「――邪魔すんじゃねえッ!」
 やにわに突進してきた羊をかわし、傭兵ジークムントはそのまま走り抜ける。羊は目標を見失い、突進したまま徐々に失速して立ち止った。くるり、身を翻す。
 問題は、羊たちの突進だった。羊の数は五体。目を凝らせば、金属人形と同じ珠を額に抱いている。彼等もこの塔の番人だったということだろう。嵌められたこの状況に、傭兵は奥歯をぎりっと噛む。
いくら数がいようとも、さっさと切り伏せていけばいい話だ。しかし、問題は金属人形だ。羊を倒している間に、その得体の知れない人形の手にかかって、戦闘経験の無い仲間がやられてしまってはどうしようもない。傭兵は舌打ちした。
 傭兵に立ち向かってきているのは、二体。残り三体は、今も金属人形と対峙するライヒアルトとリカルダの周囲を取り囲んでいる。
「おいアルト、周りの羊にも気を付けろッ! 小姑、逃げられるんなら逃げろ、そこにただ突っ立ってると邪魔だッ!」
 広間中央の太い柱の周辺で金属人形を対峙しているライヒアルトが、僅かに横目で傭兵を見て頷いた。そうしている間にも振り下ろされる大柄な機械人形の腕を剣で防ぐのが精一杯の様子だ。その青年のやや後ろで身を竦ませているリカルダが、僅かに後退した。怯えるように周囲を見回している。戦意喪失している様子に見えた。
 傭兵は舌打ちした。だから、戦えもしない気弱な女は困るんだよ、戦えねえならさっさと逃げやがれ!
 ライヒアルトらのいる地点はもうすぐそこだった。傭兵は足を止めずに走りながら、その大剣を構え直した。




「アルト、避けろッ! 後ろだッ!」
 焦燥の滲む傭兵の声。ライヒアルトが一瞬戸惑い後ろを振り向いた隙に、額に珠を抱く魔羊は彼めがけて突進してきていた。避けることを忘れた青年は、そのまま腹部に突進を受けた。
「ッあ……ぐっ!?」
「アルトくんっ!?」
 ライヒアルトは右前方に突き飛ばされ、バランスを崩し倒れ込んだ。リカルダは思わず悲鳴を上げる。アルトくんが、アルトくんが!
 倒れ込んだ幼馴染に駆け寄りしゃがみ込む。彼は体を折るようにして蹲っていた。顔を上げると、魔羊は悠然と蹄を鳴らしている。それを見ていたジークムントが舌打ちした。
「馬鹿野郎、そのまま振り向く奴があるかよッ!?」
「ご、め……つ、つい」
 傭兵の怒鳴り声にライヒアルトは微かに力なく笑い、身を起こそうとした。しかし、その端正な顔を苦痛に歪ませ、ぐっと目を瞑る。
「アルトくん、アルトくん大丈夫……ッ!?」
「……ごめ、……ぐ……」
 青年は顔を蒼白にし、身を屈めて倒れ込んだ。角を向けての突進をまともに喰らったらしい。少女は慌てて杖を握った。早く、早く治療しないとアルトくんが――
「花癒月(ルナリア・アインス)!」
 向けた杖の先から溢れる光輝が、青年の身を包み込んだ。数秒間を置いて、彼は肩で息をしながら身を起こす。傷を確認するように腹部を触っていたが、やがて安堵の表情を浮かべた。リカルダもさっと様子を窺ったが、彼の纏う革鎧にもさほど損傷はない。突進の衝撃が強かったのだろう。彼の無事に、安堵のため息。
「ごめん、リカ。ありがと」
「……、どうしよう、あの変な人形も襲ってくるのに、羊が襲ってくるんじゃどうしようもないよ……どうしよう……」
 思わず弱音が口をついて出る。杖をぎゅっとかき抱いた。怖い。話し合いなんて、通用しない。魔物はただ、人を殺そうとして向かってくる。力もない自分は、それに屈するしかないのに。
 怯える彼女にふと辛そうに眉根を寄せたライヒアルトだったが、やがて立ち上がり、戦いの場へ視線を向けた。視線は逸らさずに、剣を構え直す。その横顔に、リカルダは思わずどきりとする。まるで、別人のように凛としていた。その碧い瞳に宿る真剣な眼差し。わたしの知ってるアルトくんじゃ、ない。
「ア、アルトくん……危ない、よ」
「ジークが戦ってる。俺、行かなきゃ。……リカは安全な所にいて。リカがいれば、俺達は何度でも戦えるから。――ね」
 リカルダの震える声に、ライヒアルトは僅かに振り向き優しく微笑んだ。そして再び視線を前へ。戦いの場へ、走り出す。
 魔羊は全て戦いの場に集結しつつあった。五体の魔羊は、じりじりと敵をとり囲んでは、突撃を繰り返している。攻撃の隙を与えさせないその突進に、さしもの傭兵もやすやすと手を出せずにいるようだった。駆け付けたライヒアルトもなんとか羊の突進を防ごうとするが、ままならぬ様子で避けては、時折人形の攻撃を喰らいかけていた。離れた場所でそれを見守るリカルダの杖を握る手にちからがこもる。これじゃあ、埒があかない……!
 何か、しなくちゃ。羊にも人形にも手を出せない以上、このままこの調子で続けていたらやがてライヒアルトたちの体力がもたなくなる。今、きっと、何かしなくてはこのままみんな死んでしまう。
 例え上階に逃げたとしても逃げ場はない。一か八か、転移装置を起動させて森の向こうの洞窟に転移する方法も無くはない。しかし、もし転移装置を動かせるだけの集中力がなかったら。もし転移装置を発動させる前に追い詰められてしまったら。あの逃げ場のない最上階で、袋の鼠になるのだ。悪い想像ばかりが、頭を過ぎる。少女は纏わりつく思考を振り払うように慌ててかぶりを振った。逃げられない。だったら、せめて羊達の足を止める方法は?
 少女ははっとして、荷物袋の中を弄る。旅立つ前に、養母が渡してくれたものがあったはずなのだ。旅先できっと必要になるからと渡してくれた本。確か、これには。
「――あった!」
 少女は杖を投げ出し、その本の頁を慌てて捲る。視界の邪魔をする髪を掬って、耳にかけた。なおも必死に紙面上に書き連ねられた文字に目を走らせる。これは、養母直筆の呪文書だ。かつて癒術士だったという養母リリーが、リカルダが制御出来る初歩的な術を書き連ねて渡してくれたのだ。きっと、何か、あるはず。何か、あって、お願い――!
 治癒の呪文に、痺れをとる呪文、眠らなくてはいけない時に使う呪文、火を起こす呪文、魔法の光を生み出す呪文、氷の呪文。ああ、だめ、普段使わないのに攻撃する呪文なんて使ったら、アルトくんやジークさんに当たっちゃうかもしれない。そしたら本当に万事休すだわ、ああ、もっと、何か……!
 広間に響く金属音や蹄の音にを聞き焦燥しながら頁をめくっていた少女は、ふと、頁を捲る手を止めた。
 わたしが今求めているのはあの羊を足止めする方法。そうすれば、アルトくんたちは戦える。そう、攻撃する必要は無い。足止めさえ出来れば――
 少女は急いで前の頁を捲った。そのための手段は、記されていた。そう、彼女は確かに目にしていたのだ。
 目的の頁に、急いで目を通す。まだぱっと見ただけで神々の言語≠ニ呼ばれる魔術言語を理解することは出来ない。文字列を目で追う彼女の白金の髪がさらりと垂れる。ああ、邪魔だ。少女は髪を掬い耳にかけながら読み進める。解る。わたしは、これを使うことが出来る。
 少女は書物に目を通したまま、手探りで杖を掴んだ。そして、詠唱を始める。杖の先の珠には次第にひかりが宿る。
 リカルダは立ち上がり、一瞬躊躇うように足を止めた。しかし、再び足を踏み出す。躍る羊の群れへと、未だ戦い続ける仲間の元へと。視線の先で羊が躍る。――もう、好きにはさせない!
 呪文の詠唱が完成した。少女は杖を高く振り上げる。
「――微睡みの檻(フィア・スリーピン)!」
 差し向けた杖の先から放たれた光球が、ライヒアルトの背に躍りかかろうとしていた羊の一体を捉えた。突然響いた少女の叫び声に振り向いたライヒアルトの視線の先で、羊がゆらりと足をふらつかせ、倒れ込んだ。どうん、とがらんどうの広間に響く音。――成功した。羊は、眠りの呪文でその意識を手放したのだ。
 その様子を見、目を見開くライヒアルト。その向こうでジークムントが人形のふりおろす腕を弾き、横目で倒れた羊の方を一瞥した。そして、歓声を上げる。
「――おう、ちったあ役に立つじゃねえか小姑! どんどん行け!」
「はい!」
 少女はぱあっと表情を明るくし、頬を紅潮させた。ジークさんが、認めてくれた。褒めてくれた。足手まといじゃ、ない。
 リカルダは再び一歩引く。あまり近くにいて、残る羊に蹴飛ばされてしまってはかなわない。
 羊たちは、昏倒した仲間の姿を見て騒然としていた。後退する少女を脅威の根源をと認めたらしく、羊たちは向きを変える。びくりと震える少女めがけて、ライヒアルトは地を蹴った。
「ジーク、リカは俺が護るから、人形を!」
「ったく、お前一人でそいつらまとめて相手出来るっつうのかよ!」
 鼻で笑うジークムント。ライヒアルトは少女と距離を詰める羊たちの前に立ちはだかり、剣を構えた。その端正な顔に、勝利の確信を浮かべた笑み。
「だってリカがこいつらの数減らしてくれるし、ジークだってすぐそんな奴倒してくれるよ。だから、俺は大丈夫」
「――ったく、お前はなあ!」
 ジークムントは踏み込み、金属人形の足を払った。そして金属人形がバランスを崩すと同時に何歩か退き、愉快げにかっかっと笑う。
「おい、小姑。さっさと続きだ。全部まとめておねんねさせてやれよ、アルトが逆におねんねしちまう前にな!」
「はい!」
 少女は内心の高揚を抑え、次なる呪文の詠唱に入る。役に立てた。光明が見える。わたしたちはきっと、ここを生きて出られる。
 羊がこちらへ向かって突進してくる。ライヒアルトは僅かに身をかわし、羊を引きつけた。リカルダは杖を掲げ、再び術を行使する。
「――微睡みの檻(フィア・スリーピン)!」
 遠くで隣り合っていた羊が、二頭まとめて倒れ込んだ。残る羊は、あと二頭。
「調子いーじゃねえか、おい!」
 ジークムントは豪快な笑い声を上げ、今一度金属人形の足を力任せに蹴り払った。そのひょろ長い金属の体が地に伏せる。ぎい、と耳障りな音を立てて、なおも機械人形は動こうともがいた。
「俺も一丁、景気付けと行こうかッ!」
 傭兵は愉快げに叫び、金属人形の背を踏み付けた。ぎしりと悲鳴を上げるように鳴る音にも構わず己の剣の柄に手を掛け、小さく言葉を唱える。それはきっと、彼の魔剣の力を解き放つ、魔法の言葉。
 金属人形は煩わしげに腕を振った。ジークムントはその腕を避けるように飛び退る。金属人形が身を起こすが、その時にはもう遅い。
 ジークムントはにやりと笑い、彼の愛剣フラウロスを高く天へと突き上げた。そして、叫ぶ。
「――招雷<b!」
 虚空から閃く光が、人形を打ち貫く。
 金属人形がよろめき地に伏せるのと、リカルダが羊を昏倒させたのとは、ほぼ同時だった。




「――あーーーっ、もう、死ぬかと思ったあぁ」
 穏やかに吹き渡る風がはしばみ色の髪をさらう。豊かに生い茂る緑の大地を踏みしめ、ライヒアルトは思い切り体を伸ばした。天を仰ぐ。爽やかな青空が、今はあんなに遠い。それでも、無事に外の地面を踏むことが出来たのだ。青年はその端正な顔にまるで晴れ空のような笑みを浮かべていた。ただ一点の曇りもなく。
「……ううぅ、つかれたあ……」
 リカルダはへたりとしゃがみ込む。戦闘という緊張状態に置かれた事など無かったというのに、呪文を連発したせいで著しく精神が疲労していた。緊張の糸が途切れたようにがくりと肩を落とす彼女を見、ライヒアルトは笑った。
「リカ、大活躍だったねー。ほんと、もうおしまいかと思ったよ」
「わたしももうおしまいかと思ったもん……」
 少女はちいさく蹲ったまま、大きなため息をついた。
 塔の中での戦闘でジークムントが喰らわせた雷の呪文は、その金属人形の動力源であるらしき魔法珠を完璧に打ち砕いたようだった。人形がその動きを止めた後、扉が開き、一行は無事外に出る事が出来た。無論、眠りこけた羊はそのままである。
「眠らせるたあ、考えたな」ジークムントが、へたり込んでいる少女に向かってにやりと笑ってみせた。「不眠症の為の呪文を敵の足止めに使うとは思わなかったぜ」
 少女は男を見上げた。もとよりかなり背が高く体格のいい男である、しゃがみ込んだ少女にはかなり大きく見える。やや威圧感を受けながら、少女は力無く小首を傾げて笑った。
「わたし、攻撃呪文使えないから、これくらいしか……」
「……まあ、普段うだうだしてやがるがな。そこは、うざってえ」
「うざっ……」
 少女が、がんっ、と衝撃を受けたように目を見開いた。ぽかんと開いた口元を噤み、俯く。さらりと流れるその白金の髪で、少女の不満げな顔は誰からも見えなくなった。
「ううう……わたし、がんばったもん……頭捻って、がんばったもん……」
「ああ、うん、リカ頑張ったよ、すっごく頑張った」
 情けない声で悲しそうに呟くリカルダ。慌てて取り成すようにライヒアルトがしゃがみ込み、少女にねぎらいの言葉をかけた。青年の頬に、一筋汗が伝う。
 どうあってもジークムントは素直に認めてくれる気はないらしい。消沈する彼女の様子には目もくれず、傭兵は振り返り塔を仰いだ。その苔生した白い古塔は、高く高く天に向かってそびえている。
「――しかし、何だったんだろうな、この塔。閉じ込められるしよ」
「うーん、……そうだよね、あの柱が魔力増幅器になってたとしても、さっきまでいた洞窟の祭壇のところはこういう形してなかったし。塔の形にもちゃんと意味があるんだろうね」
「塔、っつうと物見の塔くらいしか浮かばねえが」
「見張り台みたいな? ああ、それで精霊の森の向こうも監視してたのかな。向こうで何か戦いがあれば、この塔ですぐに助勢に行けるし。きっと大戦の時の名残だったんだろうねー」
 リカルダの傍にしゃがみ込んだまま答えるライヒアルト。ジークムントは頭の後ろで手を組む。
「ま、どっちでもいいけどよ……とにかく、無事で万々歳だぜ」
「でも、わたし、やっぱりだめだな……あの転移装置を発動させただけで、ふらふらになっちゃったから。まだまだ、だめだわ」
 少女は顔を上げ、落ち込むように呟いた。確かに普段は家の中での仕事が多かったけれど、こんな風に役立たずに成り下がるのはとても歯がゆかった。体力つけなきゃ、と呟く彼女に、傭兵は、ふん、と鼻を鳴らし「だらしねえな、修練が足りねえ」と吐き棄てた。
「まあまあ、リカは魔法使うのが得意だけど、治療とか火起こしくらいしかしたことなかったもん。仕方ないよ」
「仕方ねえ仕方ねえっつってよ、それで修練を怠りゃあ死ぬのは自分だぜ。おい、アルト。お前も筋は悪くないが、剣の扱いはもっと覚えなきゃなんねえ」
「えええー。とりあえず休もうよー」
 しゃがみ込んだまま呻くライヒアルトの頭を軽く叩き、ジークムントはきょろきょろと辺りを見回した。
「……ああ、そうか。俺が今まで灯台だと思ってたのがこの塔だったわけだ。そうすっと……海都跡が近いか」
 叩かれた頭を抑えながら青年は立ち上がり、首を傾げて「海都?」と問い返す。傭兵は、ああ、と頷いた。
「十数年前に滅んだ海の都リヴェーラの跡がある筈なんだ。普段は森の近くまではハルドから馬車を頼むから別に寄りゃしねえ場所だが……多少建物も残ってるだろうし、雨露も凌げそうだ。もう暫く歩いて、そこで夜を明かそうぜ」
「ベッド残ってるかな?」
 腕を組み唸るライヒアルトの、端正な顔に似合わぬ子どもげな表情がおかしかったのだろうか、傭兵は笑う。
「さあな。残ってるかもしれねえが、埃まみれだろうよ。別に寝ても構わねえけどよ」
「うぅ、それは嫌だな。布団はたいて干さなきゃ」
 肩を竦めて、青年は笑った。

 不意に、蹲っていたリカルダは立ち上がった。何かが、見えた。風に泳ぐ髪を抑え、天を仰いだ。ライヒアルトらもつられて仰ぐ。
 はためく向日葵色が視界にちらつく。ばさり、ばさりと翼の羽ばたく音。リカルダははっとして目を見開く。見間違いじゃ、なかった。目を凝らす。中空にいるのは、空にとけてしまいそうなやわらかな銀髪を肩で切りそろえた可憐な少女だった。向日葵色の着衣をそよがせる彼女の背から生えているのは、一対の美しい白い翼。
 ――人間、じゃ、ない?
 瞬間、ジークムントは背に下げた大剣フラウロスの柄に手を伸ばした。警戒するように眉根に深い皺を寄せ、迎撃態勢を取る。
「――何者だ!?」
「あ、あなたたち、塔を、抜けてきたの……?」
 翼の少女は傭兵の言葉には答えずに、怯え戸惑うような声で問い掛けてくる。その声は、震えていた。
「……てめえが、俺達を罠に嵌めた張本人か?」
 凄むジークムントに、少女は慌てて首を横に振った。ふわりと波打つ銀髪が、揺れる。
「……わ、私は何もしてないんです、ただ」
「てめえみてえな人外が此処にいるっつうことに、他にどんな説明がつくってんだよ、言ってみろや、あァ!?」
 ジークムントの怒号に、翼の少女もリカルダもびくり震えた。傍らのライヒアルトがジークムントを宥めるように前に立ちはだかる。
「駄目だよ、ジーク、落ち着いて。危害を与える気はないみたいだ」
「ふん、自分で手を下せねえだけかもしれねえぞ。だから、俺達を塔に閉じ込めたんだ」
「だから、話を聞かなきゃ何も分からないよ。あの子、怯えてる」
 いつもはへらりとした笑みを浮かべたその整った顔に真剣な表情を浮かべ、ライヒアルトは自分よりもやや背の高い傭兵に真っ直ぐに向き合った。ジークムントは唇を噛み、ぎりっと眼前の青年を睨みつける。青年は気圧されたように震えた。視線は、逸らさない。
 ――その刹那。
「ま、待って!」
 思わず声を上げる。少女の声に、ライヒアルトは振り返った。翼の少女は身を翻し飛び去っていく所だった。
「待ちやがれ!」
「追っても仕方ないよ、俺達は海都に行くんでしょ!?」
 ライヒアルトに言われ、ジークムントは口籠る。数秒間を置いて、頭の後ろを掻き渋々と視線を逸らした。
「……ああ、そうだ。……だが、もう一度会ったらたたじゃあおかねえ。俺達をあんな目に遭わせたのはあの女かもしれねえんだ」
 青年は、ほっとしたように肩を竦めた。そして、困ったように眉根を寄せる。
「ジーク、すぐ怒るの、よくないよ。結局あの子が何者か訊けなかったよ」
「うるせえ。話し合いだなんて甘えこと言ってみろ、騙し討ちされるのが落ちだ。大体お前は甘いんだよ」
 不貞腐れたように、男は腕を組んだ。やや気まずげに、顎を突き出し視線を斜め下に泳がせる。
「……とりあえず、海都に行こう。俺達はしっかり休まなきゃ。ね」
 笑うライヒアルトに、すっかり傭兵の剣幕に怯えているらしいリカルダもおずおずと頷いた。ジークムントも、黙って僅かに頷く。
 あの子は、一体何者なんだろう。翼が生えていた。人間じゃない。物語に出てきた、天使なの? 天使は、人間の敵なの? それとも、味方? ――リカルダの胸中で取り留めもない疑問がぐるりまわる。しかし、答えは彼女のこころのどこからも返らない。

 眼前には横たわる美しい海、緑の大地と、碧い空。
 白い塔を越えて、一路海都を目指す一行の旅。それを平穏なものだとは、未だに言えそうもなかった。