ひらけた空の碧さに、思わず目を細めた。
 やわらかに連なる雲がふわり、空の碧さと鮮やかなコントラストを描く。快晴だった。眼前に広がる草原にはまだ青さが足りない。初春のこの頃、緑が深まるにはまだ早い。それでも、爽やかな空気が心地よかった。天気は申し分ない。天気は。
リカルダの隣を歩くライヒアルトが、腕を天に伸ばし深呼吸する。
「絶好の旅立ち日和、だねー」
「なにそれ……」
 思わず半眼を寄越すと、彼は困ったように、ぽり、と頬を掻く。
「リカ、元気ないね。どうしたの?」
「どうしたのじゃなくてどうしたらいいのかわからないのっ!」
 少女はその若草色の瞳を釣り上げ、そうぼやいた。そしてため息。
「あのねえ……旅立ったはいいけど、これからどうするの? アテもないんでしょ?」
「んー、そうなんだよねえ」
 のんびりとした口調でライヒアルトは首を傾げた。リカルダはがくりと肩を落とす。いつの間にか大人になった、なんて大嘘だ。結局何も考えてないじゃない。わたしがついてこなかったら、この人どうするつもりだったんだろう。
 少女の胸中と裏腹に、彼はにこやかにぱちりと手を打ち合わせた。
「そうそう、とりあえず帝都に行こうよ。一番近いし、人も多い。情報を集めるなら人の多いところに越したことはないよ。ね?」
「それ、今思い付いたの?」
「ううん、一応考えてはいたんだ。けど、帝都に行ったところでどうしようかなーって思ってさ。……どうしよ?」
「わ……わたしあんまり帝都行ったことないもん。わかんないよ」
 リカルダは思わずこめかみを抑えた。彼がどれだけ事態を重要視しているかは分からないが、とりあえず大変にこやかで楽しそうだ。何よりである。けれど頭が痛い。これからどうしたらいいんだろう。
「……そういえばアルトくん、黒蝶姫の話って大戦初期の話なんでしょ? あれ、何か手掛かりにならないかなぁ」
 ふと、思い付いた事を問うと、彼は小首を傾げた。ふむ、と頷く。
「そうだね。竜との戦い、描いてたし」
「わたし、怖かったからあんまり覚えてないんだよねぇ」
 小さな頃に、村に訪れた吟遊詩人の話。その中に、黒蝶姫の話があったと思う。ちいさなリカルダにはその話がとても恐ろしく感じられて、必死に耳を塞いでいたのだ。しかし、案の定竜の出てくる話の大好きだったライヒアルトは、それを養母に文章に起こしてもらってまで本にしていた記憶がある。よくやるものである。
「そういえば俺も、ばあちゃんの絵本の記憶しかないからなあ。じゃ、帝都に行ったら本屋に寄ろう。探してみよう?」
 ライヒアルトはにこりと微笑んだ。リカルダも頷く。
「大体、どういうお話だったっけ」
「黄金竜と、人間の英雄の話だよ。人間で一番強かった黒蝶姫≠チていう女の人が、人間の希望を背負って黄金竜の前に立ったんだ」
「……その人は、どうなったの?」
 思わず訊ねたリカルダに、ライヒアルトは曖昧な笑みを浮かべた。困ったように頬を掻き、ふっと目を逸らす。
「――負けたよ。黄金竜の、勝ち」
 リカルダは思わず口を噤む。
その物語が真実なのか、彼女には分からない。それでも、大戦の結果はとっくの昔に見えていたのかもしれない。今更足掻いて、何が変わるというのだろう。人間は、竜族に勝つことは出来ない。
 その揺るぎない事実が、ふと、重く感じた。




 ヴィッセン帝國の都レーベに辿り着く頃、すっかり陽は高く昇っていた。慣れ親しんだメーディス村と違い、石畳で舗装された路地を踏みながら、リカルダは辺りを見回した。白壁に茶や赤の落ち着いた色合いの家並みが続き、広場へと続く大通りには軒先で揺れる商店の吊り看板が目立つ。森の中で育ったリカルダにとって、都の喧騒にはどうにも慣れない。人波をすり抜け、客引きを軽くいなす幼馴染の青年が、偉大な存在に見える。たぶん錯覚だろう。自分は不慣れなだけだ、などと考えつつ、彼女は先をゆく彼に声を上げた。
「ま、待って、アルトくんっ! ……ひ、人、多いね」
「あはは、さすが帝都だよねぇ。はぐれないようにね」
 ライヒアルトは肩越しに振り返り、笑った。
 ――ヴィッセン帝国は、北方の覇者として大陸で最大の勢威を誇る武勇の国である。帝都レーベは、その皇帝の構える城の城下として栄えた都だった。――というのも、過去の話である。十数年程前に魔物の襲撃を受けて、貴族の住まう第一区画と騎士達の住まう第二区画は壊滅し、国としての機能を失った。皇帝はじめ貴族も城も滅び去り、ただ一般市民の住まう第三区画以下だけが残った。それ以後、主無き帝國は残された民たちの手によりかろうじて存続している、というのが帝都レーベの現状である。
 しかし、滅びたとはいえども民たちは生きている。一時は影を潜めたように静まり返る都市だったとは言うが、襲撃の日から十数年経った今、その賑わいは大都市と呼ぶに相応しい。
「アルトくん、こんなところよく歩けるね」
 リカルダはきょときょとと辺りを見回す。人が多すぎてうまく歩けない。幼馴染は、あはは、と明るく笑い声を上げて片目をつぶる。
「俺、意外と頻繁に来てるからねー。本屋目当てに、ね」
「そっか、アルトくん何度も来てるから慣れてるんだ。わたしが来たの、ほんのちいさい頃だからなぁ……」
 幼馴染のライヒアルトは、村の雑貨店での勤めで収入を得ては時折帝都に訪れ、本屋に行っていた。それを考えれば外に出る事に抵抗があまりないのも頷ける。穴倉の外に出ることに不安が付きまとっていたリカルダとは裏腹に、ライヒアルトの足取りは軽い。頼もしい、ともいえるかもしれない。
「これから本屋さんに行くんでしょ。いつもと同じ、ってことだね」
 くす、と口許に手を当てて笑うと、ライヒアルトも笑う。
「そういうことになるねー。あんまり旅立った気、しないや」
「もお。目的、忘れないようにね? ちびちゃんに笑われちゃうわ」
「あはは。緊張してないくらいがちょうどいいよ。ね?」
 にこりと、いつもの笑み。ふっと肩の力が抜ける。肩肘張ってしまった時も、いつもその緊張を抜き取ってしまう不思議な笑み。
 つられて微笑み、そうだね、と返した。
 



「すいませーん」
 からん、からんと鳴るベルの音。ひっそりと裏路地に佇む扉を開けたその先、古書店月石の冠≠ヘさほど広くない。その店内を埋め尽くすように、背の高い本棚が立ち並ぶ。まだ日中にも関わらず黄昏の薄闇を切り取ったように暗い。そしてそこに佇む本棚の群れは、異次元にひとを誘うかのように不思議な存在感を持っていた。立地も相俟って、客足は無いようだった。気配はただひとつ、光差す窓辺に敷かれたラグの上で本の虫干しをしている中年の男がひとり。長いブラウンの髪を無造作にくくって垂らしたその男は、高く積まれた本の塔の隙間で、突然の訪問者の声にうろんげに顔を上げた。ライヒアルトの姿を認めると、口だけで笑ってみせる。
「おう、あんちゃん。デートにしちゃあ物々しい格好だな」
 デートという単語に、リカルダは眉を顰める。恋人同士にでも見えたのだろうか。だとしたら、とんだ勘違いだ。憮然とする少女をよそに、ライヒアルトは笑い、店主に軽く手を振ってみせる。
「あはは、この子は俺の家族だよ。幼馴染。会ったこと無いっけ」
 その言葉に、男は眉根を寄せて少女に視線を遣る。思わず佇まいを直しつつ、視線を彷徨わせた。注視されるのは苦手だった。視線を逸らしながら、思いを巡らせる。この店に来た事があっただろうか。ほんの小さな頃の帝都の記憶は、色とりどりの屋根と旗と店頭のきれいなお菓子たち。こんな薄暗がりが、記憶にあったろうか?
 ややあって、男は目を見開き、ぽん、と手を打った。
「おー! あの子か、何年ぶりだろうなあ。随分と大きく……」今一度目を細め、彼はリカルダを見る。そして横の青年へと視線を戻し、そしてもう一度、視線を少女へ。「大きく……?」
 男が言外に秘めた言葉がありありと感じられた。リカルダはさっとライヒアルトの方に視線を寄越す。大きくなっているはずだ。一体いつこの店主と会ったのか記憶に無いが、なっていない筈がない。それなのに。――縋るように向けた眼差しに、ライヒアルトが困惑した様子で目を逸らした。そして「なってる、大きくなってるよ」と軽く手を振って微笑む。まるで心がこもっていなかった。
「そ、それはともかくさ。俺、今探し物してるんだ。大戦に関する書籍とか、無い?」
「お、大戦か、そうだなあ……」
 店主が考え込む。その隙に、うまく話題を逸らすことが出来てほっとしている様子のライヒアルトを肘でつついてやった。なんとなく逸らしたって、わたしは誤魔化されないんだから。ライヒアルトの「ごめんって」という小さな謝罪に、ぷいっと顔を逸らした。
 その間にも、店主は悩むように首を傾げていた。うーん、と視線を店内に巡らせる。その視線は会計台の奥の壁に掛けられた一枚の絵に留まった。ライヒアルトとリカルダも、つられて視線を向ける。
 古びた真鍮の額に縁取られたその絵の印象は、ただひたすらに、黒――だった。描かれているのは女性らしかった。透けるような白い肌と、流れる長い黒髪。墨で塗り分けられたようなその色の中に、紅玉にも似た美しい紅の双眸が目をひく。闇の中から出でるようなその無彩色の女性は、しかし華があった。あでやかな、美しい人。
「これはもしかして――黒蝶姫?」
「ああ、そうらしいね。ちょっと前にさ、行商人が持ち込んだ美術品の中にあってな。珍しいんで買っちまったのさ。きれいだろう」
「そうだね。へえ、こんな人だったんだ。若いね」
 ライヒアルトは会計台に近付き、目を凝らす。店主は笑った。
「若くて美人で、おまけに強いとくりゃあ、出来過ぎてるよ。黒蝶姫なんて話、本当にあったのかどうかすら疑わしくなる」
「そういえば、黒蝶姫の話って本にはなってないんだっけ?」
「さあね。ここには無いよ。おじさんも子供の頃に親に聞いた話くらいしか知らなかったしな、御伽噺か何かかと思ってたくらいだよ」
「でも、英雄が負ける御伽噺なんて、そんなのある?」
「物語は数多い。そういう物語もあらぁね。……ただ、これだけ認知度が高い割に文献が何も残ってないって言うのも、妙な話だよ。その情報の少なさが逆に想像をかきたてるってのはあるけどな」
 ふうん、と返すライヒアルト。リカルダも身を乗り出し、その一枚の絵画を眺めた。絵画など、故郷の穴倉では見た事が無かった。まるでそこにいるかのようにしっとりとした質感を持って描かれた黒蝶姫の絵。思わず魅入られた。何という名の人なのだろう。その名さえ、残ってはいないのだろうか。――ふと、目を留める。
「エ……ヴァ?」
 思わず呟いたリカルダの声に、ライヒアルトと店主が振り向いた。
「アルトくん、これ、黒蝶姫の名前かなぁ。それとも、作者かしら」
 リカルダの指差した先、絵画の隅に記された小さなサインのような文字列に、ライヒアルトも目を凝らす。
「エヴァ、と、これは……数字のゼロかな。どういうことだろ」
 普通こういうのって作者のサインだと思うけど、と小さく呟くライヒアルトの背後で、がたりと立ち上がる気配。振り向けば、何か思案している様子で佇む店主の姿。
 彼はそのまま、会計台に歩み寄った。彼は脇の棚にぐしゃぐしゃに積み重ねられている書類を選り分け、やがて一枚の封筒を書類の山から引き抜いた。
 リカルダはふと、目を奪われる。淡い珊瑚色からほのかなミモザ色へと移るやわらかなグラデーション。時を経た様子でくすんでいたものの、まるで春を思わせる美しい色の封筒だった。そして、破られた跡のある花の紋様にも見える封蝋。
「エヴァ、か。大戦に、エヴァ。……偶然か? それとも」
「どうしたの、おじさん。それは?」
 ぶつぶつとどこか白昼夢の中にいるように呟く店主の手元を覗き込み、ライヒアルトが訊ねた。店主はふっと顔を上げ、曖昧に笑う。
「帝都の施政区が滅ぼされた後暫くして、王城跡の捜索が行われたんだ。これは、その時発見されたものらしいのさ。大した情報が載っているわけでもなし、と処分されそうなところを引き取ってきたのさ。きれいだったんで、ついな。……中を読んでみな」
 店主はそう言い、封筒をライヒアルトに差し出した。彼は、店主のその曖昧な笑みに暫し戸惑った様子で封筒を受け取り、中の書簡を取り出す。封筒と同じ、美しく染め上げられた紙。
「……エヴァ」
 ぽつり呟いたライヒアルト。え、とリカルダは訊き返す。
「――《エヴァ》の子供達の召集に応じられたし≠セってさ」
「一番面白いのが、だ。……日付をよく見てご覧」
 店主の言葉に、ライヒアルトは今一度書簡に目を通す。はっとしたように、彼のかたちの良い碧眼が見開かれた。リカルダは小首を傾げる。一体、日付に何があったというのだろう。
「リカ、これ、五十年前だ」書簡から目を離し、ライヒアルトが戸惑うように視線を向けてくる。眉を顰めるリカルダに、彼は書簡を指差してみせた。「これは五十年前に送られてるんだ。つまり」
「……、大戦が始まった頃じゃない!」
 思わず声を上げる。五十年前。黒蝶姫。エヴァ。そして、召集。
 黒蝶姫がエヴァだったと仮定すると、その子供達を召集しているということは――恐らく、時代を考えれば竜族に対抗しようとしたと考えるのが普通だ。黒蝶姫に子どもがいたのだろうか。しかし、召集とはどういうことなのだろう。彼女がこの絵画のように若くして命を落としたのだとすれば、例え子どもがいたとしても召集をかけるほど多く存在していたとは思えない。とすれば、何かの暗喩なのだろうか。そして、一体この書簡は誰から――?
「王城跡で見つかったと言っただろ? それは、皇帝宛に送られたものなんだ。その封蝋を持つ国の者から、だろうな」
 店主の言葉に、ライヒアルトは封筒を裏返した。花の紋様の描かれた、金の封蝋。彼は首を傾げ、リカルダに困ったような視線を送ってくる。少女も覗き込んだが、見覚えはない。
「わかんないや。おじさん、知ってる?」
「いんや、知らないな……」困ったように顎を掻く店主は、ふと、黒蝶姫の絵へと視線を向けた。瞬間、目を見開く。「この額縁はな、絵画に合わせて作られたそうなんだ。……額縁を、見てみな」
 ライヒアルトとリカルダは、絵画を縁取る真鍮の額縁へと視線を向けた。繊細な細工の、美しい額だ。
「…………、ぁ」
 その時、ライヒアルトが小さな声を上げた。少女はきょとりと小首を傾げる。彼が何を見付けたのかが分からずに、彼の横顔を見上げる。その見慣れた端正な横顔は、真っ直ぐに額縁を見つめていた。
「……リカ、よく見て。額縁の、下のほうだ」
「あ……これ、は」
 少女は目を見開く。その絵画を縁取る細工の下部。小さく埋め込まれたそれは、封蝋と同じ花の紋様。エヴァを召集した国の紋章。
 黒蝶姫の存在を確かに裏付けているようなそれに、リカルダは思わず唇を噛み、ちいさな手を胸元できゅっと握った。