風踊る大地≠ニ呼ばれたハルドの丘に、くるり風がわたる。
「ハルドが見えましたよ、ほら、あの丘の向こう。あれがハルド王国です」
 御者席で馬を操る海都の少年スヴェンがそう言って丘の先を指差した。幌馬車に乗り込んでいたライヒアルトとリカルダは思わず御者席の方へ身を乗り出した。自分と少女の口から、同時に「わあ」と感嘆の声が上がる。緑の大地には些か見飽きはじめた頃だった。
 ゆるやかな曲線を描く緑の丘の向こうに、くすんだ赤褐色の壁が地平に横たわっているのが見えた。煉瓦と思わしきその壁は、ヴィッセン帝國の堅牢な護りを象徴するような冷たい灰色とは違い、あたたかな雰囲気を抱かせる。その赤褐色と、ぬけるような空の碧さと丘の緑は、どこか牧歌的な印象を抱かせる風景だった。
「なんか、綺麗だねぇ」
 日差しから目を守るように手を翳し、ライヒアルトは目を細める。眼前の風景の色合いは、故郷《魔法使いの穴倉》にどこか似ていた。
 その赤褐色の外壁が近付くにつれて、少しずつハルド周辺の様子が見えてくる。外壁の周りにも色とりどりの花が咲き乱れている。緑豊かな国なのだろう。更に視線をめぐらすと、外壁の上からは、すっと尖った青屋根が覗いている。
「スヴェン、あの建物は何? 随分背が高い建物だね」
「ああ、あれはハルドの王城ですよ。ハルドの王族は民との親交も積極的にしてるから、謁見もしやすいんですよ」
 へえ、と頷き、ライヒアルトは今一度その青屋根に目を凝らす。王城というものを見たことが無かった。物心ついてからヴィッセン帝國に足を運ぶようになったが、その頃には既にその国の王を抱く城は既に襲撃で打ち壊され、そこに住む者もいなくなってしまっていた。お城。物語にはよく、そこに温厚な王様やきれいなお姫様がいたっけ。本に描かれた数少ない挿絵を何度も見返して、お城というものを想像していたことを思い出す。思わず目を輝かせていたのを目に留めたのか、傍らのリカルダが笑った。
「スヴェーン!」
 不意に聞こえた声に、天を仰いだ。ふわり、翼の少女ジナイーダがスヴェンの傍らにふわり舞い降りる。そして小首を傾げた。
「今日は跳ね橋が上がってるみたい。城壁も門番さんがチェックしてるみたい」
 スヴェンも首を傾げた。ライヒアルトは身を乗り出す。
「何かあったの?」
「ハルドの城に続く跳ね橋が上がってるそうなんですよ。まあ、俺たちには関係ない所なんですけど」視線を前に戻し、手綱を握り直す。「ただ、ハルドの城は開かれた場所ですから、珍しいなって」
「――非常態勢だな。逃げ出した奴がいるんだ」
 幌の中から、重低音。ライヒアルトは眉を跳ね上げ、声の主を振り向いた。視線の先、薄暗い幌の中で、傭兵ジークムントが特に慌てる風もなく腕を組んだまま骨組みに背をもたせかけている。
「逃げ出した人? どういうこと?」
「ま、大したことじゃねえさ。ハルドじゃ日常茶飯事なんだ」傭兵は顎をしゃくり、横目で幌の隙間からハルドの城壁をちらり見る。「――ったく、過保護なんだからよ。どうせすぐ戻ってくるっつってんのによ。非常事態を周囲に知らせるような真似しねえ方が良いって忠告してんのに、俺がいなくなるとすぐにこうだ」
 その物言いは、まるでハルドをよく知っているどころか、王城内に縁者がいるとでも言わんばかりである。ライヒアルトは目を丸くして傭兵に訊ねる。
「ジーク、何か知ってるの?」
「ま、おおかた仔猫の家出だろうさ。大して騒ぐことでもねえよ」
 ことばは、それきり途絶えたまま。傭兵は腕を頭の後ろで組み、興味も無さげに目を伏せた。




 リカルダは目をちかちかさせながらあたりを見回した。
 店の立ち並ぶ大通りに、目がまわりそうな人の波と賑やかな喧噪。軒先に並ぶ吊り看板が風に揺れる。煉瓦造りの明るい建物の間をわたる色とりどりのオーナメントが目に鮮やかだ。ヴィッセン帝國の街並みが閑散として見えるほどに、ハルド王国の街は賑やかだった。
「賑やかだねぇ!」
 傍らのライヒアルトも、かたちの良い碧眼をきらきらと輝かせて街並みを見渡した。期待と興奮に満ちたまなざし。驚きと不安の入り混じった想いに尻込みしていたリカルダは思わず噴き出した。不安がっているのがばかみたい。彼を見ていると、妙に気が抜ける。
「アルトくん、のんきなんだから」
「だって、ほら。あんなに人がいるよ。どんな店があるんだろってわくわくしちゃわない? ほら、あれ。店先に色々売ってるし。寄りたいなー」
「用が済んだらジークさんにお願いしてみようね」
 子供のように弾む声で「あれは何かな」と話す青年の指先が辿るいくつもの店に、リカルダも顔をめぐらせた。幼馴染の楽しそうな様子に、不思議と笑みが浮かぶ。アルトくんったら、本当に無邪気なんだから。わたしまで楽しくなってきちゃいそう。
 ――ハルド城壁の関門を抜け、スヴェン達と別れたのは大通りに入ってすぐのことだった。おおきめの外套を羽織り、翼を隠したジナイーダと連れ立ち、その快活そうなあどけない顔でスヴェンはライヒアルトらに向き直った。
「それじゃ、俺たちはここで。アルトさんたちと会えてよかった。――お気をつけて」
「色々とありがとう。また遊びにいくよ。スヴェンたちも体に気を付けて。ね」
 ライヒアルトはにこりと笑い、左手を差し出した。頷き、少年も握手に応じる。
「また遊びにきてね、リカちゃん」
 少年の傍らで、ジナイーダはにこりと微笑む。癖で翼を広げようとしたためか外套の背中がぶわりと膨らみ、慌ててスヴェンが彼女の背中を軽くぽふりと叩いた。少女の目がまるくなり、頬が僅かに赤く染まる。とても素直に表情をくるり変える翼の少女に、リカルダは思わず笑みをこぼした。
「ありがとう、ジナちゃん。今度はなにか、お土産持っていくね」
「気にしないでいいの。私はリカちゃんが来てくれるだけで嬉しいから。同世代の女の子とたくさんお喋りできて嬉しかった」
 翼の少女が向日葵の笑顔を浮かべるのを見、リカルダも思わず笑う。同世代の少女と話す機会の無かったリカルダにとっても、翼の少女と過ごした時間はとても心地よかった。「わたしも」と微笑み、小首をことりと傾げる。また、会えたらいいな。この次に行くときは、海都の復興が進んでいるかもしれない。楽しみがひとつ増えたことが、少し嬉しい。
「助かったぜ、少年。お前の作る街を楽しみにしてるぜ」
「任せてくださいよ!」
 片手を上げて言う傭兵ジークムントの言葉に、スヴェンは力強く胸を叩いてみせた。ああ、わたしもこれくらい力強い返事が出来たらいいのにな。彼を導く意志の力は、きっと強いものなのだろう。消えない灯火。他の誰かをも導く、明るい灯火。きっとわたしには、存在しない強さ。
 少し羨ましささえ感じながらそのような事を考える少女の胸中も露知らず、スヴェン達は連れ立って商店に入っていった。恐らくこれが、スヴェンの伯父の商店なのだろう。
 彼らを見送った後、ライヒアルトは身を翻しジークムントの方を振り向いた。
「さてと、色々お店も見て回りたいけどどうする? ジーク」
「お前はそこらの雑貨屋の方に興味がありそうだな、ええ?」傭兵は腰に片手を当て、顎をしゃくって笑った。「――とりあえず、鍛冶屋にでも行くか。今はヴィッセン帝國よりもハルドの方がいいモン揃えてたりするぜ?」
「でも、魔力剣は無いんだよね?」
 首を傾げて問うライヒアルトに、ジークムントは、ああ、と頷く。
「それでも、ちょっとした防具なんかは揃うだろうよ。その後は、雑貨屋と、後は――食糧だな」
 リカルダは頷いた。これから向かうアイゼンシュタットは数年前に滅んでいるという話だ。食糧の備蓄が底を尽きかけている今、その準備は最優先でもいいくらいだ。ライヒアルトも頷く。
「……ところでジーク、今のところ、剣の賃貸料って……?」
 恐る恐る訊ねるライヒアルトに、ジークムントは腕を組んで再び顎をしゃくった。実に楽しそうな笑みを浮かべて。
「ざっくり数えて五千リラスくらいだったかな」
「ええぇ、うっそだ、いいとこ二千リラスだよ?」
 目を丸くするライヒアルトに、傭兵はかっかっと笑い「迷惑料込だ」とうそぶいてみせた。リカルダは内心眩暈をおぼえそうになる。このひとにかかればどんな無理も押し通される気がする。戸惑う少女の傍らでライヒアルトは腕を組んでまともに考え込む。
「……海都でジークのフォローするの大変だったんだ、俺」ぱちりと手を合わせ、青年はにこりと笑う。「だから俺も迷惑料貰ったらいいと思うんだ。ジークの迷惑料と賃貸料とで差し引きとんとん! ……とか、どう?」
 ジークムントは肩をずるりと落とし、青年に半眼を寄越してやった。リカルダもため息をひとつ。幼馴染は怖いもの知らずなのかもしれない。それはもうとうに知っていた気もするけれど。
「……お前、なんつーか、食わせモンだよな、何か」
 不思議そうに「ん?」と小首を傾げるライヒアルト。傭兵は面倒になったらしく、諦めたように「まあいい」と片手をぱたぱたと振ってみせ、その大柄な身を翻した。
「さて、行くとするか。はぐれんなよ、人が多いからな――」
「――ジークムント様?」
 不意に聞こえたのは、高い声だった。少女の声。それを聞きとめた瞬間、ジークムントの表情が強張った。僅かに硬直した後、ぎぎぎ、と声の方向をぎこちなく振り向く傭兵。つられて視線を向けるライヒアルトとリカルダ。傭兵がまともに戸惑う様子は、見た事が無かった。
 視線の先にあったのは、先程ジナイーダが纏っていたような大きな外套を羽織り、フードを目深にかぶった小柄な影。顔は見えず、口許だけが見える。すっぽりと着衣を覆った長い外套の裾から、白くほっそりしたくるぶしが覗く。履いている靴の高い底が、小柄なその姿をすこし大きく見せていた。
「……おい、まさか……あんた……」
 傭兵の声は引き攣っている。――こんな声は聞いた事がない。思わず沸き起こる不安な思いのままに、リカルダは傭兵のほうをちらり見上げる。傭兵の表情はひどく歪んでいた。迷惑そうな表情。
 謎の少女の口が、はきはきと動く。
「やっぱりジークムント様だわ。久しぶりに戻ってらしたのね、どうして――」
「――ッだあああぁぁッ! ――おいアルト! 小姑!」やにわに傭兵が方向を変え、少女から逃げるように脇の路地に早足でずんずんと歩き始める。「外れに行くぞッ」
「ま、待ってよジーク!」
 ライヒアルトは一瞬、戸惑うように傭兵と謎の少女の姿へ交互に視線をやったが、踵を返し傭兵の背を追う。リカルダも慌てて、やや小走り気味に続いた。一体、全体、これは、どういうこと? この子は誰?
「どうしてお逃げになるの、待ちなさい、ジークムント様! 私は」
「るっせぇ、いいか名前言うんじゃねえぞ!」
 ずんずんと進む。視界が変わる。喚く少女の声が苛立ちに変わり、路地を抜けて、視界がひらけた。公園と思わしき緑豊かな土地に出、池の傍を抜けて、それでも傭兵は止まらない。
「――不敬罪だわ! ジークムント様、アルベルティーナを無視するおつもり? そんなことをしたら――」
「名前言うなってんだろうが! あんな大通りで話せるかッ!」
「まあ、――あッ」
 小高い丘に差し掛かった頃、不意に少女がずるりと足を滑らせた。崩れる体勢。次の瞬間、その場に少女は崩れ落ちる。
 思わず、あっ、と声を上げるライヒアルトとリカルダ。少女は「いたた……」と呻き、目深に被ったフードを払いのけた。ふわりと広がる髪。森の朝靄のようにけむる水宝玉のいろをしたそのふわりとした髪の色は、今まで見た事もないような美しい色。きっ、と上げたちいさな顔に、猫のような琥珀いろの瞳が凛とひかる。
 美しくひかる水辺と、梢を揺らすおだやかな木々。その中にあって、このちいさな美しい少女はまるで人間界に迷い込んだ妖精のようで。リカルダはその不思議な少女に、思わず見惚れる。――瞬間、少女は噛みつく仔猫のように目を吊り上げた。リカルダはびくりと身を竦ませる。
「――ジークムント様! ど、お、し、て、無視、なさるのッ!?」
「だぁぁあぁッ! 姫さん、あんた、自分の立場を弁えろ!」振り向いたジークムントは頭を乱暴に掻いて喚いた。「跳ね橋が上がってたっつうことはまぁあたあんた勝手に家出したんだろうがッ!? 俺が誘拐犯にされちゃあたまんねえんだよッ!」
「まあ、お父様はそんなおばかさんじゃないわ。ジークムント様を誘拐犯とお間違えになるわけがないもの」
「一般市民にまで俺の顔が知れてるわけじゃねえだろうが、ッたく面倒ごとに巻き込むんじゃねえ!」
 状況が掴めない。リカルダはライヒアルトを見上げた。彼も困ったように肩を竦めて視線を返す。その後、彼は傭兵の服をつまんだ。
「――ねぇ、ジーク、えーっと、どういう、こと? 姫さん、って?」
 訳も分からずに訊ねる青年に、傭兵の動きが止まった。ぐるり振り向き、大きくため息をひとつ。
 肩をいからせたままの謎の少女はそのままに、傭兵は困り果てたように片手を額に当てて頭を振った。
「家出猫だよ」横目で少女をちらり見る。「ハルドきってのじゃじゃ馬娘だ」
「まあ、アルベルティーナ、猫でも馬でもないわ。失礼ね」
 物の例えだろうがよ、と毒づく傭兵。少女はつんと顎を上げた。
 ライヒアルトとリカルダには、未だ事情が飲みこめない。二人は困ったようにお互いの顔を見合わせ、とりあえず力無く笑った。