「えっと……ただいま」
 家に戻ると案の定、冷たい視線に出迎えられた。村には行くなという養父の言い付けを破ったのだ、無理もない。ライヒアルトは恐る恐る食卓に進んだ。ほっとしたような表情のリカルダがちらりと様子を窺ってくるものの、口を挟んでくる様子はない。食卓についている養母に促され、ライヒアルトは養父の対面に座った。
「――ライヒアルト、村に行ったのだな」
 養父の鋭い眼光。ライヒアルトはおずおずと頷いた。養母リリーは穏やかに微笑んだまま、何も語らない。ロルフが、深く嘆息した。
「まったく、おまえは昔から言い出したら聞かないが……子どもたちが真似をしたら、どうする」
「ごめん、じいちゃん。でも俺、魔女婆ちゃんにどうしても訊きたいことがあったんだ」
「大樹の魔女にか」
 養父ロルフに怜悧な蒼い瞳で見据えられ、ライヒアルトは僅かに気圧されたように口篭り、頷いた。
 魔女の家から帰る道すがら、ずっと考えていた。知らない事が、たくさんあった。それを見つけ、戦争のはじまりを知りたい。そして、それは――此処にいては、成し得ない。
「じいちゃん。俺は、此処を出たいと思ってる、んだ」
 瞬間、がらんっ、と、大きな音がした。はっとして音の方に視線を遣る。手にしていた大きな木のスプーンを取り落したまま拾うことすら忘れた様子で、リカルダが若草色の瞳を見開いていた。さあっと血の気が失われたちいさな顔。少女はただ、エプロンの裾をくしゃりと握ったまま、立ち尽くす。その黙っていても伝わってくる狼狽ぶりに、ライヒアルトは戸惑って口を噤んだ。
「……っ、アルト、くん、何、言ってるの? また、ばかなこと」
しばらく硬直していた少女が、ぎこちなくそう訊ねてくる。無理矢理つくった笑みのかたち。ライヒアルトは戸惑い、顔を伏せる。
「ごめん、俺も急だと思ってる。けど、俺……知りたいんだ。もっと色んなこと。……だけど、此処にいたらそれも出来ない」
「どうし、て? ここが嫌なの? 大ばば様の本だけじゃ、不満?」
「そうじゃなくって、……俺も今の生活は好きだ。だけど、この間のことがあって、俺、このままこうして暮らしていてもいつまた襲撃されたりするか分からないってことが、嫌なんだ。原因を知りたい。そしたら、もしかして戦いをやめさせることだって……」
「戦争を終わらせたい、って、いうの? そん、なの、出来るわけないじゃない。アルトくん、ひとりじゃ、何にも出来ないじゃない。そんな大それたこと、出来るわけないわ。……無理だよ。無理だわ」
 リカルダは、震えて途切れ途切れになる声で言い募った。決して行かせまいとする、縋るような声。ライヒアルトはかぶりを振った。
「確かに俺が戦いを終わらせられるとは思わないよ。だけど、はじまりも終わりも、世界のことさえ知らないで、怯えて生き続けて、嫌だって思い続けるのは――嫌だよ」
「っ、でも! 知ってどうするの? 知ったから、何が出来るの?」
「分からない、けど。このまま生きていって、それこそどうなるの?」
 ライヒアルトの言葉に、少女はきゅっとくちびるを噛む。
「やるだけ、やってみたいんだ。オトナの仕事は、未来への足掛かりを作ることだからね。……これ、じいちゃんの受け売りだけど」
 ライヒアルトは、ちらりと養父に視線を遣る。養父と養母の表情は硬かった。しかし、ただ息子の言葉を聴いている。リカルダはなおも首をふるふると振り、言い募った。
「未来への足掛かりなんて、ばか言わないで! アルトくんが行く必要ないじゃない。そんなの、強い人に任せておけばいいの……っ」
「皆きっと、そうやって動き出さなかった。きっと、だから戦争は続いたんだよ。俺は、こんな世界、ちびたちの未来に残したくない」
 ライヒアルトの諭すようなゆっくりとした声。リカルダはくちびるを噛む。そして、ふいっと視線を逸らした。
「――、もう知らないッ!」
「リカ!」
 少女はぱたぱたと食卓を横切り、奥の部屋へ消えてしまった。彼女の背に伸ばした手が、彷徨う。ちらり、養父母に視線を遣ると、養母リリーが立ち上がり、ふわりと微笑んだ。
「ライヒアルト、リカルダのところへは私が行きますよ。おじいちゃんと、よくお話をなさい」
 おずおずと、彷徨っていた手を下ろす。そして、頷いた。きっと、自分が何を言っても聞いてはくれない。けれど、養母なら。
「ばあちゃん、ごめん。お願い」
 養母はまた、ふわりと笑う。そして、少女の消えた先へ続いた。
 ふたり、残された食卓。養父と向き合ったライヒアルトは、机の上で組まれた養父の手元に視線を落とした。表情を見るのが、怖い。
「じいちゃん、ごめん。本当は俺が家を護らないといけないのに」
「戦い慣れてさえいないひよっこが何を言う」
 養父は笑った。予想外の反応に、ライヒアルトは顔を上げる。養父のその怜悧な蒼い眼は、優しく細められていた。
「わしは、止める気はないさ。……ディートマルと同じ事を言うようになったな。あの子も、此処ではない遠くを見ていた」
 養父はふっと目を伏せた。かつて此処を出て行った穴倉の兄貴分の名前に、ライヒアルトは僅かに目を見開く。そうだ、確か彼が出て行ったのも、今の自分と同じくらいの歳だったっけ。
「……村の護りは、大樹の魔女に任せておけばいい。だがな、おまえの考えは、昨日今日に沸き起こったものだろう。それがこれからも揺らがないと、おまえは確かに胸を張って言えるのか」
 養父の言葉に、ライヒアルトは口を噤んだ。養父は続ける。
「夢を抱くだけならば誰にでも出来る。だが、お前が乗り出そうとしている大海は、恐らくお前の思っている以上に過酷なものだ。その旅路は、おまえの人生そのものなのだよ。生半可な覚悟では、人生という旅路で道を見失うだけだ。……此処を出るということは、今まで存在していた全てを切り捨ててゆくということだ。人生という名の航海に、わしやリリーという舵取り人がいつまでも居ると思うな。分かっているとは思うが」
 ライヒアルトは頷いた。養父母も、歳を重ねている。いずれ今のように身軽に動く事も出来なくなるだろう。
養父はふと、その怜悧な蒼い瞳でライヒアルトの碧い瞳を覗き込んだ。その瞳の奥の意思を試すような、鋭い眼光。ライヒアルトは思わず背筋を正す。
「しかし、暗雲の中に光を見出す為の羅針盤を、我々はいつでも持っている。――それが、信念≠セ」
「信、念?」
 鸚鵡返しに訊ねる。養父ロルフは、ふっと笑ってみせた。
「例え荒ぶる大海で進路を見失おうとも、おまえがその心に抱く光を忘れなければ、道は自ずと拓けよう。だからこそ、おまえは――意志を、信念を、持たねばならん。本当に、その夢を抱き、此処を出る覚悟があるのならば」
 口籠ったまま、その言葉を反芻する。信念。意志。本当に自分の望む道。森の中で、確かに自分の心に響いた確かな意志。今も、響いている。ライヒアルトはそっと胸元に手を当てた。今まで思い描いたことさえ無かった、途方もない意志が脈動する。その意志を、日常の中に殺してしまいたくなかった。
「……この思いが、嘘じゃないって、真実だって言い切れる自信はないんだ。明日になったら消えてしまうんじゃないかって、怖い。こうやって、意志を語るのだって、本当は怖いよ。だけど……」
 ライヒアルトは、養父の蒼い眼を見つめ返した。彼の瞳に浮かぶ、真剣ないろ。自分はそれに、応えなくてはいけないのだ。
「それでも、はじまりを知ったら、きっと俺は終わりを見届けたくなる。そして、はじまりを知りたいっていう思いは、きっと消えないんだ。そう、思ってしまったから。だから、俺――行くよ」
 養父は暫く、口を噤んだままライヒアルトの瞳を見据えていた。そして、ふっと笑う。やわらかに細められた目元に、皺が寄る。
「興味を持ったら、触れずにいられない。こうと決めたら、動かずにはいられない。おまえの、悪い癖だな」
 ライヒアルトは、ごめん、と俯いた。
「謝る必要はないさ。わしは、おまえが意志を持ったことを喜ばしく思っている。例えその意志が、若き情熱に導かれたものだとしてもな。……願わくば、それがおまえを導き続けることを願う」
「若い情熱って、なんか俺、思い付きで行動するみたいじゃない」
「違うと言えるか?」
 からかうように笑みを浮かべる養父に、ライヒアルトは口籠る。確かに相違はない。先程去来したばかりの想いに、これほど突き動かされるとは思わなかった。だが、その想いは確かにここにある。
「その情熱を、わしは好ましく思う。わしは、疑問を抱き、それを追うには、歳をとりすぎてしまったからな。その無謀ともとれる情熱が、えてして時代を動かす鍵となる」
「時代を動かす、鍵かあ……」
 そんなに大それたことは出来ないけど、とライヒアルトは視線を落とした。ただ知りたいだけだ。そしてその先に見出すものがあるなら、その為にきっと動いてみようとするだろう。
「……俺が動いたことで、次に動こうとしている誰かの足掛かりになれたら、それはそれでいいかなと思う。俺が全部、やる必要はないんだ、きっと。……俺は、ひとりじゃ何も出来ないらしいから」
 ちらりと、少女の消えた部屋の奥に視線を遣る。養父は笑った。
「ああ、それでいい。ひとりで何もかも負おうと思うな。もし出来るなら、仲間を見つけろ。誰かと共にあることは、おまえの心の灯(ともしび)を絶やさぬための風除けにもなろう。灯は、か弱いものだ。ひとりきりでは、護れないこともある」
 心の灯。きっとそれは、燃え上がったこの意志のことだろう。ライヒアルトは頷いた。
「決意が、意志が、覚悟が、いつもおまえを導いている。……常にお前自身の行くべき道を、お前の信念を問い続けるのだ。その果てにお前が辿り着く場所が、お前の望んだものであることを願おう。……行っておいで、ライヒアルト」
 養父は、穏やかに目を細めた。誇らしさと、寂しさ。その瞳に、どれだけの想いを宿しているのだろう。ライヒアルトには、分からなかった。本当の子どもでない自分を、息子と呼んでくれる父。分け隔てなく、本当の父親のように接してくれた。慕っている。父も、自分を愛していてくれたのだろうか。そのやわらかな目元に皺とともに刻まれた笑みに、ふと、愛情と、積み重ねてきた時間を感じた。共に過ごした十五年。いとしい日々。それを、手放そうと決めた。
 不意に寂しさを感じる。それでも父は、笑った。
「――そして、無事に戻って来るんだ」
 応えたいという想いは、旅の目的にはなるだろうか?
 ライヒアルトは、頷いた。ゆっくりと、確かに。