隣の部屋の喧噪が妙に遠い。
 養父母の部屋に駆け込んだ少女は、腰掛けた椅子に背をもたせ掛け、僅かに顔を伏せる。長い白金の髪が、さらりと流れた。
 ――あの人の読書好きはきっと、おじいちゃんに似たんだろう。古い書物がぎっしり詰まったこの部屋。子供の頃の俺には宝石箱みたいに見えたんだ、と彼はいつもの人懐っこい笑みで語っていた。本当に、本を読むのが好きだった。朝も、昼も、夜も、暇さえあれば、いつだって。
 リカルダは深いため息をついた。小刻みに震えるてのひらを、きゅっと握る。幼なじみの真摯な声が、耳にこびりついて離れない。ため息をついても、胸にまとわりつく不安がちっとも吐き出せない。いつもどこか抜けている彼の、気の抜けた笑みが思い浮かぶ。
 気のせいだと思いたかった。彼の心に浮かび上がったものも、すべてただの思い付きだとはねつけてしまいたかった。けれど、あの真摯な瞳が邪魔をする。あの碧眼に真摯ないろが浮かんだその時、彼はそれを絶対に成し遂げようとする。ただの一度だって――止められなかった。震える手元に視線を落とす。
「入りますよ。リカルダ」
 不意に聞こえた養母リリーの声に、少女ははっとして顔を上げた。ぴんと背筋を伸ばした、美しい人。老いてもなお力を失わない藤色の瞳が、やさしくこちらを見つめていた。
「……、おばあ、ちゃん」
「あなたが取り乱すなんて珍しい。……ライヒアルトが旅に出ること、許せない?」
「許せない、とかじゃなくって……無理だよ。アルトくん、頼りないもん。ひとりで旅に出たら、もしかして、死ん……」
 喉がひくつき、言葉を呑み込んだ。あの笑顔が消える日が来る。それも、自分の知らないところで、誰にも知られないまま。そんなのは、嫌だった。記憶に新しい襲撃の日が、その不安に色濃く影を落とす。考えたくも、ないのに。ふるふると首を振る。
「……アルトくん、ばかだわ。自分の力、なんにもわかってない。無理だわ。今はわたしがいるからいいけど、ひとりで旅に出たら、怪我をしても治してくれる人もいないんだよ」
「ふふ、そうね、ライヒアルトはあなたがいつもお世話してあげていたものね。心配にもなるわね」養母リリーはふわりと微笑み、リカルダの隣に椅子を引き寄せ腰掛けた。「まるで、あなたもついて行きなさいと言われたいようだわ」
「え……?」
 予想もしなかった言葉に、リカルダはきょとんと目を瞬かせた。
「一人で行かせられない、わたしがいなきゃダメ。そう、言っているじゃない、リカルダ。……それとも、ライヒアルトの考えはばかばかしいって思ってる?」
 リカルダは視線と落とした。そういう訳じゃない。平和な、争いのない世界を望む彼の気持ちは分かる。まして、先日あんなことがあったばかりだ。それでも、それが出来るのかという話は別問題だ。彼に限らず、人間族の誰にだって、戦争を終わらせるなんてできはしない。所詮、同じ舞台に立てるもの同士の戦いではなかったのだ。機嫌を損ねないように生きていくしかない。ただ、この日常が護れるだけでいいのに。それなのに、てのひらからこぼれ落ちていく。
「……アルトくんに、できると思う?」
「それは彼次第ね。やる前から諦めたくないと、彼は言うでしょう」
「おばあちゃんは……心配じゃないの? だって、外の世界は」
「私達が何人の子を世界に送り出したと思っているの?」
 ふわり笑う養母。リカルダは口を噤む。こんな葛藤を、きっと何度も繰り返してきたのだろう。それでも。
「アルトくん……、すぐ、ひとに騙されちゃいそうだわ。なくしものしたり、忘れ物したり、道に迷って、ぼーっとしてるうちに魔物に襲われて、お金の管理もきっとできないし、すぐ怪我するわ」リカルダはその小さな顔を両手で覆った。「ディートお兄ちゃんとは、違う。アルトくんを、ひとりでなんて行かせられない……」
「彼を止めるのも、快く送り出すのも、――あなたがその手で護るという選択をするのも、私は止めはしませんよ」
 リカルダははっとして顔を上げた。養母はただ、微笑んでいる。少女の意思を試すように、からかうようないろをその瞳に浮かべて。
「わたしが、護る……?」
「そういう選択肢もある、ということよ。ここからを決めるのは、あなた。私じゃない。……よくお考えなさい。きっと彼の心にともった灯は、彼を導くでしょう。旅立った子たちもみんな、己が心の灯に導かれて行ったわ。その旅路を、私には止められない」
 リリーは、思いを馳せるようにそっと目を伏せた。
「子どもというのはね、リカルダ。ある時ふっと、大人になるの。まるで、種から芽が出るように。どんなに子どもだと思っていても、ね。……ライヒアルトも、いつの間にか大きくなっていたのね」
「だめだよ、全然、頼りないわ……」
「そうかしら。村では立派に働いているわ」
「だけど……!」
 言いかけて、口を噤んだ。これじゃあまるで、駄々っ子だ。彼を行かせたくないだけだ。日常が壊れるのも、彼が危険な目に遭うのも、何かが変わっていくのは嫌だった。怖い。すべてが、崩れていくおとがする。わたしは、どうしたらいいのだろう。視線を落とす。
「わたし、怖い。どうしたらいいの? どうして、みんな変わっていこうとするの? わたし、このままがいいのに……」
「それが、大人になっていくということなの。誰も、変わらないままではいられないわ」
「そんなの、やだ……」
 声が震える。鼓動が痛い。変わりゆく不安に、胸が苦しくなる。これは、きっと我侭だ。わたしは、変わりたくないだけ――
「リカルダ。心の声に、よく耳を澄ませてごらんなさい。いつだって、あなたの心が進むべき道を教えてくれる」
「おばあちゃん……」
 震える視線に応えるように、養母は軽く片目をつぶってみせた。
「あなたの歩いていく道は、あなたの描く人生そのものよ。ライヒアルトの道も、そう。変わりゆくものを止められないのならば、その時あなたはどうするのか、よく考えてごらんなさい。後悔を、してしまわないように――」
 養母リリーは、困ったような顔で黙り込んだ娘の頭を撫でる。そして、そのかたちのいい藤色の目を細めて、笑った。
 そろりと俯き、少女はただきゅっと裾を握りしめた。




「よいしょ、と」
 小さくまとめた荷物を軒先のベンチにおろし、ライヒアルトは額の汗を拭った。身の丈に合わせて誂えてもらった革鎧は、まだ身に馴染まない。外套の役目も果たすマントも身に纏ったライヒアルトは、顔を上げた。朝を迎えた森の中、昇りかけの陽。小鳥の声に、雨のにおいを含む澄んだ朝の空気。旅立ちを見送る家族たち。いつもの深い菖蒲色のローブを纏った養父ロルフと、珍しく杖をつく養母リリー、そしてそわそわとした様子のちいさな兄弟分がふたり。その中に、幼馴染の少女リカルダの姿は無かった。
 ライヒアルトはふっと笑う。あの日から、彼女とはまともに話をすることが出来なかった。ライヒアルトを見る度、彼女は辛そうな顔で彼を避けた。一度だけ、ふたりきりで言葉を交わしただけだ。
「……アルトくん、本当に行くの?」
 彼女は感情を掴みかねる曖昧な表情で、そう訊ねてきた。
「……心配してくれて、ありがとう。俺、行くよ。君にも、見送って欲しいんだけど」
 頬を掻いて、そう微笑みかけた。彼女はふと視線を逸らし、口を噤む。白いワンピースの裾をきゅっと握りしめた手元が震えていた。それでも彼女は、顔を上げて微笑んだ。無理矢理浮かべたような、ぎこちない笑み。
「……ちゃんと、準備しなくちゃダメだよ。……アルトくん、忘れっぽいんだから」
 その時の寂しげな笑みと、どこか肩の荷が下りたようにすとんと落ちた肩が、忘れられない。彼女は自分の旅立ちを認めてくれたのだろうか。結局それ以降も彼女は忙しそうにしていて、あまり話す時間を持てなかった。それが少し、寂しい。
「ばあちゃん、リカは?」
「さあ……もう少しで来るとは思うのだけれど」
 養母リリーはちらりと視線を穴倉に寄せた。そっか、と答えたライヒアルトは、僅かに諦めたように微笑んだ。きっと彼女は来ないのかもしれない。昔から、うまく見送れない子だった。兄貴分のディートマルが出て行った時も、散々嫌がったあと、彼が背を向けるまで穴倉から出てこなかった。背を向けた瞬間に飛び出して泣き喚いたあのちいさな姿を、今でも覚えている。ふっと、笑う。
「――さ、ちびたち。俺は行くからね。じいちゃんやばあちゃん、あと……姉ちゃんのお手伝いを、ちゃんとすること。いいね?」
「にいちゃん結構やってなかったじゃん」
「う。あれ、悪い例だからさ。真似しないように」
「おにいちゃんずるーい!」
 子どもたちが口を尖らせるのを笑って制する。ここは流すに限る。
 穏やかな空気だった。ここから出て行くのは、やはり寂しい。出来るなら本当に、ここで穏やかに生きていけたらいいのに。けれど、知ることを望んでしまった今、ここで外の世界に想いを馳せるのはあまりにも辛い。あの時行っていれば、だなんて思いたくなかった。
「ライヒアルト、外では不要な戦いは避け、鍛錬を怠るな。他人に敬意を払い、常に謙虚でいなさい。それがおまえの身を守るだろう。目の前のことをよく見、常に考えるのだ。逃げることを躊躇うな。――よいな?」
 見送る父の最後の教えに、ライヒアルトは頷く。
「じいちゃんとばあちゃんは、体に気をつけて。で、リカは……」現れない姿に、顔を伏せる。「……無理しすぎないで、ちゃんと休んで、自分の好きなことする時間作って、……って、伝えてもらっていいかな」
 両親は互いにちらりと目配せする。そしてリリーが頷くと、ライヒアルトはふっと笑った。
「それじゃ、俺、行くよ」
 ライヒアルトは荷物袋を肩に掛けた。そして、踵を返して――
「――アルトくん、待って!」
 はっとして、振り向く。この声は。開かれた玄関の観音扉。ぎぃ、と音を立てるその扉から現れたのは――旅装束の、リカルダの姿。ライヒアルトは、目を見開く。何が、どうなって。
「アルトくん地図も方位磁石も食器もお手拭きも持っていかなきゃ! それに、保存食だって無いでしょ。それに」
 矢継ぎ早にまくし立てる彼女に、ライヒアルトはたじろぐ。
「ちょ、ちょっと、リカ、待って、待って!」ライヒアルトは両手を上げ、荷物袋を突き出してくる彼女を制した。「ま、まずその格好はどういうこと?」
 少女は、う、と口篭り、顔を背けた。
「だだ、だって、アルトくん、ぜったい、わたしが護ってあげなきゃ、だ、だめ、だし……」
 聞き辛い声でぼそぼそと呟くリカルダに、リリーの笑い声が上がった。ライヒアルトとリカルダが、同時に振り向く。
「素直に言ってあげたらいいじゃありませんか。リカルダ、あなた心配で心配で何日もどうしたらいいか悩んだ挙句、何日も前からずっと、ずーっと、村で教えてもらいながら保存食作ってあげたり、地図調達したり、それに」
「や、あ、わ、ぅ、お、おばあちゃ、や、ちが……っ!!」
 ぶわっと少女の顔が耳まで林檎のように染まった。養母にひとしきり抗議した後、はっとしてライヒアルトに視線を戻す。
「……へえー」目を丸くしていたライヒアルトは、からかうように目を細めた。「ありがと、リカ?」
「ちちちちちがっ、ちが、違うもん、これっ、これはっ……あの、だから、ちがっ」
 まるで意味を成さない言葉を、しどろもどろに繋ぎ合わせるそばからぼろぼろと取りこぼす。そうなのだ。彼女は、この優しい幼なじみは、素直じゃない。目を潤ませていやいやをするように首を横に振り続ける少女に、ライヒアルトは笑ったが、すぐ真顔になる。
「……ねえ、待って、もしかしてリカも一緒に行くってこと? 危ないよ、何があるかわからないんだよ」
 戸惑いを隠せない様子で諭すライヒアルトに、少女は食い下がる。
「わたし、アルトくんを一人でお外に出す方が心配だわ!」
 呻く。どうしたらいいか分からない。彼は助けを求めるように視線を彷徨わせた。養父母も子どもたちも、肩を竦めるばかり。
「ねぇ、ちびちゃん、お兄ちゃんだけじゃ心配でしょ?」
 間髪入れずに返すイェルンとマルテが「うん」「しんぱい」と口々に返した。ライヒアルトがぎくりと表情を引き攣らせる。
「ほら! ちびちゃんたちにまで心配されてるんだから、アルトくんてば。わたしが護ってあげなきゃだめなんだから」
 ライヒアルトは「え、えー……」と情けない声を上げた。落ちた肩が更に落ちそうになる。養母リリーが笑った。
「リカルダの治療魔法は一級品よ。安心ね」
 でも、と言い募るライヒアルト。リカルダは、そっと顔を背けた。
「……アルトくんが、護ってくれるわ。そうでしょ?」
 顔を背けたまま、リカルダはちいさな声で言う。ライヒアルトは、軽く目を見開いた。戸惑うように頬を掻く。
 さわさわと、梢に風がわたる。返らない答えを恐れるように、少女がおずおずと顔を上げた。青年が、ふっと力が抜けたように笑う。
「……わかった。何があっても、俺がリカのこと護るから。……絶対に。――だから、リカも俺を護って。ね」
 少女はほっとしたように目を細めた。そして、僅かに俯く。
「……ごめんね。無茶、言って」
「ううん。……俺こそ、心配かけてごめん。それに、これ」
 ライヒアルトは彼女が突き出していた荷物袋を受け取り、中を開いてみる。堅焼きビスケットや燻製肉などの保存食が詰まっている。
「手間、かかったでしょ」
「ううん、村の人に手伝ってもらったから。……おばあちゃんも手伝ってくれたし」
 もじもじと、リカルダ。ライヒアルトは両親に顔を向けた。
「知ってたの? リカが、俺についてくるって」
「ずうっと、その相談を受けていましたもの。ね?」
 リリーがふふっと笑う。ライヒアルトは思わず頭の後ろを掻いた。
「この間話した時にはもう決めてたの?」
「……うん。アルトくんが行くのやめちゃえばいいのにって、思ってたけど」リカルダはもじもじと俯いた。そしてやおら顔を上げる。「……みんな、ごめんなさい。わがまま言って」
 ロルフは気にするなという風に笑い、リリーは口元に手を当てやわらかに笑う。
「――お行きなさい。あなたの心の灯が示す方へ。……私達は、あなたの胸に宿る灯火の行方を、いつでも見守っていますよ」
 母は目を細めて少女に歩み寄り、手にしていた杖を差し出す。
「……リカルダ、私が昔使っていた杖をあげましょう。心許ないだろうけど、あなたの最初の良きパートナーになってくれるはずよ」
「い、いいの? これ、おばあちゃんの大切な杖なんでしょ?」
 リカルダは差し出されたそれには手を伸ばさず、目を丸くして養母リリーの顔を見上げた。養母は笑ってかぶりを振る。
「おばあちゃんはね、こんなものに頼らなくてもじゅうぶん魔法を使えるんだから」そして、片目を瞑ってみせた。「リカルダ。あなたは魔法の勉強も一生懸命したわね。優れた魔法使いになれるわ。ライヒアルトを護ってあげてね。そしてふたりとも、無理だけはしてはだめ。魔法を使う者にとって、無理は禁物よ。……ほら」
 今一度、母は微笑み杖を差し出す。少女の身の丈ほどもあろうかという、ごつごつとした木の杖。リカルダは暫く杖と養母に交互に目線を彷徨わせていたが、やがておずおずとそのほっそりした手を差し出し杖を受け取った。養母の手が、僅かに触れる。不意に、少女は顔を背ける。何かこみ上げるものがあったのか、声が震える。
「……おばあちゃん、わたし」
「ふふ、泣かないの」俯く娘の頬を、両手でそっと包み込む。少女の涙にゆれる若草色の瞳を覗き込み、リリーは微笑んだ。「……行ってらっしゃい、私の可愛い娘。……元気で、無事に帰っておいで」
 うん、うん、と何度も頷くリカルダ。リリーは手を離し、彼女の頭をそっと撫でた。そして、傍らのライヒアルトに向き直る。
「ライヒアルト、リカルダをちゃあんと護ってあげるのよ。……いつまでも助けられていてはダメ」
「うん、分かってる。任せて」
 ライヒアルトは力強く頷いた。しっかりしなくちゃ、だめだ。彼女は自分の為に、穏やかな生活を捨ててついてきてくれる。そんな彼女を、危険な目に遭わせるわけにはいかない。
リリーは満足そうに微笑んだ。そして一歩下がり、ロルフの隣へ。
「さあ、行ってらっしゃい。私の可愛い子供達。体に気を付けてね」
「たまには顔を見せに来い。無理はするなよ」
 ライヒアルトは頷き、踵を返した。肩越しに振り返る。
 幼い頃に引き取られ、ずっと育った森の奥の《魔法使いの穴倉》。寡黙な父と、優しい母。手を振る弟分と妹分。誰ひとり、血のつながらない家族たち。それでも、幸せだった。引き取られてから十五年、ずっと、片時も不幸だと感じた事はなかった。その優しい日々との別れが寂しいと言えば嘘になる。それでも絶えず身の内から響き自分を導く心の声から、耳を背ける事はしたくなかった。そして、そんな自分を護る為に共に旅立とうとする少女が、今隣にいる。
 ライヒアルトは一瞬、思い出を懐かしむように目を細めた。そして、片手を上げて、愛しい家族達に手を振る。
「ありがとう、じいちゃん、ばあちゃん、それに、ちびたち」
 傍らの少女も、そのほっそりとした手を上げた。見送る家族も、それに応える。風のわたる梢に、踊る木漏れ日。うららかな春の日、まだ昇りきらない陽。
 それはまるで、これから続く旅路を祝福するかのように。
「――行ってきます!」

 ふっと仰いだ、天の先。ゆれる木々の間には、抜けるような青空が広がっていた。