一筋の光刃が閃いた。
 風を切る鋭い音を立てて、光刃は人の群に牙を剥く。
「きゃああああッ!」
 路地の隅に立ち尽くしていた女性の顔を掠め、光刃は壁に突き刺さり霧散した。必死に体を捩らせ間一髪でそれを避けた女性が、悲鳴を上げてぺたりと座り込む。それを見、周囲の人間が叫び声を上げながら逃げ出した。
「魔物だ、魔物だあぁあぁッ!」
「ひぃ、た、たすけて……ッ!」
 道行く者達はみな丸腰だ。駆けつけたライヒアルトは剣の柄に手をかけ、周囲を見回した。石畳の敷き詰められた広い大通りに立ち並ぶ白い家並みを背に、腰が抜けたらしい人々がヘたり込んでいる。建物の窓や扉からは、騒ぎを聞きつけた住人の顔が覗き、そして皆恐怖の表情を浮かべた。低い咆哮と金切り声が空を震わせる。不穏なその不協和音に、ライヒアルトは身震いした。一瞬ののち、前方の「それ」をきっと睨みつけ、唇を噛んだ。すらりと剣を抜き放つ。
 眼前、路地の中央。蜘蛛の子を散らすように路地の際に身を寄せた人々を嘲笑うように、豹に似た黒い毛並みの魔獣が大きく首を捩り、空気を震わせ吼えた。それに応えるように、魔獣の上をひらり舞うちいさな人に似た何かが金切り声を上げた。耳をつんざくような鋭いその音に、ライヒアルトは一瞬怯んだ。何だ、これは――?
「ある、アルトくんっ、な、なに、なにこれ……っ」
「わわ、わかんないよ俺もっ!」
 後方で震える声を上げるリカルダに、ライヒアルトも震える声で返す。あの獣と小人が何者かは分からないが、分かっていることは二つだけだ。自分より強いこと。人に敵意を持っているということ。
 救いようもない事実だが、しかし怯んでいる場合ではない。へたりこんだ人々は、突然剣を持って現れたライヒアルトの姿に注目していた。彼は恐れを振り払うように軽く頭を振り、今一度魔物の方を睨みつけた。そのまま、人々に向かって叫ぶ。
「俺が引きつけるからみんな逃げてください、それともし自警団見つけたら連れてきてッ!」
「ア、アルトくん、こ、こ、こ、こんなのと戦うの!?」
「だ、だって、誰かが引きつけないと!」
「だだだ、だ、大丈夫なの!? 勝算とか、あるの!?」
「なな、ないよ! ないけどさ!」
 震える少女の声に、思わず本音を漏らした。少女の呻き声が聞こえる。実際、勝算も策も無い。それでも震えながらも剣を構え、真っ直ぐに魔物を睨む。魔物達が物珍しそうにこちらを見据えてくる瞳に、背筋が粟立つような感覚を覚える。だが、今だ。きっと今なら、人々は逃げられる。その彼の思惑通り、一人、また一人と、じりじり立ち上がる。そして、踵を返し一目散に走り出した。しかし、そこで魔物の注意が逸れた。足音に振り向いた魔獣は、人々の方に首をもたげる。折角、注意を引きつけたのに!
「お、――お前の相手はこっちだ!」
 叫ぶライヒアルトの声が路地に反響する。魔物の視線が再びぐるりと戻ってきた。唇を噛む。剣を握り直した彼の瞳に、真剣ないろ。
一方、後方のリカルダは完全に混乱していた。ライヒアルトの声に、魔獣の標的は完全にこちら側に戻ってきてしまっていた。彼にとってはそれが狙いだったのだろうが、恐怖に足が竦む。どうしよう。わたし、どうしたらいいんだろう。
「――リカ!」
「は、はいっ!」
 突然飛んできた幼馴染の声に、思わずびくりとした。青年は振り向きもせず、敵と対峙している。真剣な声は、耳慣れぬ響きで。ああ、わたしはこの人を護るためについてきたのに。これでは護るどころの話ではない、彼の方が――しっかりしているではないか。
 しかし彼の口から飛び出した言葉は――
「……ちゅ、注意引き付けちゃったけど、じ、自信ないよ、どうしようね……?」
 あはは、と間の抜けた空笑い。焦燥の滲む声。じりじりと、魔獣が歩みを進めてゆく。大きなその体が、次第に彼ににじり寄る。
「あ、ると、くん」
 ああ。くらり、目眩がする。命を張らなくてはならないこんな時にも、こんな時にでも、この幼馴染は。この無計画な幼馴染は。
「アル、トくん、の、ばかああぁあぁぁっっ!!」
 少女の澄んだ声が、路地に木霊した。




 ライヒアルトはたたらを踏む。何とか持ちこたえ体勢を立て直したが、黒い獣は無傷のまましなやかな脚でこちらににじり寄る。その瞳が、紅く妖しく煌めいた。青年はごくりと唾を飲む。
《фΠазоψол》
 黒い獣の上をひらり舞う。やや透けた体の、まるで妖精のようなその小さな魔物は笑うように金切り声を上げ、ちいさな手で印を切り淡く輝いた。刹那、生み出された光刃がライヒアルトを襲う。
「うぁ……ッ、た」
 光刃はすぐに霧散するも、ライヒアルトの右腕を凪ぎ傷を与えていた。激痛に耐えるように唇を噛む。
「アルトくんっ!?」
 少女の悲痛な声が上がり、そして彼女はすぐに呪文の詠唱を始める。ライヒアルトには分からない言語で紡がれるそれを聞きながら、彼は痛む腕でもう一度剣を構えた。あれは、彼女の得意な治癒魔法だろう。傷は痛い、けれど、きっとリカが治してくれる。大丈夫。
 自分に言い聞かせた彼は、再び考える。どうやら、黒い獣は精霊のような魔物に使役されているように見える。先程から精霊の合図と共に獣が身を踊らせているように思えるのだ。ならば、精霊を倒せば。――視線を精霊にやる。か細い姿だ。獣の攻撃をかわすことで精一杯だがあの精霊ならば一太刀で十分なようにも思える。獣の傍を離れない精霊に攻撃を与えるのは困難だが、無意味では無いはずである。余計な殺生は好まないが、やらなければ、殺られる。
「花癒月(ルナリア・アインス)!」
 少女の声が聞こえた刹那、やわらかな光輝がライヒアルトの負傷した腕を優しく包んだ。その光輝は僅かに瞬き、あたたかな感触と光の粒子を残して消え去った。腕の痛みが消えている。
「ありがと、リカ!」
「アルトくん気をつけて!」
 礼を述べたライヒアルトの言葉を遮るように上がった少女の声に軽く頷き、彼は痛みの消えた腕で剣を構え直した。飛び掛かる魔獣から飛び退り様子を窺う。
 精霊に一撃を当てるにはどうしたらいいだろう。先日のように得物を投げつけてしまっては、それ以上戦えない。だが、敵は浮遊している。闇雲に剣を振り回しても、その下に控える魔獣の爪に裂かれて終わりだ。だが――一か八か、冒険してみるしかない。
「リカ、俺、ちょっと無茶する!」ライヒアルトは振り向かぬまま、後方の少女に向かって叫んだ。「治療魔法、準備してて!」
「ア、アルトくん何する気なの? 危ない真似しないで!」
「駄目だよ、リカ。危ない真似しないと勝てない!」
「か、勝つ……って!」
 少女の戸惑う声を背に、ライヒアルトは地を蹴った。魔物の正面を横切り、路地の脇の家並みへ。そこでぐるり魔獣に向き直る。当の魔獣は、突然方向転換した獲物の方を向き、唸りを上げた。ライヒアルトは壁を背にして、にじり寄る魔獣の気迫に唾を飲み込む。準備は整った。そして、これでもう、俺も退けない。――じりじり、と間合いを窺っていた魔獣は、中空を漂う精霊の合図で、立ち止まり動かなくなったライヒアルトに躍りかかる。
 ――瞬間、青年は左に飛び退った。だあんっ、と重い音を立てて魔獣は壁に身を打ち付けた。蹲る魔獣。その機を逃さず、ライヒアルトは地に伏せた魔獣の背を踏み付け、飛び上がる。そして、魔獣の上で戸惑うように舞う精霊に剣を振りかぶる!
 ――すか、と空を切る感触。
 バランスを崩しながらもたたらを踏み持ちこたえたライヒアルトは、信じられないものを見るように、精霊と己の剣とに交互に視線を巡らせた。――手応えがなかった。確かに精霊を斬り裂いた筈だった。その瞬間を、この目で見たのだ。それでも剣は、空を切った。
 精霊に――剣は効かない?
 獣がゆらりと重い体を持ち上げた。ぐるりと身を翻し、己を手痛い目に遭わせた憎むべき獲物にその紅い眼を向ける。ライヒアルトは目を見開きながら、じり、じり、と後ずさる。一歩、二歩。少しずつ距離を縮めてくる魔獣の眼は怒りに燃えている。精霊の意志など関係なかった。精霊に差し向けられたのではなく、恐らくこの魔獣自身の強い怒りの眼差し。まずい。ライヒアルトは唇を噛んだ。
「ア……アルトくん!」
 少女の悲痛な叫び。
「……り、リカ」ライヒアルトは、ひく、と引き攣った笑みを顔に張り付かせたまま、力無く笑った。「駄目だったみたい」
 少女が悲鳴を上げた。獣が吼え、地を蹴る。戦意を失ったライヒアルトに、その黒い巨体が踊る。思わず目を閉じた、その時だった。
「雷よ!」
 低い声が、後方から聞こえた。同時に、ぴしゃあっ、と稲妻に似た音。閃光が瞼の奥を灼く。どうん、という重い音。恐る恐る目をひらくと、黒い巨体が眼前でぐらりと体勢を崩すところだった。頭上に、戸惑うような精霊の姿。見ていたライヒアルトは、何が起こったか分からぬままに、目を瞬かせた。
 そうしている間にも、魔獣は身を起こし体勢を立て直した。事態を把握出来ないままに、それでもその憎悪に満ちた眼をライヒアルトに向ける。
「や、ば……」
 青年は、じり、と退きながら剣を構え直した。何が何だか分からないが、戦況は変わっていない。本当に切り抜けられるのだろうか、このまま終わってしまうのだろうか。どこか他人事のように感じる。
「――おい、少年。退いてな」
 不意に。
 背後から聞こえた重低音と、がぢゃり、という金属質の重い音。
 ライヒアルトが振り向くよりも速く、その声の主は彼の傍を横切り精霊の元へと駆ける。山吹色の残像が、視界を横切った。
 その残像を追うように、視線を今まで戦っていた敵の方へ向けると、精霊に使役されていると思わしき魔獣の懐に、その山吹色は躊躇いもせずに突っ込んだ。魔獣が咆哮するも、男に怯む様子は無い。
 山吹色の髪をした男は、その大柄な体躯に見合う巨大な剣を振り翳した。剣は、ごう、と風を斬るような呻り声を立て、そのまま魔獣を薙ぐ。剣閃と共に、血飛沫があがり、どうっ、とその巨体が無造作に地に伏せ転がった。――魔獣の口から、断末魔が洩れる事は無かった。喉笛を正確に掻き切ったらしい。声一つ上げさせずに一太刀のもとに魔獣を斬り伏せた男は、その血飛沫を避けるように一歩退く。そして、肩を竦めた。
「んだよ、あっけねえな」拍子抜けした様に、呆れる様に。そう洩らした男は、その巨大な太刀を再び構えてみせた。そして、口の端を上げる。「――服が汚れっちまっただろうが、どう落とし前つけてくれんだよ。あぁ?」
 かの魔獣を使役していた精霊は打ち破られる筈の無い使い魔を失い、ひどく狼狽していた。
《фΠа、ΨюиχσиΠ――ッ!?》
 焦燥の滲む語調で紡がれた耳慣れぬ言葉に、狼狽の色が混じる。
「言い訳か? はッ、何を言おうとしてるかは知らねえがよ。……てめえは、この畜生共よりも俺を楽しませてくれるんだろうな?」
 凄みのある笑みを浮かべ、男は精霊を見据える。誰も動かない。精霊も、剣を構えた男も。――そしてライヒアルトも、リカルダも。正確に言えば、動けなかった。突然現れた男に、圧倒されていた。
男は剣を掲げ、ふん、とつまらなげに鼻を鳴らす。
「――どうやら、俺を楽しませる気はねえようだな。なら、ここまでだ。――煉炎符<b!」
 刹那、男の手にした剣の刀身から、じわりと滲むように紅い光が溢れ、直ぐに収束する。それはまるで炎のような、不思議な煌き。
「てめえみたいな厄介な相手は好きじゃねえのよ」舌打ちをする。「ったく、のこのこ人間サマの領域に現れやがって」
《……ッッ! γκΘ、Ωσζлцッッ!》
 精霊の声に耳を貸す事も無く、男は吼えた。精霊はその小さな掌で印を組み、呪を紡ぐ。しかし男の方が、速い。その印に光の粒子が集い始めるよりも早く男は地を蹴った。
「――最大出力で焼き殺してやらあッ!」
 小さな顔に浮かぶ驚愕。断ち切るように縦に振り下ろされた剣。集中を失い霧散する、魔法の光。
《ΨюΠзоψоз……Ψ∂ΨυÅλаояΘΘッッッッ――!》
 耳を裂くような断末魔。小さくか細いその金切り声は、その小さな姿と共に次第に収束し、そして――消えた。
 呆然とその呆気無い戦いを眺めていたライヒアルトは、はっとした。剣の効かなかった筈の精霊を――斬った?
 ライヒアルト達が苦戦を強いられた精霊と魔獣とを束の間の内に切り伏せた男は、しかし傍で傍観していたライヒアルト達には目もくれず、剣を片手で構え直した。しかしその切先は、先程斬り伏せた魔獣の体を向いている。魔獣は既に事切れているようだ。そして彼の目にも先程までの燃える闘争心は見受けられない。見えるのはただ、僅かな哀れみの表情。
 彼はそのまま、剣の柄に片手を添えた。口の中で小さく呪を唱え、そしてことば≠発した。「――招炎=v
 彼の言葉に呼応するかのように、剣は先程の様に一瞬僅かな光を滲まる。刹那、魔獣の体を炎が包んだ。
「このまま転がってんのも居たたまれねえだろうよ。……ま、せめてもの弔いだ」
 そう呟き、そして漸く剣を鞘に収めた。炎を背後に、彼はライヒアルトらの方へ身を翻した。ライヒアルトとリカルダがびくりと身を竦ませる。それを見、男は顔を顰めた。
「――ったく、無駄に応戦してんじゃねえよ。ガキんちょどもはガキんちょらしく、大人しく家に引っ込んどきゃあ良かったんだよ」
 ぶっきらぼうに言い放ち、男は片手を腰に当てて大袈裟に胸を張ってみせる。顎をしゃくり、目付きの悪いグレーの瞳で機嫌悪そうに見下ろしてくるその男を、ライヒアルトは恐る恐る観察した。
 ――年の頃なら、二十台後半という所だろうか。若いと言えば若い。長身のライヒアルトよりも更に背は高い。体格はがっしりとしていて、巨躯という言葉がしっくりくる。後ろに撫で付けた山吹色の鮮やかな髪にグレーの瞳。左頬には斬られたような傷跡が斜めに走っていた。耳には牙のピアスが揺れる。ライヒアルトのように鎧を身に纏ってはおらず、戦士としては比較的、軽装だ。しかし先程のような相手に有無を言わせぬ戦いぶりでは、逆に鎧は足枷にしかならないのかもしれない。
 その鋭い眼光で見下ろされ――むしろ見下され――ながら、ライヒアルトは、漸く声を振り絞った。
「どうして――精霊が、斬れるんですか!?」
「あぁ?」
 青年の問いに面食らったように、男は首を捻った。
「ア、アルトくん、先にお礼、言わなきゃ」
 数秒遅れて立ち直ったリカルダに軽く背中を叩かれた。確かにそうだ。彼がいなければ、命を落としていたかもしれないのだ。
「そ、そうだね――あの、危ないところを助けていただいて、ありがとうございました。俺はライヒアルト=ローデンヴァルト。こっちがリカルダ」
「リカルダ=ロサスです。あの、本当にありがとうございました」
 頭を下げる二人に、男は、ふん、と鼻を鳴らす。
「あの、すみません。あなたは――」
 おずおずと訊ねるライヒアルトの顔を、男は首を捻って物珍しそうに眺める。そして、再び顎をしゃくってみせる。
「俺の名はジークムント=ビュッセル」男は腰に手を添えたまま、口の端を上げてみせた。「――この界隈じゃ、名の知れた傭兵サマよ」
 背後で魔獣を焼き尽くす炎。漂う血の臭いと、焼ける肉の臭い。
 その炎を背に笑う男――ジークムントの顔は、一層凄みを増したように思えた。