王女アルベルティーナは、目深に被っていたフードを振り払い、くるりと身を躍らせた。まるで、仔猫が踊るように。
「ここまできたら、もう一人で帰れるわ。ありがとう、ジークムント様、それに、ライヒアルト様、リカルダ様。――お城に寄っていってはくださらないの?」
 皇女の問いに、ジークムントは面倒臭げに頭を掻く。
「面倒ごとに首を突っ込むのは御免だからな」
「まあ、失礼ね。アルベルティーナを迷惑ごとの化身だとでも仰るおつもり?」
「似たようなもんだ、大人しく帰りな、姫さん」
 しっしっ、と犬でも追い払うように手を振る傭兵に、王女は頬を膨らませてみせた。傭兵はくつくつと笑う。彼に何を言ってもこの調子だと思ったのか、王女はくるりと身を翻す。
「ライヒアルト様。また、来てくださる?」
「うん、また、来るよ。ディート兄ちゃんも会いたいしさ。十日以上は後だっけ、兄ちゃんが戻るの」
「そうね……詳しい日は分からないけれど。きっとその筈。きっとまた来てね。ライヒアルト様も、リカルダ様も」
 にこりと笑った王女の目が、次の瞬間ふっと伏せられた。リカルダは妙な違和感を覚える。無邪気に見えるこの王女は、時折醒めた空気を醸し出す。有翼人の少女の分かりやすい表情とは違う、と思っていた。この王女の笑顔は本当の気持ちを裏に隠すためのもののようで、その想いが全く読めない。
 がらりと空気を変えた王女に、傭兵が片眉を跳ね上げた。
「姫さんが他人にそんな風に言うのは珍しいな」
「ジークムント様にはお分かりにならないの? 風が囁いているわ。アルベルティーナには、それが聞こえるの」
 王女のそっとひらいた瞼の奥に、まるで別人のような表情が宿る。すこし醒めたようにも見える琥珀いろのその瞳で、彼女はじっとライヒアルトの瞳を見詰めた。
「今度お会いする時には――貴方の力が必要になる。リカルダ様のお力もよ」
 この年若い愛らしい少女のものとは思えない、真剣な眼差し。不意に、王女の視線がリカルダに向けられた。その視線に、年下の少女の仔猫のような瞳に、思わずたじろぐ。気圧される――
「わたしの力も――必要? それって、どういう」
 よく、分からなかった。戸惑いを抑えるように、両手で杖を握りしめた。わたしの力? 力って?
「アルベルティーナにもよく分からない。けれど、アルベルティーナのちいさなお友達は絶えず囁いているわ。世界は――動き始めているの」
 それはハルドも例外ではないわ、と言い、王女はすいっと目を逸らした。くるりと背を向け、踊るような軽い足取りで路地の先に続く城へを歩みを進める。勝手気ままな仔猫に惑わされ、言葉を失った一行を置き去りにして。
 王女の姿が小さくなった頃、彼女はもう一度だけくるりと背を向けた。そしてその猫のような琥珀いろの瞳に悪戯げな笑みを浮かべ、片手を振り上げる。
「またお会いしましょう、ジークムント様。ライヒアルト様に、リカルダ様。お気をつけて!」




「――アルベルティーナ姫、一体何のことを言ってたんだろうね?」
 小手や膝当てを新調したライヒアルトは、小手の動きを確認するように手をわしわしと何度も開いたり閉じたりしながらそう呟いた。
「さあな。姫さんは時々妙な事を言い出すからな――おい、小姑、お前なんか秘密でもあんのか。姫さんに必要とされるような、よ」
「な、ないですよ、だってわたし、戦う力も無いのに……」
「まあそうだよな。小姑にそんな価値があるとも思えないしよ」
 本気で考え込む傭兵の言葉に、リカルダが、衝撃を受けたように口をぽかんとあけた。まったくもう、とライヒアルトは困ったように笑い、頬を掻く。いい加減にもう少し柔らかい関係になってもいい気がするんだけど。それでもだいぶましにはなっただろうか。
 王女アルベルティーナと別れた後、一行は宿屋にて二晩程の休息をとり、買い付け等のこまごました物事を済ませ、ハルド王国を旅立った。外壁を抜けて数刻、ハルドの外壁は遥か遠く、今は一路アイゼンシュタットを目指していた。
 天気は悪くない。決して良くは無いが、曇り空は降り出す気配もない。穏やかな旅路と言えた。時折魔物も姿を現したが、さほど脅威ではなかった。あった事と言えば、見事な剣捌きで魔物を討つジークムントに舌を巻いた程度だったろうか。
「ところでジーク、アイゼンシュタットまではどれくらいなの?」
「歩いて一週間くらいだな」訊ねると、傭兵ジークムントは考え込むのをやめ、顔を上げる。「途中にゃ何もねえから、野宿になるぜ。心しておけよ」
「レーベから歩いてきた時も野宿だったし、覚悟してるよ」
 肩を竦める。傍らを歩くリカルダを見ると、複雑そうな顔で黙り込んでいる。野宿を好きこのむ人間はいないだろう、無理もない。「頑張ろうね」と少女に声を掛けると、彼女は頷いた。気丈に返事をしてはいるが、弱音は吐かない彼女の事である、きっとどこまでも無理をしてしまうだろう。故郷に居た頃は散々世話されていた者だが、旅先では話が違う。彼女の方が、体力がない。自然、体力のあるこちらが気に掛けてやらねば。きっとその思惑に気付かれたら、彼女はへそを曲げてしまうだろうけれど。
「そうだ、アルト。次魔物が出てきたらよ、実戦訓練してやるよ」
「ほんと?」
 突然の傭兵の提案に、ライヒアルトは目を輝かせる。
「それで様子見て、夜に多少訓練してやる。俺の故郷アイゼンシュタットはもう何年も放置されてる筈だしな、魔物が棲み付いてても可笑しくねえんだ。お前にゃ、そろそろ強くなってもらわんとな」
「魔物かあ……」ライヒアルトは眉根を寄せた。そして、傍らのリカルダに視線を落とす。「リカ、何か魔法とかで対抗出来る? いつでも護ってあげられるとは限らないし」
 少女はこくりと頷いた。そして、諌めるように眉根を寄せてライヒアルトを振り仰ぐ。心外だ、と言わんばかりの表情。
「護ってもらわなくても大丈夫。アルトくんは自分の事に集中しなきゃだめ。そんなこと言ってたら、命がいくつあっても足りないわ」
「おう、その意気だ。――だが、実際問題、何か使えるようになったのか? リヴェーラでああ言った以上、何かしら魔法も使えるようになってるんだろうな?」
 問う傭兵に、少女は頷く。
「リヴェーラから来る馬車の間や、ハルドに居る時、おばあちゃんの呪文書を読み込んでいたんです。実戦でうまく使いこなすには、まだまだ経験が必要だと思うけど……」少女はきゅっと杖を握りしめた。「……でも、きっと使えるようになったら、足手まといにはならないと思う、から」
 傭兵は、悪くない、と片手を上げて笑った。あとは行動で見せてみろと、彼は言っているのだろう。
「――だが、小姑。魔法を行使する機は十分に見計らえ。集中力が無くなった時、魔法は味方を傷付ける。治癒魔法も十分に効果を発揮できなくなる」低い声で、傭兵は付け加えた。「お前の仕事は治癒だ。優先順位を間違えるなよ。お前が優先順位を間違えた時、俺達は全滅する可能性さえある」
 戦士ふたりに、癒術士がひとり。その生命線は自分なのだということに今更ながらに気付いたのだろう。少女がはっとして口を噤み、おずおずと頷いた。その責任の重さに思いを巡らせようとしたが、ライヒアルトにはうまく思い描けなかった。いつでも誰かの世話になってきた。自分が責任を負うということも、ほとんどなかった。
 彼女は責任感が強い。ひとのぶんまで背負いこんでしまう彼女の重荷を、少しでも取り払ってやりたかった。
「ってことは、俺はリカを何が何でも護れるようにしなくちゃね」ライヒアルトは冗談めかして笑う。「……そしたら、俺は何度でも治してもらえるし。ね」
「限度があるでしょ、アルトくんったら。もお」
 軽口に、脱力したようにリカルダがの肩を落とす。そして、呆れたように杖の先端で軽く彼をつついてみせる。
「その点は同意だな。しっかりしろよ、アルト」
 傭兵が半眼をくれている。思わぬところから本気の指摘が入ってしまった。ライヒアルトは困ったように肩を竦め、そして笑った。




 唸るような風が、静寂と共に切り離されたようながらんどうの街を抜ける。
 天に伸びるいくつもの煙突は、最早煙を吐くことも無い。家壁は表面を這う蔦に覆われ、緑の侵入を許すがままにしていた。人の気配は無く、路地に崩れ落ちた瓦礫はかつての襲撃の後を物語る。
 怨嗟の声にも似た風が、からり、からりと吊り看板を揺らす。きぃ、と軋むドアの音。踏み入れた足音が虚しく家々の狭間に響いた。
「寂れきったもんだな」踏み入れた故郷アイゼンシュタットの惨状に、傭兵ジークムントは顔をしかめた。「一年でこうも……」
 続くリカルダも、怯えに似た眼差しで街並みを見渡した。これが、一年足らずで? まるで、人が住んでいた所とは思えない――
 生活の痕跡はそこかしこに見られる。店前の品目を記した看板も、露店の荷車もそのままだ。しかし、それも朽ち果て惨めな姿を晒していた。割れた窓から風が吹き込み、窓をがたがたと揺らす。開け放たれた窓に泳ぐカーテンは、風雨に晒されてぼろぼろになっていた。からり揺れる吊り看板の音が、もの悲しい。
 これが、滅ぶということ、なんだ。――リカルダの体が知らず震える。もし、あの日メーディス村が滅びていたら、こんな風になったというの? おばさんたちが笑い集う集会所も、いつも賑やかな喫茶店エーレの実≠焉Aおじさんたちが耕す畑も、家畜小屋のけたたましい声も、駆けまわる子どもたちの声も、すべてがはたりと止み、影ひとつ残さずに沈黙だけが横たわる。慣れ親しみ愛した住処を、風が渡り緑が侵蝕する。食卓から、人の声と気配と食べ物の香りが消える。湿ったかびの臭いが支配する――
 考えたく、なかった。故郷が、消えてなくなる。帰るべき場所を失う。こんながらんどうの街に、なるなんて。
「滅んだって、何で……」
 ライヒアルトが、引きつった声を上げた。傭兵がかぶりを振る。
「アイゼンシュタットは優れた鉄打ちの街だ。俺の親父をはじめ、他種族にも有効な武器をいくつも生み出してたんだ。だから、他種族に目を付けられたんだ」
 傭兵の声は、淡々としていた。
「度重なる襲撃は、自警団の手にも負えなくなっていった。そのうち、街の産業を支える鉱山に魔物連中を放たれた。そうなっちゃ、街はお終いだ。ひとり、ひとりと住民が街を離れた。――アイゼンシュタットの滅びは、こんなもんだった。だから、損傷自体は帝國の中心街とは比べ物にならないくれえ少ねえんだ。アイゼンシュタットは、静かに滅びていった」
 傭兵の声に、感情らしきものは窺えない。彼の乾いた声は、ただ虚ろな感情を示すようで。リカルダはふと締め付けられる胸に、くちびるを噛む。どんな思いで、語っているのだろう。傭兵は続ける。
「俺はその頃、北の帝國の方にいたんだ。風の噂でアイゼンシュタットの事を聞いた俺は、故郷に向かったよ。だが、もう閑散としててな。一番頼りにしてた親父も、いなくなっちまってた」傭兵は頭を掻く。ぼそり、付け加えた。「――お袋の墓ひとつ、残してな」
 お母さん。リカルダはふと、想いを巡らせる。海都で彼は、母を疎んだ結果女性が嫌いになったと言っていた。その母を失った事を知った時、彼はどう思ったのだろう。恨みも、きっとそれと逆の感情も抱いていただろうに、その矛先を全て失ってしまった。想像しただけで、眩暈がしそうになる。きっと、途方に暮れただろう。それでも毅然としている彼は、きっととても強いひと。わたしには、真似できない。
 それきり、顎を突き出すようにして黙り込んでいる傭兵。リカルダは、傍らのライヒアルトと視線を交わした。
 本当は、自分も同じ経験をしたことがあった。自分も、幼馴染のライヒアルトも、本当の故郷を失っている。だからこそ、孤児たちが身を寄せる《魔法使いの穴倉》に引き取られたのだ。けれど、その記憶は物心つくよりも前だった。けれど、その思い出は遠く、今は積み重ねた穴倉の記憶のあたたかな濃さだけが記憶に色を与えている。わたしたちは恵まれていた。愛された記憶だけがある。失った記憶も、遥か遠い。けれど――ジークムントが故郷を失ったのはほんの一年前のことだ。境遇が同じだと、言える訳が無かった。その感情を慮ることは出来ても、共感など出来る訳が無い。
 かける言葉も見つからずに口籠っていたふたりに気付いたように、ジークムントは振り向いた。ふっと、彼は口の端を上げる。
「……さて、感傷的なのは終わりだ。とりあえず、俺んちへ行くぞ。何か掘り出し物がある筈だ。親父は魔力剣の製作に力を入れてたからな」
 それでもふたりは、黙り込んだまま。傭兵はふっと笑った。
「――んだよ、余計な同情なんざ要らねえぞ。んっとに、お前らは甘いな。もともと捨てた筈の故郷だ。今更滅んじまったところで、なんとも思わねえよ」
 そして彼は、天を仰いだ。一文字に閉じられた口許は、それきり何も言わない。
 表情を窺おうと、ちらり見上げる。しかし、背の低いリカルダにはよく見えなかった。