「海って、初めて見るかも。きれいだねー」
 幼馴染のその端正な顔からこぼれる笑顔はあまりにも無邪気で、まぶしい。上手に相槌を打てない自分がもどかしく、リカルダは黙ってこくりと頷いてみせた。
 陽の高く昇った、突き抜けるような碧い空。ライヒアルトの瞳によく似たそのあかるい色に、リカルダはふと目を細める。かもめの声と、さざめく波のおと。潮の香りと、横たわる翡翠の海。その中で、細身のパンツを僅かに捲り上げ、裸足で波間に遊ぶ幼馴染のライヒアルト。足をさらう波の冷たさに笑う幼馴染の姿は、まるで子供のように無邪気に見えた。
「ねぇ、リカ。面白いんだよ。ここね、立ってると足がずるずる沈んでくみたいなんだー」
「もう、アルトくんたら。子供じゃないんだから」
 無邪気なその様子に、少女は愛らしい大きな若草色の目を細め、口許に手を添えてふわりと笑う。笑みを浮かべた彼女に、ライヒアルトは僅かにほっとしたような表情を見せた。
 宴の約束の夕刻まで、まだ数刻あると思われる。
 結局あの後、何か大戦の情報がありはしないかと海都を探ってみたりもしたが、それらしき情報は無く、暫しの時を費やした後に諦めた。姿を消した傭兵にも、出会うことはなく。陽が傾きかけた頃に、時間を気にして「もう戻った方がいいかな」と訊ねる少女に、ライヒアルトは「海が見たい」と笑ったのだった。
「リカも入ったら?」
「ううん、わたしはいいよ」
 光みちる海を背に、振り返って明るい声を上げるライヒアルト。少女はふるふるとやわらかく首を振ってみせた。青年は、不思議そうに眉根を寄せる。
「えー、折角来たのに? 勿体ないよ」
「わたし、アルトくんみたいに子どもじゃないもん。……それに、アルトくんが楽しそうにしてるから、わたしはそれでじゅうぶん」
 陽にひかる金糸の長い髪をさらり風に遊ばせながら、少女はふわり微笑む。自分が遊ぶよりも、その方がずっと楽しかった。こうして笑うひとたちを見守ることこそが、きっと自分のしあわせなのだろうと、ふっと思う。そんな彼女に、幼馴染の青年はやや釈然としないように僅かに眉根を寄せ、肩を竦めて頭を掻いた。
 穏やかな時間は、まるで穴倉に居た頃のようだった。ジークムントに出会ってから持つことのできなかった、幼馴染とのいつものやさしい時間。この穏やかな時間を、きっとわたしは愛していた。
 リカルダは不意に、先程の傭兵の怒号を思い出す。
役に立たねえくせに言うことだけはいっちょまえじゃねえかよ
 少女はふっと俯いた。かぶりを振る。彼の言うことは正しい。
 少女に出来るのは家にまつわるこまこまとしたものばかりで、目の前の幼馴染やいとしい家族たちを叱りつけたりしながら、何一つ不自由も危険もない穏やかな時間を過ごしていた。戦いの中に身を置く事になるとは思ってもおらず、どうしていいのかもわからなかった。それでも、何も出来ない自分でいたくなかっただからこそ、そうならない為に、頑張ろうと決めた。決めた、ばかりだった。
「……リカ、さっきのことまだ気にしてる?」
「え?」
 幼馴染の青年の優しい声に思考を遮られ、少女ははっと顔を上げた。そしてかけられた言葉を遅まきに理解すると、ぎこちない笑みを浮かべる。アルトくんに、見破られてばっかり。
「……ジークさんの言ってた事は、本当だもの……」さらりと髪が流れるままに俯き、小さく笑った。「言われても仕方ないよ」
「何でリカは、ちゃんと自分が頑張ってるって認めないのさ。全部自分が悪いって、本当に思ってる?」
 ライヒアルトはやや憤慨したように眉根を寄せ、腕組みしてみせた。一瞬、押し黙る。暫し彼を見上げていたが、少女は視線を落としかぶりを振った。
「本当は、理不尽だなあって思ってるよ。でも、わたしも悪いの」ちいさく肩を竦め、諦めたように笑う。「……アルトくん、怒ってくれてありがと。ちょっと、嬉しかった」
 青年はかたちにならない言葉を口の中でもごつかせるようにして、頭を掻いた。リカルダの傍まで歩み寄ってきた彼を、見上げる。彼はうまく言葉を紡げない様子で暫く口篭っていたが、やがて海の方を振り向き、浜辺にしゃがみ込んだ。
「……ジークさ、女の人を悪く思ってるみたいなんだよね」
「そう、みたいだね。……何か、あったのかな」
「分からないけど……、……リカに辛く当たってるの、そのせいだと思うんだ。だからきっと、リカは自分を責める必要は無いんだよ。八つ当たりみたいなものだからさ」
 なんとかリカルダの負担をなくそうとしてくれているらしい青年の言葉に、少女は口籠った。白いワンピースがふわりと泳ぐ。言葉を探したが、浮かんではこない。口を噤んでいる間も、青年は困ったようにやわらかなはしばみ色の髪をくしゃりと掻いた。
「……でもね、アルトくん。昨日、塔でジークさんはわたしを褒めてくれたじゃない?」青年は頷いた。少女は目を伏せて続ける。「あの時、認めてもらえた、って、すごく嬉しかったの。だから、役立たずでも足手まといでもなくて、ちゃんとアルトくんやジークさんの傍に立って戦いをお手伝いできる能力が欲しいって思ったんだ。……思った矢先だったから、ショックが大きかっただけ。だから、だいじょうぶ」
 ライヒアルトはもどかしげに口をもごつかせたが、暫くして、唇を噛んで俯いた。うまく言葉にならなかったらしい。
「……、無理しちゃ、駄目だよ。俺は君を護るって言ったけど……実際、助けられてばっかりだよ。こんなところくらいでしか、君を護れない。俺じゃ役に立ててないとは思うけどさ」
「うそ、アルトくん、たくさん助けてくれてるのに」
 予想外の言葉に、少女は驚いて目を見開く。
 彼がこんなに優しいだなんて、穴倉に居た頃の自分は全く気付いていなかった。優しいのではなくて、甘いだけだと思っていた。けれど彼は、真っ直ぐに目の前の事に立ち向かう力がある。その強さに、気付かずにいた。まるで自分の知っている彼ではないようだ、と頭の片隅で思う。それはすこし、寂しくもあって。
「ごめんね。……わたしももっと、助けてあげたいのに」
「俺、てんでだめだよ。……だって、結局昨日の戦況を変えたのもリカだし、その他の戦いでも、俺は怪我してばっかりだよ。治してもらってばっかでさ」
「アルトくんたら、変なの。それくらい、なんでもないじゃない」
「なんでもないことないよ。俺、自分が情けないもん。……もっと頼ってよ。俺だっていいとこ見せたいよ」
 リカルダはくすくすと笑う。出来ることをするだけで精一杯だったのに、まさかそんな風に思っているとは思わなかった。遠く感じた幼馴染が、またすこし近くなる。青年はややむくれたが、気を取り直したように立ち上がり、その端正な顔に穏和な笑みを浮かべた。
「――リカが笑ってくれてよかった。旅に出てからこっち、全然笑わなくなっちゃったからさ」
「え?」少女は驚き、目を見開いた。そういえば、確かにあまり笑わなくなった気がする。恐らく、件の傭兵に委縮しているためだろう。「……そう、だね」
「笑っててよ。俺、リカの笑ってる顔好きだから。ね」
 あはは、と笑う。能天気なその笑みに、少女は両手を腰に当て、困ったように眉根を寄せて幼馴染を見上げた。
「もお、簡単に言うんだから」
「そお?」
 あっけらかんと笑う。この笑顔が、一体どれだけの人を惹き付けるんだろう。わたしもそうだ、アルトくんがこうして笑っていてくれると、ほっとする。強張った体から、すっと力が抜けるようだった。大丈夫、頑張らなくちゃ。
 ――さくり、ざくり、と。
 不意に聞こえた砂を踏む音。ライヒアルトとリカルダは驚いて音のした右方を振り向く。夕陽にその横顔を染めて、ばつが悪そうに頭を掻いて立つ大柄なシルエット。
「――ジーク!」
「…………さっきは、」男はやや口篭り、視線を逸らした。「――悪かった、な」




 寄せては返す波の音。渡るかもめの声が、静寂を埋める。
 穏やかに横たわる凪の海を眺め、岩場に足を投げ出すように座り込んだ傭兵は、暫く言葉を選ぶように口篭っていた。傍らに座る青年と少女も言葉を発する事はなく、男の言葉を待つ。
「……俺はよ、女ってやつが嫌いなんだ。だが、それはお前を嫌う理由にはなんねえ。……気が立ってたんだよ。悪かった」
 不貞腐れたような表情は、気まずさの裏返しだろうか。男はそう言い、頭を掻く。リカルダは恐る恐る口を開いた。
「……女の人が、嫌いって、どうして?」
「さあな。なんか、うざってえんだ。多分、死んだお袋のせいだな」
「お母さん?」
 目を丸くするライヒアルトに、男は頷いてみせた。
「……先に言っておくが、俺達が目指すアイゼンシュタットは、もう滅んでるんだ。黙ってて悪かったな」
 ライヒアルトは目を見開く。そして視線を彷徨わせた。アイゼンシュタット、ジークムントの滅んだ故郷。無邪気にそこを目指そうと言った自分を思い出し、ライヒアルトはそっと目を逸らした。
 手掛かりはあるかもしれないということ、父親の営んでいた鍛冶屋に魔法剣があるかもしれないということとで、行く方向は変わらないが、とジークムントは低い声で付け加えた。
「……アイゼンシュタットは少し前に襲撃されて、滅んだ。お袋はその時死んだんだ。俺はお袋が嫌いだった。けど、死んじまわれちゃあ、恨みを晴らすわけにもいかねえ。まあ、死んだからっつって鎮魂歌を歌ってやる気にもなれはしねえが。……ったく、面倒な女だったよ」
 ふっと笑うジークムントに、ライヒアルトもリカルダも口を噤んだまま何も言えずにいた。黙りこくる二人を気にする様子も無く、男は遠くを見やる。
「……俺は女っつうもんが嫌いだって言ったがよ、……それは決して、お前とはイコールじゃねえ。分かっちゃ、いるんだよ」
 ジークムントは低い声で語る。自らを落ち着かせようとしているかのように出来るだけゆっくりと話すその声には先程のような激しさは微塵もない。恐る恐る覗き込むと、眉間に深い皺を寄せて顎を突き出している。視線は遠く、海の彼方を彷徨う。
「……ジークは、リカのことが嫌いなわけじゃないんでしょ?」
 問うライヒアルトの方を、男はちらりと見やった。そして視線を海の彼方へ。暫くずっと遠くを眺めていたが、ややあって、頭を乱暴に掻きながら頷く。
「っつうか、……嫌う理由はねえ、っていうくらいだがよ」
 胡坐をかき、やや前屈みの姿勢になりながら手を前の方で組む。
「……お前の能力にゃ、一目置いてるんだ。ほんの少しだけだがな」
「……え?」
 少女は驚いて、視線を上げる。男は未だ彼方に視線をやったまま。
 一目置いていると、言った。
「気は弱えが、お前は負けん気が強い。……それに、恐らくお前は磨けば魔術師として光る原石だ。お前の才は、磨けば必ずアルトや俺の力になる。……そこんとこは、評価してやるっつってんだ。お前個人の性格はよく知らねえがな」
 ぶっきらぼうな声音に宿る感情はよく分からない。その言葉が信じられずに、リカルダは目を瞬かせた。男がすかさず睨み付ける。
「弱音吐かずに修練積めば、だ。勘違いするんじゃねえぞ」
 間髪入れずに不貞腐れた声でそう言い放つジークムントに、リカルダは「は、はい」と戸惑いがちに返事をする。ライヒアルトはくすりと笑った。そんな青年を恨みがましげに一瞥し、視線を再び遠くに。傭兵は不貞腐れたようにそのまま続ける。
「……これからも俺は、もしかすっと、お前に辛く当たるかもしんねえ。悪いが、俺はずっとこうやって生きてきた。今更、変えられねえ。だがな」
 そこで、はじめて傭兵はリカルダの顔を見据えた。眉間に寄せた深い皺と、鋭いグレーの瞳。少女はびくりとして、身を竦ませた。
 ずっと、このグレーの瞳が怖かった。この瞳に見据えられる事が怖くて、彼の前から姿を消してしまいたかった。けれど、今の眼差しは違う。怒りではなく、真っ直ぐに何かを伝えようとする眼差し。それは恐らく彼が初めて彼女に向けた誠意のようにも感じられて、リカルダは思わずぴんと背筋を伸ばした。わたしはそれを、きちんと受け止めなくてはならない。それだけは、わかった。
「……覚えておけ。どんなに俺がお前に辛く当たろうと、俺ぁ別にお前が嫌いなわけじゃあねえ。お前の才に一目置いてるっつうことは、変わらねえ事実だ。落ち込もうが這い上がれ。アルトを護るつもりなら、歯ァ食いしばって前を向け。お前にゃそれが出来る筈だ」
「わ、わたし……そんなに……」
 買い被りだ。――そう言いかけた少女を、ジークムントの鋭い眼光が制する。少女はびくりとして肩を竦ませた。
「いいか。お前がどう思っていようと、お前には才がある。一番大事なのは――意志を持つ事なんだよ」
「意志、を?」
 繰り返すリカルダに、傭兵は頷いた。
「お前は自分が大した奴だとは思っていねえ。だから、そこ止まりなんだ。……けどよ、お前は昨日、アルトを護る為にあの絶望的な状況を引っ繰り返した。お前に必要なのは、先を望む意志だ。前に進む為の力、アルトを護る為の力、それを得る為の意志が足りねえ」
 リカルダは俯いた。意志。確かに、自分には足りないもの。本当は先なんて望みたくなかった。穴倉に戻って一緒にまた暮らせたらそれでいいと思っていた。旅が辛いと、ジークムントに嫌われることが辛いと、そればかりだった。進む意志など無い。その先に何があるのか、分からないからだ。それでも――幼馴染の青年は、前に進む。そして彼の行く先に、自分も進む。だからこそ、きっと幼馴染と同じ先≠、ともすれば更にその先を望まねば、本当に彼を護ることなど出来ないのだ。リカルダは、きゅっと両の拳を組み合わせる。出来るのか、分からない。それでも。
「……わたしは、アルトくんを護るためにここまで来たんです。何も出来ないままでいるのは、嫌……です」
「その意志だ。それが、お前の道を拓く。……俺が嫌いなのはだ、その意志も持てずにぴーぴー泣いてる女だ。文句垂れて、人の足を引っ張るだけの奴が、俺は嫌いだ。だが、お前がその意志を忘れねえでいるうちなら、俺は……」
 ジークムントはわしゃわしゃと乱暴に頭を掻き、目を逸らす。
「……お前に優しく出来るたぁ言わねえ。多分できねえ。それでも、お前を仲間と認める。……その、きつく当たらねえように、努力は、する。……悪かったな」
 それきり男は口を噤んだ。顎を突き出し、不機嫌そうに黙り込む。
 ぶっきらぼうな彼の言葉。それはとても謝罪には聞こえず、説教まで混じっていた。それでも、彼は。
 リカルダは口許を抑え、すっと顔をおろした。嫌われているわけではなかった。認めてくれるのだと言ってくれた。仲間として此処に居る事を許された。そう、彼の口が告げた。少女は思わず、唇を噛んだ。こみあげる涙は、安堵の為だろうか。堪え、ふるふると頭を振る。言葉がうまく見つからない。ただただ、嬉しかった。
「ジークさん、わたし、足手まといにならないようにします。……いいえ、アルトくんを護れるように、強くなれるように……頑張ります。だから……わたし、弱いけど、でも」
「……だぁら、ぐだぐだ言うんじゃねえって言ってんだよ」傭兵はわしゃわしゃと後ろ頭を掻き、かったるげにぼやく。「……俺が認めるような奴になりな。俺ぁ、黙って努力する奴ぁ、嫌いじゃねえ」
 傭兵は、小さく答えた。それきり、何も言わない。
 寄せる波の音。引く間に、かもめの声。あたたかに降る日差し。それらをただじっと感じながら、一行は口を閉ざしていた。やがて。
「…………俺、立場なくない?」
 沈黙を打ち破るように、ぽつりと呟き、ライヒアルトが笑った。え、と見上げるリカルダに、幼馴染の青年は肩を竦めて笑う。
「さっきからジークもリカもさあ、俺を護る護る、って。俺、護られてばっかりじゃない。俺そんなに弱い?」
 少女は暫くきょとんとしていた。さざめく波の音が寄せて返す。数秒間を置いて、ようやく笑う。
「……、強いとか弱いとかじゃないもの。アルトくん、放っておけないんだから」小首をことりと傾げ、ふわり笑う。「……わたしがいなきゃ、だめだもんね」
 きっと、これからもっと彼は強くなる。それをどこかで知っている。けれど、彼がもっと強くなるそれまでは、わたしがきちんと護ってあげなくちゃ。彼女の言葉に僅かにむくれる幼馴染。思ったよりもしっかりしていた彼は、それでもやはり子どものようで。それがすこし、嬉しかった。手はかかるけれど、自分の手元を離れていくような感覚は、すこし寂しかった。きっと、子どもを見守る親の想いにも似ている。独り立ちしていく姿は、誇らしくも寂しい。
「もっと大人扱いしてくれてもいいと思うよ、俺」
「だったら、もうちょっとしっかりしなくちゃ」
 えー、とむくれる彼に、思わず微笑む。ジークムントも彼をちらり見、僅かに口の端を上げた。ライヒアルトは、微笑むリカルダとジークムントに交互に視線を向けて、そして嬉しそうに笑った。 
「さってと。仲直りしたところで、そろそろスヴェンたちとの約束の時間だよ、行こう。待たせちゃう」
「あ? 約束だ?」
 張り切ったように立ち上がったライヒアルトに、宴の話を知らないジークムントが訝しげに訊き返す。
「歓迎の宴、してくれるんだって。……でも、ジークは怖がられてるからなー。最初にみんなにごめんなさいしないとだよ」
「……めんどくせえ」
 あっけらかんと笑うライヒアルトの言葉に、ジークムントは頭を掻いた。先程怒った手前、戻るのも気まずいのだろう。決まり悪げなその様子に、リカルダはくすっと笑う。
「んだよ、小姑。俺が謝ったからって調子に乗ってんじゃねーぞ」
「ひゃ、ご、……ごめんなさいっ」
 眉間に皺を寄せて凄むジークムントに、少女は怯えたよう身を竦めた。やっぱり、怖い。怯えた彼女を見て、ライヒアルトは笑う。
「ジーク、怒らないの。ごめんなさいしたばっかりでしょ」
「……っぐ……」
 笑って宥めるライヒアルトと、唇を噛んでふいっと視線を逸らすジークムント。その様子を見て、リカルダは口許に手を当て、ちいさく笑った。ようやく、分かった。この人は、本当に素直じゃないだけなのだ。喧嘩っ早くて、素直じゃなくて、一度怒ったら引っ込みがつかなくて。まるで故郷の弟分のイェルンみたいだ。あんなに年上なのに、時折まるで子供のように見える。それがなんだかおかしくて、けれど口には出さなかった。口に出したらまた、怒られてしまうことは分かっていたから。

 夕陽は低く、地の果てと交わる頃。約束の時間は迫り、薄闇が近付く。
 それでも少女の中で確かに何かが変わり始めていた。