「とりあえずの手掛かりは出来たね。――エヴァ、か。何だろうね」
 リカルダは傍らで幼馴染のライヒアルトが裏返す封筒をちらり見上げる。きれいな珊瑚色。その一通の書簡に記された文言が、一体どれだけの情報を秘めているのだろう。御伽噺のように思っていた黒蝶姫の存在が、急に実像を持ち始めた。不思議な胸騒ぎに、リカルダは抱えていた杖をぎゅっと両手で握りしめる。
 古書店月石の冠≠フ店主からその書簡を譲り受けたライヒアルトとリカルダは、店主に礼を述べて店を後にした。
「最近物騒だから気をつけなよ。帝都だって何回も襲われてるんだ」
 店を出る前に故郷近辺のメーディス村が襲撃されたこと伝えると、店主はそう言って真面目な顔をしていた。自警団がいるから事なきを得ているが、今日は演習があるから手薄になっているかもしれないと告げる店主に、ありがとう、と微笑んだライヒアルト。そんな彼も、今は複雑そうに眉根を寄せている。
「でも、襲撃かー……ここも、そんなに安全じゃないってことだね」
「うん……、……竜族たちは、ほんとうにわたしたちを滅ぼそうとしてるのかな。わたしたち、竜族に何かしたの?」
 思わず、俯く。黒蝶姫の存在を感じ始めたことで、その存在と同じくらいに遠いものに感じていた大戦の存在が、リカルダの中でじわりと濃くなっていた。襲われているとか、滅ぼそうとしているとか、そんなのうそみたい。だってわたしたちは何もしてないのに。
「竜族が何を考えているか、俺には分からないけど……俺の読んだ本によると、人間は竜族に敵うはずのない種族だから、竜族は人間を敵視しないんだって書いてあったんだ。それなのに、竜族は人間を襲った。きっと、何かあったんだよ。だったら、それを知らなきゃ。もし俺達に悪いところがあったんなら、謝らなくちゃ。ちびたちが喧嘩してる時もそうでしょ。お互いの言い分聞いてみなきゃ、なんで喧嘩になったのなんか分からないよ」
「そう、だけど。……仲良く出来るの? 竜族と、ほんとうに?」
「俺の好きな昔話では、してたよ」
 ライヒアルトは無邪気ににこりと微笑む。見慣れた顔だが、彼はきれいな顔立ちをしている。その端正な顔に浮かべる人懐っこい笑みが、時折リカルダをひどく不安にさせるものだった。そんな風に上手くいくわけないじゃない、それは昔話なんだよ。今と、違うんだよ。――そう言おうとして、リカルダは口を噤んだ。どうせ、言ってもまた「でも、わからないよ」と微笑むのは分かっていた。そう、真実は誰にも分からない。自分たちがひとかけらの真実に触れる事ができるかどうかさえも。わたしたちは本当にこれからどうなってしまうのだろう。彼は底なしの楽天家なのだ。自信は無くても、きっとなんとかなると思っているふしがある。事実、彼はそう生きてきた。だから、何を言っても止められないのだ。彼は彼自身の前を向く意志を疑う事もない。彼はただ、希望を抱いて前に進むだろう。彼の希望が潰えぬ限り、灯は決して消えない。
 リカルダはちいさくため息をついた。そんな彼女に、彼は笑う。
「……やってみるしかないよ。ね?」
「でも、出来るかどうか分からないじゃない……」
「でも、やろうとしなきゃ、絶対に出来ないよ。そうでしょ?」
 ちいさく言い募るリカルダに、ライヒアルトは口の端にからかうような笑みを浮かべてみせた。思わず少女は口籠る。
「さて、と。……そうだ、お腹空かない?」
 ライヒアルトに問われ、リカルダは思わずこくりと喉を鳴らした。そういえば、もうすっかり昼食の時間を逃している。思い出したかのようにちいさく音を立てる腹に、彼女は僅かに顔を赤らめた。
「あはは、俺もお腹空いたな。もう、ぺこぺこ」ライヒアルトは笑って自分の腹を軽く叩く。「ご飯、食べよっか。お店に入るんでもいいし、露店で買うのもいいし。どっちがいい?」
「えっと……」
 リカルダは小さく顔を動かし、視線を巡らせた。人々も既に昼食は済んでいるのだろう、食堂らしき看板を下げた店の中には人もまばらだった。広場の方の露店も同様だ。店の数は多い者の、客足はまばらである。次に、食堂前の立て看板に視線を落とす。可愛らしくメニューが書かれているが、料金は可愛らしくはなかった。自分で食材を買って作ればこんな値段にはならないのに。うう、と呻く少女の考えが分かったらしく、ライヒアルトは面白げに笑う。
「露店ならもうちょっと安いよ」
「そっちにしよ。お金は大切にしなくっちゃ……」
 リカルダは僅かに俯き、財布の中を覗き込んだ。養父母から餞別に貰った金と、ライヒアルトが稼いで貯めていたもの。多すぎる訳ではないが、最低限の買い物しかしたことのないリカルダにとっては途方もない金額だった。これが毎日目減りしていくのかと思うと、眩暈がしそうだった。もし無くなったら、どうしたらいいんだろう? そういえば、稼ぎ方は誰にも聞いていない。毎日同じ場所に勤めに出る訳にもいかないというのに。思わず天を仰いだリカルダの視線の先が、ライヒアルトの顔であっさり覆われた。
「もー。ため息ついちゃ駄目だよ。どうしたの、リカ?」
 にこりと笑う彼の顔を見上げていると、自然と肩の力が抜ける。脱力に近い。ああだこうだ悩んでも、彼はのほほんとしているのだ。
「アルトくん、長生きする気がするわ」
「あははー、俺もなんかそんな気がする」にこにこと笑い、彼はそのまま広場を指差した。「あのサンドイッチの店、美味しいんだよ」
 安いし、と付け加えた彼の言葉に、リカルダは頷いた。何よりの理由である。彼の背を追い露店に辿り着くと、店先でこんがりと焼けたパンの間に野菜と豚肉がぎっしり詰まって並んでいた。
「わぁ、ほんとだ、おいしそう」
 食欲を誘う香ばしい匂いに、思わずリカルダも声を上げる。店主が恰幅のいい体を揺らして笑った。
「よう、おひとつどうだい。安くしとくよ、ひとつ四リラスだ」
「うーん」ライヒアルトは小首を傾げ、いつもの人懐っこい笑みを浮かべる。「三! 三リラスくらい! 二つ買うからさ、ね?」
 僅かに唸った店主は、すぐにからからと笑った。
「仕方ねえなあ、間をとって二人あわせて七リラスでどうだ」
「やった、ありがと、おじさん! 七リラスで買うよ」
 値切った。普通に値切った。おじさんも笑ってる。何なんだろうこの能力。リカルダは眉根を寄せ、信じられないものを見るようにライヒアルトを凝視する。その視線に気付いたライヒアルトが、ん、と傍らの少女に目を向けて、笑った。
「リカ、安くしてもらったよー。おじさんいい人だねえ」
「アルトくんすごいね……」
 少女は心底理解出来ない様子で呟く。青年は「そう?」と笑った。
 いつも思っていたが、彼の笑顔は魔法のようだ。なんだって許してしまいそうになる不思議な魔力が、彼の笑顔にはある。その力は、いつも傍で彼を叱ってはなんだかんだ許してしまっていた自分にもよくわかっていた。そして、自分だけではなくその力は周囲の人間にまで及ぶらしい。彼はすぐに他人に気を許させる。彼がなんとかなると思っているのは、彼自身の魅力で周囲が動かされるだけなのだ。彼の能力なのだと分かっている。けれど、少し、ずるい。
 リカルダは、彼から受け取ったサンドイッチを、はむ、と頬張った。ライヒアルトが美味しそうに食べているのを眺め、ひとつため息をつく。幸せそうなひとだと、いつも思う。
「……ねえ、アルトくん。それで、結局どうするの? エヴァとか、収穫はあったけど……でも、どこへ行ったらいいか分からないわ」
 訊くと、ライヒアルトは野菜をしゃきしゃきと噛むのをやめ、んー、考えこんだ。そのぽやんとした顔を見ていると、本当に考えているのだろうかと思う事もある――が、さすがにもう少し彼を信用してあげなくちゃ、と思い直した。手がかかるせいで、何かと彼を甘く見がちだ。おじいちゃんも言ってたじゃない、他人に敬意を払いなさいって。それはアルトくんに対しても同じだわ。
 そんな彼女の胸中は露知らず、ライヒアルトはしばらくして顔を上げた。そして、にこりと微笑む。
「さっきの封筒の紋様、国の紋章だと思うんだ。だから、あれを見せればきっとその国のことを知ってる人がいるよ。黒蝶姫の事も、何のことかわからないけど、エヴァの事も。少しずつ情報を辿ろう。そしたらきっと、次の手掛かりに辿り着けるよ。ね」
 にこり、と笑う幼馴染の笑顔。言われてしまうと、そういう気がしてくる。きっと彼自身、それを信じているのだ。少しずつ、糸を辿り、糸を解し、いつか意図に辿り着く。それは彼にとって自明の理なのだ。楽天的だと思う。けれど、それでも――確かに、それしかないのだ。リカルダは諦めたように頷く。
 彼は彼自身を信じている。迷いもなくそれを信じることの出来る彼のそれは強さなのか、それとも。――どちらにしても、わたしにはない力。甘くて、夢見がちで、危なっかしいけど――それでも。
 リカルダはそっと目を伏せた。サンドイッチを頬張る。腹と決めろと言うように、レタスが歯切れよくしゃきりと音を立てた。
 わたしに出来るのは、そんな夢見がちなアルトくんを傍で守ること。彼はその笑顔で渡ってゆくことが出来るかもしれないけど、きっと壁にぶつかる日がくる。その日のために、きっとわたしがいる。だから、わたしは――

 ――その刹那。
「きゃああああああぁああっっ!」
 広場の喧騒を裂くように、悲鳴が上がった。そしてそれを追うように、甲高い金切り声ど、低い低い唸り声。
 瞬間、緊張が走った。ライヒアルトに視線を遣ると、その端正な顔が強張り、人懐こい瞳には緊張が走る。
「この気配――魔物ッ!?」
 穏やかだったはずの広場にぐわりと膨れ上がった気配にリカルダは思わず身を竦ませた。咆哮が空気を震わせる。彼女は魔物に出会ったことはなかったが、それでも背筋を這う恐怖は確かにそれが危険なものであると告げていた。怖い。
ライヒアルトは剣の柄に手をかけ、叫ぶ。
「リカ、行こう!」
「え、ぇ……っ、危ないよ! ここ、自警団がいるんでしょ? なら、きっと来てくれるわ!」
「さっき本屋のおじさんが言ってたでしょ、自警団は今日演習に出てるんだよ!」
 ライヒアルトの焦燥の滲む声音に、リカルダははっとして息を呑む。ということは――すぐに来ることが出来ないかもしれないのだ。
「自警団が来るまで、街の人から注意を逸らすことくらい出来るかもしれないよ。リカはもし怪我人がいたら治療してあげて!」
「……、う、うん、わかった!」
 駆け出していく幼馴染の青年。彼の行く先から感じる、触れたことのない恐ろしい気配。ついていかなくちゃ。リカルダの足が竦む。震えて、動けなかった。だめ。怖いわ、だけど、アルトくんを一人で行かせるわけにはいかない!
 リカルダは恐怖を振り払うように、ぶんぶんと首を横に振った。なんとか恐怖心の呪縛を振り切り、幼馴染の後を追う。
 旅立った朝、素晴らしい晴天の日。穏やかだったその日が、落ちる陽と共に陰り始める。
 リカルダは震える足で走る。ふと、この世界を護っているという女神の話が頭を過ぎった。癒しの術に力を与えてくれるやさしい女神。女神様、女神様。お願いです、どうか、アルトくんを、わたしたちを護ってください、お願い――!
 縋るように祈る声は、天に届いたのか、否か。少女は杖をかき抱く。足が竦む。ゆく先で待つものの気配がもたらす震えは、暫く止みそうになかった。