戻ってくる。――約束」
 にこり、と笑う。少女がおずおずと頷くのを見、彼は踵を返した。そのまま、振り向きもせずに玄関から飛び出していく。
 リカルダは金縛りが解けたように、慌ててサンダルを突っ掛けて玄関から飛び出した。駆ける幼馴染の背は既に遠く、彼を待ち受ける深い森のその奥に、立ち上る黒煙が不気味にゆれる。
「ちびちゃん、アルトくん……」
 白いワンピースが不安げにふわり。肩を撫でる肌寒い風は、まるで不吉な未来を表しているようで。ぶんぶんと首を振る。
 少女はそのちいさな両の手を胸元できゅっと組み合わせた。
 お願い、どうか、無事でいて――!




 心臓が潰れそうだと、そんな風に思ったのは初めてのことだったかもしれない。はしばみの髪をさらう熱い風に、ライヒアルトは思わずくちびるを噛んだ。
 静けさそのものの森の村メーディスは、いまや炎と悲鳴に包まれた地獄絵図と化していた。林檎の木が燃える。家畜が嘶く。ぱちぱちとはぜる穏やかならぬ音と、視界を埋め尽くす紅。朝は穏やかだったその景色の変貌に、彼は暫し黙り込んでいた。
「ライヒアルト、ぼうっとするな! 子どもたちを探せ!」
 焦燥に満ちた養父ロルフの声に、はっとする。そうだ、こうしている場合ではないのだ。目の前の光景を振り払うように、首を振る。しかし、眼前の景色は消えることはなく。ぎりっと歯噛みし、ライヒアルトは駆け出した。試食会は村の集会所でやっていた筈だ。
 しかし、村の中央に位置する集会所には机と皿が散乱しているだけで、見慣れたちいさな姿は見当たらなかった。僅かに視線を巡らせると、ライヒアルトは村の東側にある喫茶店エーレの実≠目指して再び駆け出した。
 焦りだけがつのる。だめだ、落ち着かないと。それでも、炎のはぜる音と悲鳴が心を侵蝕する。だめだ、だめだ! ――どこに、いるのだろう。
「ちび! ちびたち、どこなの! 兄ちゃんだよ!」
 叫べど、返る声は無い。走る速度を一層はやめ、ライヒアルトはエーレの実≠フ林檎の絵の吊り看板の前に辿り着く。煉瓦の壁の傍。いない。裏手の小ぢんまりとしたガーデン、テラスに次々に視線を巡らす。――やはり、いない。
「ちび! ちびたち! 出ておいで!」
「アルト君、ぼうやたちはココにはいないよ……」
 不意に聞こえた怯えたいろの声に、ライヒアルトははっとして顔を上げる。店の茶色い木の窓枠から、喫茶店のおかみの人のよさそうな顔が覗いていた。
「ファーナーおばさん! ……でも、試食会に来てたんだ」
「火の手が上がる少し前にね、イェルン君がお菓子をおうちにお土産に持って帰るんだっていうから、おばさん、包んであげたんだ。それを持って飛び出していったから、きっとおうちに帰ったんだと思って……戻っていないのかい?」
 困ったように頬をさすりおろおろと顔を震わせながらも、やや間延びした声でそう訊ねる彼女に、ライヒアルトは頭を振る。
「ねえ、おばさん。魔物が襲撃してきたの? それとも、小火?」
「それが、わからないんだよ。おばさんもね、ちょっと次の仕込みの為に店に戻ってたからさ。でも、そう言う人もいたから、おばさん、こわくって。だからココに隠れてたんだけど、ねえ、アルト君、ココにいても危ないかねえ……」
 頭を振り振り、間延びした声。逸る気持ちを抑えながら、頷いてみせる。
「外の様子、見てた方がいいかもしれない。火が燃え移ってきたら危ないから。よくわからないけど、逃げられる時に逃げた方がいいよ。……じゃあ、俺行くね。ありがとう、おばさん!」
 ふっくらとした頬を両手で包み込み不安そうに頷くおかみを落ち着かせるように頷いてみせ、にこり微笑む。おかみはくちびるを噛んでうんうんと頷いた。それを見届け、青年は身を翻して駆け出す。
 帰ってきていないということは、まだ村のどこかにいるはずだ。試食会の行われていた集会所にもいない、喫茶店にもいない。となると、子どもたちの行きそうな場所は――
 ばっ、と村外れの方に顔を上げた。村外れには、ライヒアルトが本を借りる為に通う大樹の魔女アルテアの家がある。そしてその傍に、彼女が護っているという村の守り神≠フ大樹。あの樹のうろに、子どもたちは秘密基地を作っていた。思うやいなや、駆け出す。
 生意気な少年や能天気な少女の姿が脳裏にちらつく。あの子たちだけで行かせるべきじゃなかった。だから、大人たちのいない所に行くなって言ったのに!
 説教は後だった。村外れ目指して、駆ける。
 辿り着いた大樹の傍まで火の手は来ていなかった。静謐ささえ感じさせるひそやかな空気が、背後の村の喧騒とは対照的で、妙な焦燥感さえ抱く。耳をそばだてても、声は聞こえない。ライヒアルトは太く絡む根に駆け上り、大きく口をあけたうろを覗き込んだ。動くものはいない。
「……あれ?」
 不意に光るもの見つけたライヒアルトは、そっと手を伸ばした。大樹のうろの奥、硬質の何か。これは――剣?
 木々の隙間から漏れる夕陽を受けて煌めくそれの刀身には触れぬよう、柄に手を掛けた。そのまま、それをうろから引き出す。すっと掲げて、刀身を眺めた。僅かに欠けて朽ちている。その冴えるように澄んだ刀身に、己の顔が映った。僅かに煤けた頬に乱れたはしばみ色の髪。空のようだと言われる、碧眼。そして、紅く染まる背後の村。その空に――黒い影。
「きゃああああぁああぁぁああぁああっっ!!」
 背後から、悲鳴。はっとしてライヒアルトは振り向く。刀身に映し出されたものと同じ黒い影が虚空に揺れる。そして、あの声は確かに――
「ちびたちッ!?」
 ライヒアルトは弾かれた様に駆け出した。太く絡む樹の根が邪魔をする。こんな所で足を取られている訳にはいかない!
 ライヒアルトは地を蹴り、走り出した。子どもたちの声のした方へ。
 約束したんだ。俺が絶対、ちびたちを連れて戻るって。




「ちびたち、大丈夫!?」
 集会所の外れの物置小屋の軒下に、若い麦穂と明るい小豆のふたつの頭が寄り添い震えていた。穴倉の弟分と妹分、マルテとイェルン。彼らは声に弾かれたようにその煤だらけの顔を上げた。ライヒアルトは駆け寄る。
「ほら、行くよ。早く逃げよう。此処は危ないよ」
 震えていた子どもたちがほっとしたように目を見開いたのも束の間、視界が陰り子どもたちが細い悲鳴を上げる。
「兄ちゃん、後ろッ!」
 弟分の声に、はっとして振り向く。その先に、邪悪に煌めく蛇のような黄色い瞳。ごうごうと呻る風の音。眼前に舞い降りる黒い影の背に、一対の翼。
「翼竜ッ!?」
 咄嗟に叫んだその名は、昔物語で目にした邪悪な生き物。直後、劈くような不協和音。嘶く翼竜は、その巨大な体をくるり巡らせ舞い上がった。そして、ライヒアルトめがけて降下する!
「うわッ!?」
 咄嗟にライヒアルトは携えたままだった大樹の剣を振り上げた。がぎんっ、と翼竜の爪を弾く硬質音。翼竜が黄色い目を吊り上げ、不快に嘶いた。唾を飲み込む。引けそうな腰。なんとか両足を開いて踏み止まる。防ぐだけとはいえ、攻撃を加えてしまった。翼竜の鼻息に、背筋が震える。完全に敵視されてしまったらしい。ライヒアルトは振り向かないまま、一歩、じり、と下がった。
「ちびたち、……俺がこいつを引きつけるから、逃げて」
 答えは返らない。振り向きたかったが、そうしてしまったが最後、翼竜に身を裂かれてしまう気がした。震える体を抑え、剣を握り直す。――剣を握るのはいつぶりだろう。前は兄貴分のディートマルから託された剣を握り、いつ穴倉が襲われてもいいようにと剣の練習をしていた。すっかり、平和呆けしていた。本当に、魔物相手に剣を握る日が来るだなんて。
 眼前で羽ばたく翼竜の姿は、馬よりも大きい。前肢の代わりに翼がついていて、後肢には鋭い爪が光る。甲高く引き攣った不快な嘶き声と、口の中でちらり蠢く醜悪な舌。
物語で知る竜たちは、荘厳で美しい生き物だった。しかし、目の前の生き物は――ただの、醜悪な魔物だ。
黄色い眼が、ライヒアルトの碧眼を見据え、ゆっくりと羽ばたき上昇する。
鼻先を撫でる熱い風が、はしばみ色の髪をなぶる。視界いっぱいに広がる紅は、夕陽とも炎ともつかない。そして眼前には、紅に照らされてぬらりと光る、枯れ草色の翼竜の巨躯。
 その非現実的な光景を、彼はどこか遠くに感じていた。醜悪な魔物だ。それでも、この紅の光は――なんと、美しいのだろう。こんなに美しい色は見た事が無い、とどこかぼんやりと感じる。まるで、物語の織り画のようだ。竜と対峙する、英雄。その英雄に、きっと自分は――なれない。
 諦めかけたその時に、ちらりと脳裏に白金の髪の少女がよぎる。そうだ、約束していた。諦めるわけには、いかない。剣を握り直す。
「兄ちゃん、そいつ、火を――ッ」
 イェルンの言葉に、ライヒアルトははっとして目を見開く。見上げる先、翼竜の口の中に炎が生まれつつあった。炎を――吐く?
 翼竜が何をしようとしているのか悟ったライヒアルトは、反射的に剣を振り上げ、勢い付けて竜の腹に叩きつける!
「グギャアアァァァアアッ」
 腹の底から唸り出るその呻き声。力任せに叩きつけた剣は、竜の腹に弾かれて手から離れ、吹き飛んだ。得物を、失ってしまった。ライヒアルトは身を竦ませ、じり、と一歩下がる。そして、屈み込んだ。翼竜が苦悶に身をよじらせている間に、さっと子どもたちに視線を落とす。恐怖に見開かれた瞳。煤と涙でぐちゃぐちゃの頬。ライヒアルトは思わず、ふっと笑う。
「逃げろって言ったじゃない」
「に、兄ちゃんも、一緒ににげようよ」
 優しく諭すようなライヒアルトの声に、イェルンが涙混じりの声で言いながら兄を揺さぶった。ライヒアルトは首を横に振って笑う。
「頑張るけど、自信ないよ。もう一度、俺が引きつけるから。逃げるんだよ」
「おにいちゃん、だめ、だめだよ、おにいちゃんも!」
「行くよ」
 喚くマルテに首を横に振り、ライヒアルトは立ち上がった。得物は無い。希望も無い。何の戦術も無い。俺に出来るのは、ただ――子どもたちの、逃げる隙を作ることだけ。
 翼竜がその翼をぐわりと広げ、嘶く。空気を震わせるその音に一瞬身を竦ませながら、ライヒアルトはじりっと翼竜の黄色い瞳を睨み付ける。リカ、ごめんね。俺は戻れないかもしれないけど、ちびたちだけは――
 翼竜の黄色い眼が見開かれた。甲高く嘶き空を滑る翼竜に、思わず瞼を閉じたその時だった。 
「――霧氷花協奏曲(ジーヴル・コンセルト)」
 凛と響く、しわがれた力強い声。キン、と澄んだ音と、鼻先に滲む冴えた冷気。翼竜の耳障りな甲高い声。ライヒアルトは恐る恐る目を見開いた。無数の氷柱を生やし、どうんっ、とその身を地に沈める枯れ草色の巨躯。絶命した、邪悪な翼竜の姿。
 呆然とその様を眺めていた青年と子どもたちの前に、深い菖蒲色のローブを目深に被った男がゆっくりと歩を進めた。
「……じい、ちゃん……」
 力が抜けたように、ぺたりと腰を地に付けたライヒアルトの両腕に、背後に隠れていた子供たちがしがみつき、身を寄せあって眼前に現れた救世主たる養父ロルフを見上げた。
「リリーの奴の術を使うのも癪に触るが、まあ致し方なかろう」
 ロルフは目深に被っていたローブのフードを頭の後ろに跳ね除け、まとわりつく銀の髪を払うように軽く頭を振った。
「頑張ったな、ライヒアルト。……無事でよかった」
「……あは、は、……来るのが、おそいよ、じいちゃん」
 力が抜けたように笑う。張りつめていた緊張が一気に解かれ、へなへなと彼は背後の家屋に背を預けた。ロルフはそんな息子に軽く口の端を上げて応じる。
 時は、夕刻。深まった闇を、狂乱の宴に天駆ける主を欠いた炎が、なおもちろちろと照らし染めていた。