竜使いの民は、竜と共に生きる人間族の民である。竜の使いとされ、竜が人の前に現す時には傍に付き従い、竜の言葉を伝える役目を持った。その起源はかつての救世の英雄リーナスと黄金竜との間に交わされた盟約にあるとされる。英雄リーナスおよび竜の巫女ラハヤの血、そして黄金竜との盟約とを受け継ぎ続けている。その暮らしについては未だ謎も多く、我々人間には容易に立ち入ることの出来ない北限の島の竜の嶺≠ノひっそりと暮らし続けているという。
竜は高等種であり、人間を敵視することはない。それは、彼等の身が人間に脅かされることは決して無いからだ。……

 そこまで読んで、リカルダは本から顔を上げた。背もたれに身を預けていたライヒアルトが僅かに身を起こした。
「ね、おかしくない?」
「よ、読んでみてって言うから読んだら、急にそんな質問して……」
 襲撃の日から、数日。その夜から、家の手伝いの合間に読んでいた竜使いの民の本――大樹の魔女アルテアから数か月借りっぱなしだった本だ――を読み終えた彼がまずはじめにしたことは、手始めに幼馴染の少女に自分の気になった箇所を読ませることだった。しかし、突然問われた少女は困ったように眉根を寄せるばかりだった。食卓で隣り合うように座り、少女が読み終わるのを黙って待っていたライヒアルトは小首を傾げた。
「だってさ、竜は人間を敵視することはないって言ってるんだよ。じゃ、大戦って一体何なんだろうね?」
 ふむ、と顎に手を当ててもっともらしげに考え込んでみるライヒアルトに、リカルダは片手を頬に当て、困ったようにことりと小首を傾げた。
「そんなこと気にしてどうするの? 竜の考えることなんてわからないよ」
「俺、何にも知らないままで襲撃に怯えるの、嫌だよ。せめて、なんで戦争が起きたのかくらい知りたいじゃない?」
「わたしたち、あんまり危険な目に遭ったりしてないじゃない。戦争だなんて、忘れてたくらいだわ。今度の事は、たまたま運が悪かったんだよ」
 少女は特に理由を気にする様子はない。ライヒアルトは、うーん、と呻る。確かにその通りではあるのだが――とそこまで思いかけて、慌てて首を横に振る。自分がここで納得してしまったら意味がない。
「でも、とにかく、原因も分からずに竜を疑うのって、すごく危険な気がするんだ、俺。だってさ、もし何か誤解があったらさ――」
「誤解もなにも……どっちにしても、わたしたちにはもうどうしようもないよ。もし襲われても大丈夫なように、ちゃあんと力をつけて、ここを護っていくだけじゃない?」
 うー、と呻き、ライヒアルトは沈黙した。ごくごく正論である。数日前には疑問さえ抱かず、戦争など意識せずに暮らしてきた。
 しかし、今も各地で襲撃は起こり、ライヒアルトの持つ世界地図とは世界の様相も変わっているらしい。自分達が知らないだけで、世界は変わり続けている。それを知った時、そのまま知らぬうちに世界からじわじわと人の集落が消えていくことに、言い知れぬ恐怖を抱いた。しかし、だからどうするのかと言われたところでどうしていいか分からないのも事実だった。気を取り直して、ライヒアルトは笑う。
「ね、リカ、俺さ、本返しにいきたいんだけど」
「魔女の大ばばさまのところへ? アルトくん、よく行けるねぇ」
 首をふるふると横に振って、リカルダが顔をしかめた。彼女は幼い頃から大樹の魔女アルテアが苦手だ。確かに、物語の悪い魔女にそっくりといえばそっくりなため、無理もない。リカルダは僅かに身を震わせると、両手を腰に当てた。
「大体、おじいちゃんに村に行っちゃダメって言われたでしょ?」
「えー、あれ俺もなの?」
「当たり前でしょ!」
「いや、俺は大人だから多分当てはまってないよ。ね」 
 しれっと言い放ち、にこりと笑ってみせる。リカルダは「大人」とゆっくりと繰り返し、半眼になった。ライヒアルトが笑顔に加えて更に小首を傾げてみせると、少女が肩を落とした。
「もお……あのね、アルトくん。危ないんだよ。また翼竜が現れるかも」
「でも、アルテア婆ちゃんに訊きたいことがあるんだよ」
 大樹の魔女アルテアは、村の誰よりも長生きしている大長老だった。その人ならば、戦争について知っているかもしれない。それに、彼女は人嫌いで偏屈だが、博識である。きっと得るものはある筈だ。
「……じゃあ、おじいちゃんにお願いして、一緒についていくといいわ。ひとりで行かないようにね。危ないから」
 ライヒアルトは、曖昧に頷いて笑った。
 養父ロルフは、連日朝早くから村に出向き、今後の村の防衛等について話しあっているらしい。陽は既に高く、養父も随分村に向かってしまった。だが、明日まで待つ気はなかった。しかし、それを言っても彼女が心配するだけだ。
「……この間、アルトくんたちが帰ってくるのを待つの、すごく怖かったんだからね」少女は背を向けて食事の支度をしながら、ふと、ぽつりとそう言った。「危ない真似、しないで。わたし、ちびちゃんも、アルトくんも、心配なの」
「大丈夫だよ。俺、リカより年上だよ?」
 肩を竦めて笑ってみせるライヒアルトに、リカルダは肩越しにちらりと振り返り、困ったようにふっと笑った。
「でも、心配なの。アルトくん、わたしがいなきゃダメなんだから」
 そんなことないよ、と言おうとしたライヒアルトの脳裏に、少女の困ったような笑顔がこびりつく。きっと、たくさん心配をかけてきたのだろう。
 あの襲撃の寒空の下、震える指先を組み合わせ、自分が寒いのも忘れてライヒアルトらを待っていた彼女。心配性の、優しい、ちいさな母親のような少女。
 彼女にそんな顔をさせないためには、きっと自分が成長する必要があるのだということにふと、思い当たる。ライヒアルトはただ、曖昧に笑った。




 結局、養父に相談することもリカルダに告げる事も無く、ライヒアルトは単身村に赴いていた。既に陽は落ちかけている。夕暮れを迎えかけている森の外れに、大樹の魔女アルテアの住まいはあった。朽ちかけた煉瓦造りの家に、びっしりと蔦が絡む。家の周りをぐるりと取り囲むように生えている植物は、薬草か何かだろうか。軒先に干された謎の植物も、一体何なのか見当もつかない。ただひたすらに、他人に不安を与える外観だなと思う。今日も不思議な威圧感をたたえながら、魔女の家はそこに佇んでいた。
 竜使いの民の本を携え、ライヒアルトは魔女の家の扉を叩く。
「久しぶりだね、ローデンヴァルト。お入り」
 存外、上機嫌な声。――顔を見せる前に来訪者が誰か言い当てるのは、魔女の特技だった。久々にあのしわがれた低い声に名を呼ばれるのはぞくりとする。他の者はあまり呼ぶことのないローデンヴァルト姓で呼ぶのは、ライヒアルトの知る限りこの魔女だけだ。いつも姓を名乗る時、魔女を思い出すものだった。
「アルテア婆ちゃん、久しぶり。この間は大変だったね」
 後ろ手に扉を閉めながら、ライヒアルトは薄暗がりの部屋の奥で暖炉の前に座り込む小さな姿に微笑みかけてみせた。魔女アルテアは、にたりと笑う。
「おうともさ、あんたの所の爺さんに村の護りを強める相談をされて大変だったねえ。大体、村の連中が大樹の信仰を忘れているのに大樹の力も何もあったもんかね。精霊達も力を失っているだろう。身から出た錆、だあね」
 ひひひ、と甲高い含み笑い。ライヒアルトは僅かに肩を竦めた。
昼でも暗いこの薄暗がりの壁をずらりと埋め尽くす本棚には書籍がぎっしりと詰まっている。ライヒアルトのはその蔵書目当てに通っていたが、魔女と話すのはどうにも慣れない。人を小馬鹿にしたような言動も、薄暗がりに仄明るくひかる透明な瓶の中の謎の液体も、なんだか分からないような薬草も、大釜も、果ては魔女のひざ掛けでさえ、全てが恐ろしく見える事もある。リカルダが恐れるのももっともだった。彼女に害意が無いのは村の誰もが承知している。が、鼻先も背筋もじっとりと舐めるような魔女の家の雰囲気を好む気にはなれなかった。それを抑え、彼は努めて明るい声を上げる。
「今日も家、暗いね。気が滅入らない?」
「光は薬の成分を変えてしまう。何を馬鹿な事を言うんだい」
「そうだね、婆ちゃんは薬師だもんね。ごめん」
「無駄話をする暇は無いよ。本を返しに来ただけではあるまい。用件をお言い」
 魔女はライヒアルトに背を向けて大釜を掻き回しながら、低い声でまくしたてるように早口で訊ねた。先程のやや上機嫌な調子と裏腹だ。機嫌を損ねない内に、訊きたいことは訊いた方がよさそうだ。ライヒアルトは頷く。
「竜使いの民≠フ本、読んだよ。竜は、人を襲わないんだってね」
「そう書いてあるなら、そうなんだろうねえ」
「この本は、真実なの?」
「さあな、作者に聞いとくれよ」
「作者、生きてるのかなあ……」
 からかうような声音に、ライヒアルトは肩を竦めた。
「俺さ、何で戦争が起きたのか知りたいんだ。この間の襲撃の事があって、戦争っていうか、戦いの起きるような状況は全然変わってないんだなって思って」
「それを知って、どうするつもりだというんだい」
「知らないよりいいよ。襲われても話し合いが出来るかもしれない」
「甘いね。夢見がちだよ。翼竜があんたの話を聞いたかい、ローデンヴァルト」
「んー、まあ、話しかけたらもしかしたら聞いてくれたかも」
「言葉を解するとは思えないがね。あれは魔物さ」
 悉く潰され、ライヒアルトは小さく唸った。魔女はひひ、と笑う。
「……じいちゃんは、翼竜は誰かにけしかけられたんじゃないかって言ったよ。それなら、竜使いが村にけしかけたのかな。竜使いを介してじゃないと、竜と意思疎通出来ないんだよね?」
「馬鹿をお言いでないよ。高等種の竜族と、翼竜如きを一緒にするんじゃない。あれは全く別の生き物さ。蜥蜴の化け物だと思えばいい」
「えー、じゃあ、竜とか関係ないのかー……」
 ライヒアルトは肩を落とした。完全に、竜族というものと翼竜を同義に考えていたのに。そんなライヒアルトをちらりと見、魔女はにやりと笑った。
「誰かがけしかけたのは本当だろうね。大戦が始まってからこっち、人の集落と見れば襲いたがる連中が増えたのは事実さ。ま、大樹の魔女であるあたしがいなけりゃさっさとこの村も滅びていただろうね。村を護っていた大樹の護りが破られるようになったということは、大樹の力が弱くなっているということさ。感謝を忘れた者達に、無限に守護を与えられるほど、大樹も強くは無い」
「大樹の、護り……?」
「ほうら、知らない。忘れている。村の連中も一緒さね。この世界をあまねく包む精霊の存在を、人間は忘れている。精霊も可哀想だね。荒れ狂うのも無理はないよ」
 魔女の言う事は、ライヒアルトには見当もつかない。首を捻り口を噤んだ彼を嘲るように、魔女は歪んだ笑みを浮かべた。
「ローデンヴァルト、あんたには知らない事がたくさんあるのさ。今のあんたは、適当に開いた頁から本を読んでいるようなものだ。例え冒頭の一頁を読んだところで、そんなものは全てを理解したとは言わない。生きてさえいられたらいいと望む大多数の人間は、文字を読んでいるということに満足しているだけだ。だが、あんたは違うのだろう。その文字に、意味を見出そうとしている。はじまりを求め、ただ連なりゆく文字に意味を求めるならば、終わりを見出す決意をしてからにするんだね」
 終わりを、見出す。――ライヒアルトは、戸惑うように眉根を寄せる。その言葉は、何を意味しているんだろう。終わり、とは?
「あたしの知っている大戦は、ほんの一端なんだろうよ。あたしは、物語の登場人物のひとりにすぎない。だから、すべてを教えてやることなど不可能なんだ」困惑するライヒアルトに背を向けたまま、魔女は小枝をぱきりと折り、大釜に放り込んだ。「すべてを見届けるのは、その本を読もうと望んだあんた自身の役目さ。あんたは、その本を――読むことを、望むのかい?」
 ライヒアルトは答えない。どう答えていいのか、分からない。魔女は、一体何を言っているんだろう。俺はただ、原因が知りたかっただけだ。
「あたしはね、予感していたんだよ、ローデンヴァルト」魔女は立ち尽くしたままのライヒアルトをちらりと見上げる。「あんたは、変革の芽だ。夢見がちで、好奇心旺盛で、このあたしをも恐れない。あんたがいつか、時代という本にまでも興味を持つだろうと思っていたよ。本当にそれを手に取るかどうかは、あんた次第だがね」
「変革の、芽って……アルテア婆ちゃんは、一体俺に、何を」
「あたしは何をしろとは言っていないよ。このまま森の中で平和に暮らすのもいい。だが、それに疑問を抱いたからこそあんたはここに来た。あんたは何に疑問を抱いた? あんたの心は、何を告げる? あんたの望む世界は、何だ?」
 魔女は、立ち上がった。ゆらりと立ち上る煙のように、ライヒアルトの前まで歩み寄る。背の曲がった魔女は、幼馴染のリカルダよりもずっと背が低い。それでも、彼女の存在感はライヒアルトを威圧する。魔女のはしばみ色の瞳に、自分がうつる。彼女の瞳に囚われてしまったようで、ぞくりとした。思わず一歩後退る。にやりと魔女は笑った。
「その素直な目で、耳で、心でしか、この世界に散見する真実は見出せない。あたしが何を語ったところで、それは一面の真実でしかない。真実は、存在の数だけある。理解しようと努めることだね。それがあたしの教えてやれる唯一のことさ。……さあ、お行き。これ以上あたしが教えてやれることは何もないんだからね。時が来ればまた、此処を訪れることもあろうよ」
「ば、婆ちゃん、時が来ればって? 俺は、一体何を――」
「それさえも、あたしが教えてやることではない」
 不意に、魔女がライヒアルトを突き飛ばす。枯れ枝のように細い腕からは想像もできない強い力に、彼はよろめく。魔女は再び彼に背を向けた。
「あたしは、待っていたんだよ。誰かが、この世界に疑問を抱くその日をね」
 



 陽は既に沈みかけていた。
 昼と夜の境界、まるで夢のようにおぼろげな空気は、魔女の家の中のそれにも似ていた。穴倉に帰る道すがら、森を歩きながらライヒアルトは魔女の言葉を反芻する。変革の芽。物語のはじまりと、終わり。――俺はただ、はじまりが知りたかっただけだ。物語だってそうだ、途中から読んだところで、訳が分からない。すっきりさせたかっただけなのだ。はじまりを知って、そのまま読み進めていく事が出来れば――
 ――読み進めて、そしてどうするつもりなのだろう。はたと、そんなことに思い当たり、思わず足を止めた。不意に、蝙蝠がばさばさと横切る。ライヒアルトはぞくりとした。まるで、魔女に監視されているように思えた。
あんたの心は、何を告げる?
 魔女の声が、脳裏を過ぎる。俺はただ、知りたかった。何も知らないままで、滅ぶのは嫌だった。
あんたの望む世界は、何だ?
 平和な方がいいに決まってる。戦いなんてなくて、森の外にも安心して行ける世界。どうして俺達は憎みあってるんだろう。それさえ分かればきっと、戦いを終えることだって――
 ふっ、とライヒアルトの世界からすべての音が消えうせた。頭の芯だけがしんと冴えわたる。――今、俺は、何を。
 はじまりを知ること。終りへ向けて、頁を捲ること。平和に生きたいと言う願い。戦いを終わらせるという、こと。
 心の声の他に、響くものは何も無い。青年の碧眼はただ夕陽を宿す。まるで炎が宿ったように、鮮やかな光。
 ライヒアルトは、己が感覚を確かめるように拳を握る。冴えた世界に、ただ意思だけが踊る。
 俺は知りたい。そのはじまりと、出来るなら、打破する方法を。
 ああ、そうだ。俺の望む世界は、きっとたったひとつなんだ。

 俺がちびたちに残したい未来は――こんな世界じゃない。