夜の木々を照らす灯火を認め、少女ははっとして目を見開いた。
「……アルトくんっ!」
 叫ぶ声が静寂に包まれた夜の森に響く。それに応えるように、近付いてくるカンテラの灯がふわりと浮かび、揺れた。
 帰ってきた。――ふっと、肩の力が抜ける。 途端に、祈るように組み合わせていた指先が冷えてかじかんでいることに気付いた。指先も、爪先も、痺れて痛い。気が付けば、あたりは深い闇に包まれていた。いつから、ここにいただろう? あまり、記憶が無い。今はただ、幼馴染の無事が嬉しかった。
 カンテラの灯でしか認められなかった幼馴染のライヒアルトの姿が、いつしか見えるほどに近くまで近付いていた。ちいさな子どもたちを連れて歩いてくる姿が見える。リカルダは待ちきれず、駆け寄った。幼馴染が、力無く笑う。
「ただいま、リカ。……穴倉は大丈夫だった?」
「うん、うん……大丈夫。おかえりなさい」
 憔悴しているが怪我は無さそうだ。ライヒアルトの隣を歩くイェルンに視線を落とすと、その視線を避けるように麦穂色の頭を下げた。少女は首を傾げる。
「ちびちゃんたちは? 怪我、ない?」
「大丈夫。マルテは寝てるだけだし、イェルンも怪我はないよ。ね」
 背負った小豆色の頭にちらりと目を遣り、ライヒアルトは小さく笑った。それを聞いたリカルダは、胸を撫で下ろしたようにちいさなため息をついた。そして、唇を噛んで震える少年イェルンの前にしゃがみこんだ。頭をふわり撫でてやり、伏せたままの顔を覗き込むように、少女は小首を傾げて微笑みかけた。
「ちびちゃん、怖かったでしょ」
 その問いかけに、イェルンは強がるようにぶんぶんと首を横に振った。そして、俯いたまま、ちいさな声で呟く。リカルダは、え、と訊き返した。
「……姉ちゃん、ごめん。オレ、おみやげ持ってこれなかった」
 弟分の言葉に、リカルダは瞬きをひとつ、ふたつ。その言葉の意味するものを理解すると、彼女はふっと微笑んだ。そんなこと、気にしなくていいのに。
「わたし、エーレのおみやげより、ちびちゃんたちが帰ってきてくれるのが一番うれしいよ。……おかえりなさい」
 イェルンは答えない。小さく肩を竦めて微笑み、リカルダは立ち上がった。
「アルトくん、ありがとう……」張っていた気が緩んだように、リカルダは目元をじわりと潤ませる。「ご飯の支度、できてるから……ゆっくり、休んで」
 うん、と頷き、ライヒアルトは疲れ切ったような力無い笑みを浮かべた。
 少女が押し開けた玄関扉をくぐるライヒアルト。彼はふと立ち止まり、振り返った。疲れ果てた顔に、すこし悪戯気な笑み。
「ねぇ、リカ。俺、ちびたち連れ帰ってくるっていう約束、守ったよ。褒めてくれる?」
 リカルダは一瞬目をぱちくりとした後、つられたように笑った。
「アルトくんのばか」そして、目を伏せる。「……ありがと。本当に」




 養父ロルフが帰ってきたのは、夜も更けての頃だった。
「じいちゃん、おかえり。村の様子、どうだった?」
 養母リリーが寝るのを見計らい、養父がひとりきりで食事をとる食卓に赴いたライヒアルトは、養父の向かいの椅子を引き、腰を下ろしながらそう訊ねた。
 突然ライヒアルトが起き出してきた事に対して少し目を見開き、養父はその憔悴した面に深い皺を寄せ、考え込むように口を噤んだ。そんなに、被害の状況は酷いのだろうか。ライヒアルトは気遣わしげにその面を覗き込む。
「……干草小屋が全焼、いくつかに延焼。林檎の木もいくらか燃えた。が、幸い大樹の魔女が鎮火を手伝ってくれたのでな、村の被害はさほど多くはない」
 暫くして養父の口から述べられた被害状況は、思っていたよりもずっと少ないものだった。初めて見る、恐ろしい光景。それを目にした時は、村ひとつ、自分の生活すべて、まるごと炎に消えてしまうのではないかと思った。
「……でも、あんなのが、いたじゃない。それなのにそれだけで済んだの?」
「うむ……」
 曖昧な相槌。養父は重たげに口を閉ざし、僅かに目線を逸らした。
 ライヒアルトの脳裏に浮かぶ、炎の村。それを背に宙に踊る、恐ろしい翼の魔物。炎を照らされ、不穏にぬめり光るあの巨躯と、鋭い爪。小火などではなく、あの凶暴な翼竜によって村が焼かれていたのだとすれば、被害が無いとは思えない。ライヒアルトは、辛抱強く養父の答えを待つ。
「……そうだな。大工のミヤジが、死んだよ。炎にではなく、爪に裂かれてな」
 養父の重い言葉に、思わず息を呑んだ。ぱちり、暖炉の火がはぜる。夜の静寂と、明かり取りの天窓から差す月のひかり。それにカンテラの灯を足しても、その薄暗い部屋の中では心許ない明るさだ。揺れるカンテラの灯が、養父の顔の深い皺に印象的な陰影を刻む。表情は、よく見えない。しかし、静寂の中に落とした深いため息は、養父ロルフの想いを語っているように思えた。
 大工のミヤジは、養父がこの地に訪れてからこの穴倉の改築にあたりよく相談に乗ってくれていたのだという。長い、付き合いだったのだろう。ライヒアルトも幼い頃から可愛がられた記憶が色濃い。大柄な、気の良い男だった。ライヒアルトはふっと視線を落とす。
「じいちゃん、あれは一体、なに? どうして、村に……」
「あれは翼竜だ。お前の好きな物語にもいただろう。通常、山岳地帯で目にする生き物だ。普通であれば、このような飛翔に不便な森の中には現れない」
「でも、実際に村にいたんだ。どうして? 何が起きたの?」
「わしにも、分からん。だが……生物は本来、境界を越えたりはせん。あるべき場所で、あるべき形で生きている。そこに何らかの思惑が絡まぬ限りはな」
「つまり……?」
「誰かがけしかけた可能性がある、ということだ」
 ロルフは手元に置かれたカップに口を付けた。飲み下す音と、カップを置く音。それから、深いため息。
 ライヒアルトは、養父から語られた話に想いを巡らせる。誰かが、けしかけた。どういうことなのだろう。この小さな村に、誰か恨みを持つ者でもいるというのだろうか。答えは、出ない。ライヒアルトは小さく息を吐いた。
「それにしても、じいちゃん強いんだね。あの翼竜を、一発でさ」
「伊達に年を食ってはおらんよ。……お前も、よく戦ったな。お前のおかげで子どもたちの命は助かったのだろう。礼を言うよ。ありがとう」
「俺は夢中だっただけだよ。じいちゃんが来てくれなかったら……」
 ライヒアルトは困ったように小さく笑った。養父もちらりと顔を上げ、笑う。
「命を張るなら最期の瞬間まで諦めない事だ。常に次の一手を考えろ。命を振り捨てる無謀な振る舞いは、己の命以外のものを背負う騎士にはあってはならぬことだ。命を捨てたその瞬間から、護りたかった者を危険に晒す事になる」
 昼間ライヒアルトが翼竜に剣を叩きつけたのを――つまり、最後の抵抗として得物を手放したのを見ていたのだろう。ライヒアルトは困ったように頬を掻いた。養父はふっと笑う。
「命を大切になさい。最後の最後まで、戦い続ける事だ。時には、逃げる事も躊躇うな。命さえあれば、何度でも立て直すことは出来る。命さえ、あればな」
 低く、ゆっくりと諭すような養父の声に、ライヒアルトは口を噤んだままおずおずと頷いた。養父の脳裏に、今何が浮かんでいるのだろう。死んだ、大工のミヤジだろうか。彼は腕自慢で、今までに村のいくつもの建物を建てた。小さい頃のライヒアルトに、確か木で玩具を拵えてくれたこともあった。次は集会所に雨除けを建てるのだと豪語していた。――しかし、彼の手はもはや何ひとつ生み出す事はない。 
 命を失うということ。その残酷で絶対的な終りに、ライヒアルトは思わず頭を垂れた。死ぬということ。なんという、恐ろしいものなのだろう。
「……どうしてミヤジおじさんがこんな目に遭わなくちゃいけなかったんだろう。翼竜を誰かがけしかけたって、一体誰が……」
「分からん。村の者も、心当たりのある者はいなかった。……だが、考えてもみなさい。わしらの生きる時代をな」
「――世界、大戦」
 養父は頷いた。ライヒアルトは視線を落とす。
 世界大戦。――話には、聞いていた。自分もリカルダも弟分たちも、大戦の中で滅んだ土地の生き残りだったということ。ことのはじまりは、竜が人間を滅ぼそうとしていたのだ、ということ。
 ライヒアルトの愛した古代英雄譚で語られた竜と人間の盟約は、何だったのだろう。あれは夢物語で、御伽噺にすぎず、本当の竜というものは昼に見た翼竜のように凶暴で恐ろしい生き物なのだろうか。もし、そうなら――人は、竜に滅ぼされるしかないというのだろうか。ライヒアルトはくちびるを噛む。自分には、竜を恨む理由などないのに、ただ穏やかに暮らしているだけだというのに。今日のように突然襲われて、理不尽に命を落とす。それが、戦争なのだろうか。引き取られてからのライヒアルトは平和そのものの暮らしの中で穏やかに育ってきた。戦争などというものを今まで忘れていたほどに。
 憎しみ合う理由なんて、どこにもないのに。竜は、どうして――
 ロルフが席を立った。ライヒアルトははっとして顔を上げる。
「もう夜も遅い。今日は疲れただろう。……早く寝なさい」
 微笑む養父に、ライヒアルトは曖昧に頷いた。目は、冴えている。眠れそうな気がしない。食器を片付けた養父が食卓を去った後も、ライヒアルトは残されたカンテラをじっと見つめていた。
 ふと、彼はカンテラを手に立ち上がる。食卓の近く、壁をくりぬいただけの円形の窓の下のちいさな書き物台にカンテラを翳す。
竜使いの民≠ニ書かれた一冊の古書が、ぼう、とおぼろげな灯に照らされ、ただそこに横たわっていた。




 明くる日も、天気の良い日だった。
 いつもは起床の時間を知らせる鐘の音も、開店を知らせる鐘の音も今日は村から聞こえてくることはなかった。普段はその開店の鐘の音の前には村へ赴き雑貨店の手伝いをしているライヒアルトだったが、昨日の襲撃の後に暫くの暇を貰っていた。他の店も、喫茶店も、きっと今日は閉まっているだろうな。
「えーっ、村に行っちゃいけないの!?」
「いつまでー?」
 口々に喚き立てる子どもたちの声に、ライヒアルトは手元の本に落としていた視線を上げた。見れば、食卓で養父ロルフが子どもたちに囲まれ、困ってこめかみを抑えているところだった。養母リリーと食事の支度をしていたリカルダが振り向き、困ったように小首をことりと傾げた。
「もお、ちびちゃんたち。おじいちゃんを困らせたらダメでしょ?」
「だって、ねえちゃん、村行っちゃだめだって!」
「昨日あんなことがあったんだから、当たり前でしょ。危ないわ」
 口を尖らせるイェルンをたしなめるように、リカルダは両手を腰に手を当ててみせた。ひとつ、ため息。隣でマルテが「なんでー?」を繰り返している。
「昨日あれだけ危険な目に遭ったというのに、お前たちは全く……」
 理解しかねる、とでも言いたげにロルフは深い溜息をつきながら僅かに首を振った。イェルンは口を尖らせ、なおも言い募る。
「オレだって、あのデンセツの剣さえあれば竜に勝てたんだ! 負けっぱなしでなんていられるワケないじゃんっ」
「え、伝説の剣って、もしかして大樹のうろにあったやつ?」ライヒアルトは小首を傾げる。「ごめん、俺あれ昨日竜に投げちゃった。まだ落ちてるかも」
「えぇえッ!? にいちゃん、タイセツに扱えよッ! 大樹から見つけたんだぜ、きっとすげーワザモノなんだ。オレのみらいのパートナーなんだからなッ!」
「未来のパートナーって、イェルン将来何したいの?」
「あの剣持って、ボウケンするんだ!」問うライヒアルトに、少年は反り返りそうな程に誇らしげに胸を張ってみせた。「世界中な!」
 まるで幼い頃の自分のような事を言うイェルンに、ライヒアルトは一瞬目を瞬かせた。食事を運んできたリカルダが、ため息をつく。
「アルトくんの悪い影響だわ」
「えー? まあ、その……夢を持つのはいいことだよ」
 少女はライヒアルトに半眼を寄越す。彼は思わず肩を竦めた。少女は続ける。
「とにかく、危険だから暫くは家を出ちゃダメ。また魔物が来ないとは限らないんだよ」
 言い含めるように、リカルダはそう子どもたちを諭す。だが、イェルンはまだ不満げな顔をしていた。不貞腐れたように、口を尖らせる。
「だって、そんなん言ったら……ケッキョク、いつまでなんだよ」
「ちびちゃんがいい子にしてたら、そのうちね。わかった?」
 少女の言葉に、ただイェルンは眉根を寄せて、答えなかった。
 ライヒアルトは、読んでいる本の頁をはらりと捲りながら、子どもたちの会話に思いを巡らせた。
 ――いつまで、か。
 答えは、彼の中にも思い浮かばなかった。いつまでも、きっと終わりはしない。脅威は去ることは無く、自分たちはこれからもずっと、影におびえて、小さな集落の中で生きていかなくてはならない。続く道の先に、森の影に、水底に、ふっと暗くなった空に、山の向こうに、これからもずっと、影を見出す。そこに何も無かったとしても。このまま生きていく限り、ずっと。
 昨日の昼までは、考えた事もなかった。ライヒアルトの知る狭い世界は、穏やかだったからだ。しかし、見えないだけで脅威の手はすぐそばにある。それを思い知った今、子どもたちの外出を禁じる養父母の気持ちもよく分かる。
  子供の頃から、本の中で様々な世界を旅した。続く道を辿り、深い森を越え、立ちはだかる山さえ越えて、海へ、空の上の街にだって。いつかそんな風に旅がしたいと願っていた。自分がかつて夢見て、そして今イェルンが夢見ている世界を舞台にした冒険の旅=Bそれはきっと、叶う日は来ない。
 そこまで考えて、ふと、脳裏に疑問が浮かぶ。
 ――あのキラキラした世界が、絶対に叶う事が無いのを、頭のどこかで、俺、知ってた。……けど、本当に?
 いつから、そう思っていたのだろう。自分はいつから、諦めていたのだろう。
 諦めていた。それは夢物語だと、いつの間にか思い込んでいた。けれど――
 ぱちり、暖炉の火がはぜた。ライヒアルトはふっと振り向く。
 不意に、喧噪が遠くなった。しんと冴えわたるような感覚。揺らぐ炎を見つめたまま、彼は口籠った。急に浮かび上がった思考が、その冴えた感覚のすべてを埋め尽くしていく。急速に己に沁み渡るその感覚に、眩暈さえ覚えて。
停滞した世界。諦めを覚えた自分。それでも確かに感じるこの感覚は、一体?
いつでも現状を受け入れてきた。それだけで、自分はやさしい日々に浸ることができた。きっと、これからもそうだ。このまま流れていくことを選択したならこのやさしい日々に浸れるだろう。しかし、それこそ――いつまで、続くというのだろう?
見つめた先の暖炉の火が、またぱちりとはぜた。
 暖かな炎。しかし、くべる薪を失ってしまえば、炎は消える。やがてふっと消え去り、存在することさえ出来なくなる。どんなに燃え続けることを願っても、その流れは止められない。きっと、それと同じだ。変わらずに続くと思っていたこの穏やかな日々にも、永遠など存在しない。昨日のような出来事があれば、ふっと消え去るだろう。このまま何も、しなければ。
 ライヒアルトは唇をきゅっと噛んだ。
 嫌だ。――このままなんて、嫌だった。