仄暗い空に、一筋の閃光が走った。
 数瞬間を置いて、ごろごろと地を這うような低い轟音。
「ひゃ、あ……ぅ」
 雷鳴に縮こまり、リカルダはか細い声を上げた。逃げ込んだ洞窟の中から覗く外界は、激しく降りつのる雨に阻まれて曖昧に滲んでいる。ざあざあと切れ間の無い大粒の雫が地表を叩きつけた。止まぬ雨。止まぬ雷鳴。着衣から滴り落ちる雨雫も、止むことなく。
「……いやぁ、急な降りだったねえ」ライヒアルトはいつもと変わらぬあっけらかんした様子で笑いながら、数日前に買い入れた外套の留め具を外した。「マントびしょびしょー」
「んだよ、こんなに降らなくてもいいだろうが!」
「まあまあ、仕方ないよ。降る時は降るって」
 にわかに降り出した豪雨に不機嫌そうに声を荒らげるジークムントを、ライヒアルトは笑って宥めた。
 帝都レーベを発ち、早数日。幾日にもわたる野宿を重ねた旅の末に一行が突然の豪雨に見舞われたのは、地平に横たわる広大な森がようやく近付いてきた頃だった。久方ぶりの雨を避ける為に急ぎ森へ向かう途中、洞窟を見つけて身を寄せることは出来たが、その頃にはすっかり一行は濡れ鼠になっていた。
 ったく、とぼやいたジークムントが、不貞腐れたように野暮ったい革のグローブとブーツを脱ぎ捨てる。さっさと腰紐を緩め、よく水を吸った着衣を脱ぎ、半裸になった。筋肉で盛り上がったがっしりとしたその体から、リカルダは思わず目を背ける。何となく、見てはいけないものを見てしまったような気になった。しかし、傭兵は気にした様子もない。
「小姑、さっさと火だ」
「は、はいっ」
 不機嫌そうな重低音に、リカルダは慌てて杖を手に取った。小姑という呼び名は確定してしまったらしいが、今はそれにかかずらっている暇はない。まごまごしていては、何を言われるかわからない。
 慌てて、洞窟の中を見回す。意外にも広いその空間は、優に百九十センチもあろうかというジークムントが立ってもまた高さにゆとりがある。空間的にもゆとりがあり、奥に続く通路さえあった。しかし無謀な探索は危険だろう。視線を足元に落とす。洞窟の外から吹き込んだのであろう枯葉や枝が隅に溜まっている。これを火種にしようとかき集めて、彼女は呪文を唱えはじめた。穴倉にいた頃、よく使っていた初歩的な火起こしの魔法だ。彼女の詠唱に呼応するように、杖の先の澄んだ珠に緋色の光が宿る。
「――火よ(イグニス)」
 瞬間、ぼう、と激しい炎が空間に出現した。その炎はちりちりと枯れ葉を焼き、やがて枝にも燃え移る。ややあって、焚き火はようやく安定した。――たとえこの程度のことであれ、自分に出来る事があるというのは有難かった。何も出来ることがなくては、それこそ自分の存在に意味はなくなってしまう。リカルダはため息をつく。
「リカも服着替えた方がいいよ、着替え持ってきてるよね?」
 マントを絞りながら、こともなげに言うライヒアルト。ほら、と言わんばかりににこりと笑う彼に、リカルダは顔を赤らめる。
「ききき着替えられるわけないでしょ!? ここでッ!」
 ふいっとそっぽを向く。顔が熱い。それは決して、焚火のせいだけではなく。こんなにデリカシーが無いとは思わなかった。
「……小姑の肩を持つ訳じゃねえが、アルト、お前な……」
 傍らで着衣を絞りながら、ジークムントがライヒアルトに半眼をくれている。ライヒアルトは釈然としない様子で「だって風邪引くよ?」と首を傾げた。本気でよく分かっていないらしい。
「よ、嫁入り前の女が殿方の前に肌を晒すものじゃないっておばあちゃんが言ってたもの! そそ、そん、出来るわけないでしょっ!?」
「け、けど、俺とジークしかいないしさ」
「そういう! 問題じゃ! ないでしょッ!?」
 全く分かっていない。火照る頬の熱さを自覚しながら、リカルダは喚いた。困ったように黙り込むライヒアルトの隣で、傭兵が面倒臭そうに唸る。その低音に、リカルダはびくりと縮こまった。
「あーッ、ったく、うっせえな。……女はめんどくせえ。気を使わねえと怒るし、ぴいぴいうるせえ。旅の連れにするもんじゃねえ」
 吐き棄てるような言葉。その不快げな声に、リカルダはくちびるを噛んだ。傭兵の顔を見る勇気は、無かった。顔を背けたまま、震える手をきゅっと握る。また、怒らせてしまった。
「ジーク、そんな風に言うのやめようよ。リカがいなきゃ、俺怪我だらけだよ」
「だぁら、お前はあいつの世話にならねえようにしろや。そうすりゃ、万事問題無いって事だろうがよ。こいつがいなくても、よ」
 あのグレーの瞳がこちらを見据えていると思うと、顔を上げられなかった。顔を背けたまま、俯く。岩壁に落ちる火影が、絶え間なくかたちを変えて揺らぐ。
 お前の存在は、必要ない。――この強いひとは、そう思っているのだろう。それが、ありありと感じられた。くちびるが震えているのに気付き、リカルダはそれを抑え込むようにきゅっと唇を噛む。
 不意に、涙が滲む。何も頭ごなしに言うことないじゃない、と思う反面、自分の力不足は痛いほど悟っていた。体力も、戦う力も無い。道案内してやることも出来ない。火起こしなら術がなくても出来る。治癒は怪我しなければ必要ない。自分に出来ることがあるだなんて思ったのが、馬鹿らしく思えてくる。わたしはアルトくんを護ろうとしてここまで来たのに、何も出来ない。わたしの出来ることも、全てこの人が――ジークさんがいれば必要なくなる。
 リカルダはこっそりと涙を拭った。これじゃ本当に、わたしはアルトくんを叱るだけの、小うるさいだけの小姑だ。そんな自分は、嫌だった。泣いている自分は弱くて嫌いだ。弱さを振り払うように彼女は首を軽く振って、ごそごそと荷物をまさぐりタオルをひっつかむと、振り向きライヒアルトに突き出す。
「……、はい、ちゃんと体拭いて!」
「あ、ありがと」
 ライヒアルトは気圧されたように頷き、タオルを受け取る。そのままリカルダは、隣のジークムントにもタオルを突き出した。顔は上げないまま。グレーの瞳が、怖かった。
「ジークさんも」声が、震えている。「……風邪は、わたし、治せないから。今、ジークさんが、頼りなんです。弱くて、ごめんなさい」
 傭兵は暫く黙り込んでいた。ややあって、その逞しい片手が差し出したタオルをそろりと受け取り、「……おう」と小さく答えた。
 リカルダは踵を返して再び岩壁の方へ振り向いた。いつまでも、落ち込んでいても仕方がない。戦う力がないのなら、この二人がいつも万全の状態であるようにサポートをするしかない。今は、それしか出来ない。今はただ、出来る事を、きちんとやるだけだ。
「リカ、君も早く体拭くとかしないと、風邪引いちゃうよ。ね」
 背後から、ライヒアルトの気遣わしげな声。鈍い彼でも、リカルダの様子の異変には気付いたらしい。彼に心配させてしまったことに、ふと胸を痛める。彼にだけは、心配をかけたくないのに。
「うん、……少し、奥の方に行ってくるね。ここじゃちょっと、着替えられないし。服とタオル、ちゃんと乾かしておいてね」
 リカルダは手荷物と杖を持つと、そう言って力なく笑った。うまく、笑えているだろうか。ライヒアルトの心配そうな顔が、辛かった。目を背けるようにくるりと身を翻し、ややおぼつかない足取りで暗い通路に歩みを進める。
「そっち、何があるかわからないよ、リカ。危ないよ」
「何かあったらすぐに帰ってくるからだいじょうぶ。……ちゃんと休んでね」




 少女のあまりにも憔悴した様子に、ライヒアルトは思わず口を噤んだ。どんな言葉をかけるべきかも分からずに、そのまま背中を見送ってしまった。ぱちり、焚火のはぜる音。揺れる火影。少女からタオルを受け取ってから、口をひん曲げたまま視線を焚火に落として黙り込んでいる傭兵に向き直り、ライヒアルトは眉根を寄せた。
「ジーク、あんな風に言ったらリカが可哀想だよ。リカ、何かした?」
 胡座をかいて先程受け取ったタオルを握りしめたまま、彼は黙り込んでいる。前髪を片手でくしゃりとかきあげ、彼は不機嫌そうにわしゃわしゃと頭を掻いた。口許が何か物言いたげに動いてはいるが一向に言葉が出てくる様子もない。ライヒアルトは続けた。
「リカ、優しい子なんだ。いつも、心配して俺のこと叱るから口うるさくなるだけだよ。さっきのだって、きっと俺が何か無神経なこと言っただけだ。あんな風に言わないであげて」
「……っ、めんどくせえな、ちくしょう」
 ジークムントはタオルで頭をがしゃがしゃと乱暴に拭いた。その声音は低く、重い。
「――めんどくせえんだよ、女は。俺ぁ、女は嫌いだ」
 考えるよりも先に出てくるようなその言葉は、頑なで。ライヒアルトは思わず口を噤む。力を無くしたようにゆっくりと頭を垂れた。
「女の人が、嫌いなの?」
「……ああやって、感情に任せて怒るだろうが。面倒だ。女は俺の邪魔しかしねえ。いつも、だ。……だから、嫌いなんだ」
 決まり悪げに彼はそう低い声で言う。ライヒアルトは何と言っていいか分からずに黙り込んでいたが、やがて、ぽり、と頬を掻く。
「女は嫌い……って、ことは」
「男なら、とか言いやがったらお前の頭引ッ掴んで焚き火に突ッ込むから覚悟しとけよ」
「うそうそごめんごめんそんなこと思ってない思ってない!」
 近距離で凄まれ、ライヒアルトは慌てて胸の前で両手を上げて降伏の意を示した。その顔には一筋の汗。ジークムントはその鋭いグレーの瞳でライヒアルトを睨みつけていたが、やがてふっと笑って離れた。どっかと胡座をかき、両手を後ろについて重心をやや後ろにかける。天井を仰ぎ、ジークムントは笑った。ライヒアルトは胸を撫で下ろす。しかし降伏の姿勢はとったままである。
「……このタイミングで言う台詞じゃねえだろうが、それは。ったく、お前は」
 ライヒアルトは「へへ」と気を抜けたように笑い、肩を竦める。リカルダが怯えるのも尤もだ。初めて会った時も、彼の気迫には思わず圧されたものだ。――ふと、消沈していた様子の少女が消えていった通路の奥に目をやる。
「……でも、リカはいい子なんだ。あんまり辛く当たらないであげて。お願い」
「……それは、俺が判断するこった」
 少女の名に、傭兵の顔が急に強張る。そのまま彼は、口を真一文字に結んだ。ライヒアルトは軽く肩を竦める。彼は自分には気を許してくれているらしいが、女性を嫌う気持ちからか、リカルダにはどうしても好意的に接することが出来ないらしい。彼女が何もしていないのにも関わらず、だ。ライヒアルトは小さく嘆息する。二人とも、仲良くできればいいのに。少なくともリカルダは、完全に彼に怯えてしまっていた。
 困った様子のライヒアルトに、ジークムントは目を逸らしながらも低い声で続ける。
「俺に、あいつと仲良くしろなんて言うなよ。俺は、女は――」
 ――そんな時だった。
 ごごごご、と地を這う低い音。響くそれは、地鳴りのようで。
「きゃああああああぁあああっ!?」
 遠く反響する悲鳴。次第に激しさを増し迫る鈍い音。その音が聞こえてくるのは――少女の消えた、通路の先。
「ッ!? 洞窟が崩れてんのか!?」
「……、リカ!」
「ッ、アルト! そっちは危ねえぞ!」
「でもリカがッ!」
 矢も盾もたまらず、ライヒアルトは立ち上がる。リカが、危ない。土砂崩れでもしていたら。彼女が逃げ遅れていたら。――考えている暇はなかった。そのまま通路の奥へと駆け出す。背後で傭兵が低い声で唸るのに、構っている余裕もなかった。
「あぁ、畜生ッ! 無鉄砲に走り出してんじゃねえ、この馬鹿ッ!」
 叫ぶ傭兵の声も、あまり耳には入らなかった。




「……リカ、リカ!? 大丈夫!?」
 背後から聞こえた声に、リカルダははっとして顔を上げた。振り向くと、駆け付けた幼馴染の姿。そしてそれに続く、傭兵ジークムント。リカルダはびくりと身を震わせた。杖を両手できゅっと握る。
「何があったつうんだ、これは……」
 ジークムントが茫然としたように視線を巡らせながら、低い声で呟く。リカルダも彼に倣い、視線を戻した。
 先程の広間よりもぐっと広い空間だった。しかし今は、崩れた瓦礫が広間を埋め尽くしていた。魔法の光球がまざまざと照らすその惨状は、部屋の隅でへたり込んでいる少女まであと数メートルのところまで到達している。このまま飲みこまれていたらと思うと、身震いがした。少女は思わず手放してしまっていた手荷物を引き寄せ、震える視線をジークムントに戻す。
「ごめん、な、さ……い、あの、岩、が、いきなり……か、壁が、崩れて……あの、わたし……っ」
 しどろもどろに、そう弁解する。また怒られてしまうのではないかと、怖かった。洞窟の奥へなんて行くからだ、何か衝撃与えるようなことでもしたんだろうが、やっぱりお前は足手まといだ。いくつでも、彼が自分をなじる理由は思い付くことが出来た。自分でも、素直に入口にいれば土砂崩れを招くことなどなかったのではと不安になる。謝るしかなかった。彼の機嫌を、損ねたくない。
 過剰なまでに狼狽している様子のリカルダを見て、傭兵は片眉を跳ね上げた。その傍らのライヒアルトが、少女の傍まで駆け寄ってくる。そして心配そうに、顔を覗き込んできた。
「それよりリカ、怪我は? 怪我してない?」
「わ、わたしは、だいじょうぶ……だけど……でも……」
 幼馴染の青年に答えるリカルダの声は次第に窄まる。声を発することでさえ、傭兵の機嫌を損ねてしまいそうに思えた。
「よかった」
 ライヒアルトは胸を撫で下ろした様子で、そう言って微笑んだ。
 その傍らでジークムントは惨状を見、嘆息した。片手で頭を掻く。
「……脆くなってたんだろうな」
「ごめんなさい、せっかく……休んでた、ところ、だったのに、ごめんなさい……」
 震えながら傭兵に向き直り、俯いたまま謝るリカルダ。声はひどく震えていた。ジークムントはこちらを一瞥し、片手でわしゃわしゃと頭を掻く。顎をしゃくったまま不機嫌そうに口を真一文字に結んでいたが、ややあって、顔を伏せて視線を逸らした。どこか不貞腐れたような表情。怯えたように、リカルダは顔を上げる。
「……てめえは、何もしてねえんだろうが。やった覚えのねえことで謝るな」
「……、ごめんな、さ」
「だから謝るなっつってんだろうが」ジークムントは舌打ちし、睨む。「……何もしてねえなら、堂々としてりゃあいいんだよ。俺ぁ、お前らよりゃずっと長く旅をしてんだ。自然物の崩落くれぇ何度だって見てる。てめえのせいだなんて、思っちゃいねえよ」
 そっぽを向いたまま低い声で返す傭兵に、おずおずと頷く。てっきり怒られると思っていたのに。
 ライヒアルトは面白そうに笑い、腰を落とした。彼は話をする時、たびたび視線を合わせようとしてくれる。
「だいじょぶ。きっとすぐ仲良くなれるよ、ジーク良い奴だから」
「……う、うん……」
 見上げると、幼馴染の青年はにこりと笑った。澄んだ空をうつしたような碧眼がふわりと細められる。いつもの優しい表情。少女はおずおずと頷き、また俯いた。不意に、頭上にふわりと乗せられた大きな手の感触に、びくりと震える。彼の手は、優しかった。じわり、涙が滲みそうになる。いつでも受け入れてくれる彼の優しさが、こんなに心強く思ったことはなかった。
 彼の手が引っ込み、彼は踵を返した。明るい声を上げる。
「じゃ、早く焚き火に戻ろう。風邪引くよ。……あれ?」
 ふと。ライヒアルトは、崩れた岩壁を見上げた。彼の声につられて、リカルダも顔を上げる。
「……ジーク、奥に、何かある」
 ライヒアルトの言葉に、傭兵も岩壁を振り返った。じろりとその鋭い目で岩壁に視線を巡らす。崩れた瓦礫の奥に、もうひとつの壁。魔法の光球に照らされた壁に、まるで文字のような模様がびっしりと刻まれている。そして壁の中央に設えてあるのは――
「祭、壇……?」
 アーチ状の模様の中に守られるようにしてそこに在ったのは、石版だった。細かい文字と図形の刻まれたそれが、崩れた壁の隙間から覗いている。光を受けて煌めく水晶のような珠がいくつか嵌め込まれているのが見える。色の宿らぬそれは、まるで少女の杖の先に嵌め込まれたそれのようで。
「この、文字……神々の言語≠セわ。魔法の呪文を構成するのによく使われる……」
 魔法の勉強の時に、よく目にした言語。それを、こんな壁の中に見出すだなんて。壁面を見渡しながら、少女が呆然と呟いた。
 突如眼前に現れた、謎の壁面。這うように整然と並ぶ文字。
 一行は、不思議な存在感を持って覗くその祭壇らしきものから、目を離せないでいた。