おかあさん、今日のごはんは?
 おぼろげに明滅する賑やかな街と、懐かしい気配。ちいさな手を包むあたたかでしっとりとした感触。
 隣を歩く見知ったそのひとがふわりと笑う。その感覚だけは確かにあるが、背の高いそのひとの顔は見上げても何故かよく見えない。
今日は卵が安く手に入ったからね。何がいい、ジーク?
 うーん、とあどけない声を上げ、彼は小首を傾げた。暫し考えて、目をきらきらと輝かせる。すてきなものを思い付いたような表情で。
オムレツ! オムレツがいい!
 そのひとは、そうねえ、と考え込み、そしてにこりと笑った。
じゃあ、秘密の隠し味入れちゃおうかな
かくしあじ?
ジークがお野菜なんでも食べられる子になるようにね
 えー、と口を尖らせる。そのひとは繋いでいた手をきゅっと握って、ふふふ、と笑う。
今日はお父さんも一緒にご飯食べられるといいわね
最近、いそがしいの?
作ってみたいものが、たくさんあるんですって
 ふと、そのひとの声が沈んだように思えた。思わず、見上げる。寂しそうな気配。表情は未だ、よく見えず。
おかあさん、さみしい?
私はあなたがいるから大丈夫よ
 ふふ、と笑う。おぼろげな乳白色の気配がそっと侵蝕する。霧が濃くなっていく。伸ばしたてのひらの先が、見えない。
 明滅する視界。宙に投げ出される感覚。ここは、どこだろう。おかあさんは?
 ふわりと世界が消える。
 瞬間、弾けた。




「――ジーク、ジークってば! どうしたの?」
 思わずはっとした。己の名を呼ぶ青年のやわらかなテノールに、急速に世界に引き戻される。白昼夢でも見ていたのだろうか。
「あ、ああ……」曖昧な生返事をして、さっと視線を巡らせる。廃墟の街。記憶の中の賑やかな気配とはかけ離れている。「――いや、なんでもねえ。考え事してた」
「急に返事しなくなるから、どうしたのかと思ったよ。もしかして、疲れてる?」
 心配そうに覗きこむ端正な顔の青年。彼の問いに首を横に振りながら、頭を掻く。こいつに心配されちゃあ、おしまいだ。百人いたら百人が、こいつは放っておけないと答えるだろう。そんな奴に心配されるということは、よっぽど情けない状態なのだろう。
 なおも心配そうに覗きこんでくるライヒアルトを追い払うように軽く手を振り、眼前の景色に目を走らせる。幼い頃母と歩いた道も、父の後を追って入った店も、成長してから悪友とつるんだ裏路地も、金稼ぎの為に出入りしていた酒場も、同じ場所に佇んでいる。しかし人の影は無く、喧噪の代わりに吹き抜ける風ががらんどうの窓を叩く。一年でこれほど蔦が伸びるものだろうか。おぞましささえ感じる。己の暮らしていた街は、形こそ残れど、本当にこの世から失われてしまった。――あっけない最期だ。街の死。葬式も立てられることのない、惨めな死。
 考えても仕方の無い事を考える趣味は無かった。くそ、と胸中で毒づく。流石の傭兵ジークムント様でも、故郷の死はこたえるっつうのかよ。
「ジークさん、顔色が良くないわ……」ライヒアルトの傍を歩く背の低い少女がちらりと顔を見上げてくる。「休憩、しましょうか?」
「ったく、お前らに心配されるようじゃ俺も終わりだな。心配するまでもねえ。――いいからお前らは自分の心配してろ」
 思わず、笑う。二人して顔を見合わせ、黙って歩き始める。また、余計な同情をしているのだろう。同情などされたところで、過去が変わる訳でも、アイゼンシュタットが甦る訳でも無い。同情されるのは嫌いだ。癪に障る。――けれど、この気の優しい同行者たちの言葉には、何故だかさほど不快感は抱かなかった。
 アイゼンシュタットに踏み込んでものの半刻。かつて見知った路地から魔物が飛び出してくるのは、なかなかこたえるものがあった。斬り捨てた魔物の亡骸を残し、一行は進む。久方ぶりに故郷に戻ってきてやることが、これか。故郷に亡骸の山を築くことか。俺はずっと父親の跡を継いで鉄打ちになりたかった。ああ、夢ばっかりは随分と生産的だったのに、実際やっていることと言えば。
 ジークムントは頭を軽く振った。まとわりつく思考を振り払いたかった。余計な思考は、足枷になる。そんなものは、要らなかった。
 街を風がわたる。虚ろな音だ。細い路地を抜ける風は凶暴さを増し、ひとの通る事も無い軒先のベルをからりと鳴らす。
 いつの間にか、ジークムントの生家に近付いていた。中心区画、街でも有数の規模の鍛冶工房が傭兵の生家だった。
「――おら、ついたぜ。俺の家だ」
 同行者と並び、眼前の店の軒先に立つ。此処も例外ではなく、蔦に侵食されていた。自然の驚異というものは恐ろしい。ジークムントは頭を掻いた。
「そら、行くぞ」
 促すジークムントの言葉に、ライヒアルトとリカルダは口籠ったまま朽ちた家を見、佇んでいた。思わず、笑う。
「――人んちをそんなに怖がるんじゃねえよ、失礼な連中だな」




 僅かに差す光を照り返し、剣や鎧が散乱していた。
 それをいつもの乱暴さで蹴り飛ばしたりするようなことはせず、傭兵は慎重に瓦礫をどかしている。
 ライヒアルトも、隣のリカルダも、口をひらかない。言葉が見つからなかった。じっとりと湿り、黴の臭いが支配する薄暗い家の中に、先日訪れたリヴェーラのような明るさは何処にも無かった。これが、一年前にはひとの住んでいた街だとはにわかに信じられない。それも、旅の仲間ジークムントが生まれ育った街だ、なんて。
 時折部屋に散乱する金属からの照り返しを受けて見える傭兵の表情は、ひどく乾いたものだった。何を考えているんだろう。
 ライヒアルトは慎重に足場を確かめながら、進む。奥に進むにつれて、窓を覆う蔦の隙間から差す光は次第に届かなくなっていた。視界も悪く、足元も心許ない。このまま進むのは危険かもしれない。
 不意に、傍らのリカルダが呪を紡ぎ始める。彼女の持つ杖の先の珠にひかりが宿り、そして「光よ」という短い発動の合図と共に、空中に魔法の光がふわりと浮かんだ。
「ありがと、リカ。……」
 礼を述べたが、うまく笑えなかった。視界の先で、傭兵が茫然と立ち尽くしている。彼は忌々しげな表情を浮かべて部屋に視線を巡らした。煌めく剣、鈍く照り返す鎧。横倒しになった机や戸棚が無残な木のかたまりへと姿を変え、床を埋め尽くしていた。そのすべてを煌々と照らし出す光は、今まで闇に紛れていた部屋の惨状をすべて明らかにしていた。ライヒアルトは思わず口籠る。傍らの少女も息を呑んで固まったままだ。もし、故郷がこうなってしまったら。
「……ったく、お袋が黙っちゃいねえぜ、こんな部屋。どやされる」
 乾いた笑みを浮かべ、傭兵が鼻を鳴らす。
「ジーク、……探して、早く此処を出ようよ。……こんな」
「俺の心配でもしてんのか? ったく、お前が心配するとか百年早えんだよ。これ位でへたばるジークムント様じゃあねえ」振り向き、傭兵は口の端を上げてみせる。「……ったく、お人好しなんだからよ」
 強がりにしか、聞こえない。ライヒアルトは思わず顔を伏せた。そんな彼をよそに、ジークムントはぐるり視線を巡らせる。
「ここは一般向けの売りモンしか置いてねえんだ。親父の試作品なら、工房の奥にあると思うぜ。……おら、行くぞ」
 傭兵はのしりと瓦礫を跨いで荒れた店の奥を目指す。ライヒアルトは顔を上げて、慌てて続く。不意に、傍らの少女がふらついた。足元をとられたらしい。
「リカ、大丈夫? 歩きにくかったら、荷物、持――うわっ」
 言う傍から自分も足を滑らせ、たたらを踏んで持ち堪えた。少女がちいさく息を呑む。傭兵はちらりと振り返ったが、こちらが体勢を立て直し、特に怪我もなさそうだと悟ると直ぐに視線を前に戻す。
「――もお、アルトくん。気を付けて」少女リカルダは肩を竦めた。「わたしのこと、気にしなくても大丈夫だから。わたしアルトくんの方が心配だわ。よそ見しないの!」
「ううう、ごめん、でも」ライヒアルトは決まり悪げに頭を掻く。「……心配させてくれてもいいじゃない?」
「心配した結果怪我してたら世話ないでしょ。もお」
 呆れた様子の少女の声音に、ごもっともです、と頭を掻いた。確かにこれでは、人の心配どころではない。気を取り直して、傭兵の背を追う。魔法の光輝はふわり、ライヒアルトの道を照らした。
 更に部屋の奥へ進むと、間仕切りの暖簾。湿り黴っぽいそれを越えると、細い廊下に続いた。
「親父はこの奥の工房でいつも剣を打ってたんだ。俺はさっきの所で、店番よ」のしのしと前を歩きながら、傭兵は頭を掻く。「いつかは親父に仕事を教えてもらおうって思ってたんだ。――ま、その前にお袋に反発して家を出たけどよ」
「リヴェーラで言ってたお母さんのこと、だよね。……どうして?」
「反抗した理由、か? ……ま、反抗期だったんだろうさ。お袋は、俺に期待をかけてた。ご立派に育って欲しかったんだろうな。自分の思う通り、品行方正に、お偉い鍛冶職人によ。自分の望む道以外を辿る俺は認める気が無かったんだろう。それに、腹が立った」
 傭兵はぽつりぽつりと語る。ジークムントの母は、他所の街から嫁いできた女性だったということ。無愛想だが、ジークムントには優しかったこと。街一番と言われた鍛冶職人の父親はあまり父親らしいことをしなかったこと。母はその分の愛情も全て息子ジークムントに注いでいたように見えたが、成長するにつれて息子に怒鳴ることや手を上げることが増えたこと。他の道を、一切許されなかったこと。反抗して家を飛び出して非行に走りはじめた息子に、また皮肉な言葉を投げ掛けてきたということ。その母親と顔を合わせる煩わしさから、父の跡を継ぐことさえ放棄して街を出、傭兵として生き始めたこと。それきり、街が滅ぶまで戻らなかったということ。
「――何があったか慮ってやることは出来るだろうよ」傭兵は工房を照らす魔法の光を頼りに、今度は崩れ落ちた家具をどかす。「だがな、それはてめえの事情だ。それを他人に押し付けるなんざ、勝手にも程がある。だから、俺はお袋が嫌いだった。俺はあいつの付属品で、俺自身の人生なんてあいつには意味が無かったんだろう。……女もみんな、自分と他人とを混同しやがる。面倒な生き物だ」
 傭兵の言葉に、ライヒアルトの傍らの少女がびくりと小さく身を震わせた。その様子をちらりと一瞥し、ジークムントは薄く笑う。
「そういう振舞いをしなけりゃあいい話だ」
「……気を付けます」
 しおらしく答えるリカルダに目をやり、ライヒアルトは微かに眉根を寄せた。ちいさく、少女に囁く。
「気にし過ぎちゃ駄目だよ」
「だけど、気を付けるに越したことはないわ。……わたしも、そうならないとは限らないから。……自信が、ないの」
 気にし過ぎだと、言いたかった。けれど、彼女は暫く顔を伏せたままだった。しかし、やがて顔を上げて魔法の光を天井すれすれまで高く翳す。ふわりと笑い、こちらを見上げた。気丈な、笑み。
「さ、アルトくんも探そ。みんなで探したほうが早いでしょ?」
「うん、そうだね」彼女も、色々思うところがあるのだろう。今は深く言及しなくてもいいのかもしれないと思い直す。「――ジーク、何か見つけたらそこらへんに集めとけばいい?」
「ああ、そうしてくれ。後で見る」
 傭兵は振り向きもせずに周囲を探る。少女は屈み込み、恐る恐る足元の瓦礫をどかし始めた。この付近は彼らに任せ、ライヒアルトは明かりの届かない奥に足を進める。おぼろげな薄闇の視界の奥に、微かに差し込む光が見えていた。崩れた足場に気を付けながら、進む。辿り着いた光を頼りに壁を調べると、取っ手のようなものが手に触れた。扉らしい。横にスライドするタイプのようだ。
「よっ、と……」
 がたがたと音を立てながら、引き戸を滑らせた。差し込んだ光の眩しさに、思わず目を瞑る。背後で少女の澄んだ声が上がった。悲鳴に近い。
「――ちょっと、アルトくん、いきなり開けないでよ」幼馴染の少女の非難の声。「もお、びっくりしたぁ」
「あはは、ごめんごめん。外の光入れた方が探しやすいかと思って」
 もお、とぼやきながら少女が魔法の光を消した。扉の先から差し込む外光は強く、部屋の奥まで届く。そして暫しの時を要して目が慣れ始めた頃、ライヒアルトはふと外の景色に目を留めた。
「――あれ?」扉の先は、壁に囲まれた狭い空間だった。中庭だろうか、その壁もすべて蔦に覆われてる。芝生の中にぽつんと寂しげに立つものに、目を凝らす。「これは……お墓?」
 木で組まれた十字。墓標と思わしきそれに、思わず歩み寄る。
「――あぁ、それがお袋の墓だ。墓標を読んでみな」
 背後から聞こえた傭兵に促され、ライヒアルトは墓標に掘られた歪な字に目を走らせる。――アラベル=ビュッセル。享年、五十五。ジークムントと同じ姓を持つ、女性の名前。
「……この家の有様だと、襲撃で、亡くなってしまったのかしら」
 いつの間にかすぐ傍に来ていたリカルダが屈み込み、ちいさく手を組み合わせる。それはきっと、祈りの仕草。見知らぬ亡き女性への弔いの祈り。ライヒアルトも倣い、軽く跪いた。
 ――不意に、少女が「あ」と声を上げる。
「どうしたの、リカ?」
「見て、アルトくん。ここ、土のところ。何か、ある……」
 少女の細い指が、墓標の刺さる根本を示した。こんもりと盛り上がった地面から、小箱のようなものが覗いていた。微かに薄汚れたそれを、ライヒアルトは手に取る。リカルダは眉を顰めた。
「アルトくん、だめ。それはきっとジークさんのお母様への――」
「……鍵だ。鍵だよ、リカ」
 少女の制止の言葉よりも早く、ライヒアルトはその小箱を開いていた。外側の汚れは内側までは侵食しておらず、敷物も何も入っていないその小箱の中で、鍵がからり揺れる。
「ジーク、ジーク! お母さんのお墓に、鍵の入った箱がある」
「――あ? なんだと?」
 背後で、がぢゃり、という音――傭兵が背負う剣の音だろう――を鳴らし、傭兵がのしのしと近付いてくる。ライヒアルトが振り向くと、口をひらくよりも早く傭兵は小箱を取り上げた。彼は中身をじっと眺め、目を見開く。
「もしかすっと、こりゃあ、倉庫の鍵か。試作品があるとすりゃ、そこにしまってるだろうな。――よし、倉庫に行くぞ、家の裏方だ」
 返事を待たずに傭兵は踵を返した。中庭らしきその狭い空間を、壁伝いに進む。ライヒアルトとリカルダも、慌ててその背を追った。
 細い道を、風が唸り声をあげながら通る。怨嗟の声にも似ていた。
 不意に、つん、とマントを引かれる感覚。振り向くと、リカルダが非難のいろの混じる表情を浮かべてこちらを見上げていた。
「……アルトくん、今回は先に進む手掛かりになったけど……さっきの、お墓を暴くようなものだと思う。よくないわ」
「ごめんって」確かにそうだ。気まり悪げに頬を掻く。「……そうだね、あんまりよくなかったね。ごめん」
 その答えは、思わぬ所から返ってきた。
「生きる為、進む為に必要な事を恐れる必要が何処にある」振り向かぬまま、傭兵の重低音。「――お綺麗な志で行動を制限するのも結構だがな。……そんなんで足引っ張られちゃあ、たまらねえ」
 きれいごとを言うならば理想を抱いて死ねと、――傭兵はそう言っているのかもしれない。少女が顔を伏せた。
 ライヒアルトは天を仰ぐ。
 そうなのかもしれない。けれど、死者を悼む気持ちを抱く事がそんなに悪いことだろうか。――分からない。
 自分よりも、リカルダよりも、死線を潜り抜けて生きてきただろうこの傭兵は、生きる為に何を犠牲にしてきたのだろう。
 言い返す言葉を、ライヒアルトは持っていなかった。