きれいごとを語ることの、何がいけないのだろう。
 リカルダは小さく嘆息した。ちらりと傭兵の背に視線を向ける。中庭の突き当りにある小さな倉庫の扉を、先程手に入れた鍵で開けようとしている彼は、先程のことをどう思っているだろう。何も、思ってはいないだろうか。
 彼の母親の墓標の懐から拾い上げられたその鍵。それの入っていた小箱を幼馴染のライヒアルトが手に取った時、リカルダはそれを思わず咎めた。眠れる死者を、侮辱しているように思えて。
 他者を尊敬し、大切にしなさいと養父母に教えられて育ってきた。全てを己のもののように思ってしまってはいけないのだと。それはきっと、良心というものだ。それがきれいごとだと跳ね除けられてしまうなら、わたしは何を抱いて生きていけばいいのだろう?
 そこまで考えて、僅かに頭を振る。それはきっと、穏やかな田舎の村に生きるひとりのただの小娘の考えにすぎないということなんだろうか。確かに、自分は甘い。小虫を殺すことさえ躊躇ってしまう弱さは、傭兵にとっては、偽善という名の弱さなのだろう。
 時折、自分はずるいのではないかと思う。誰かを傷付けるということから逃げているのではないか、傷付けるということを幼馴染のライヒアルトや傭兵ジークムントに押し付けて、自分はきれいなままでいたいのではないか。だから、治癒魔法を使う。誰かを癒す優しい力は、誰も傷付ける事が無いから。
 いや、違う。傷付けない事が、間違っている訳が無い。だけど。――答えの出ない問答だ。頭を振る。
 分かっているのは、ひとつ。いつまでも、そうやって傷付ける事から逃げてはいられない。このままでは、足手まといにしかならない。傭兵に認められる為には、役に立たなくちゃ。もっと、もっと。
 きっと、ジークムントは彼の母親の墓所だからあのように振る舞ったのだ。彼女への憎悪もあっただろう。息子である自分がそれを手にすることは何もおかしい事ではないと考えたのかもしれない。
 けれど、それは――ジークさんの嫌いなお母さんと、していることが一緒だわ、とふと思う。ジークムントの母親の安息は、彼のものではない。感情に任せて他の領域を侵そうとするということ、ジークさんの一番嫌うこと、それは――ジークさん、そのものだわ。
「――リカ、ほら、扉開いたよ。行こう?」
「え、あ、う、うんっ」
 幼馴染のライヒアルトの優しい声に、不意に現実に引き戻された。何を考えているのだろう。きっと先程のジークムントの物言いに自分は釈然としないものを感じていたのだろう。まるで、彼を否定する言葉を探しているよう。そんな自分は、嫌だった。かぶりを振る。
 顔を上げると、不思議そうに目を見開いてこちらを見詰めていたライヒアルトがにこりと笑った。ぎこちなく笑みを返すと、「行こう」と彼は踵を返した。その背を追いながら、ふと考える。
 アルトくんは、さっきのジークさんの言葉、どう思ったかしら。
 訊くに訊けない。少なくとも、この傭兵がいる前では。また呆れられるのも、怒られるのも嫌だった。嫌われたい訳では、ない。
「おい、小姑。明かりくれや」
 件の傭兵が僅かに振り向いて言った言葉に、リカルダは慌てて呪を紡ぎ、魔法の光を生み出した。それを操り、すいっと倉庫の中へ滑らせる。それを頼りに倉庫を漁るジークムント。その傍らまで進んだライヒアルトが、ひょいと彼の手元を覗きこむ。
「――何かありそう?」
「わかんねえ、が……お、これか……?」棚を調べていた傭兵は、彼の高い身長の腹ほどの位置まで屈み込み、棚の低い位置に載っていた一振りの剣を取り出した。鞘に刀身の包まれたそれをしげしげと眺める。「――見た事ねえな。俺が出て行ってから造ったモンか?」
 細身の剣だった。剣を片手に倉庫から出、ジークムントは鞘から刀身を抜き放った。照る陽をうつす抜身の剣は、まるで澄んだ水面のように美しい。月をうつしたなら、ぞっとするくらい美しく冴えるだろうと、リカルダはふと思う。刃物に対して美しいだなどと思う日が来るとは思わなかった。それほど、見事な逸品だった。
 ジークムントがおもむろにその剣を構えたのを見、リカルダは慌てて飛び退った。しかし、振る気配は無い。
「おい、アルト、退けよ。小姑の方が反応が速いじゃねえか、おい」
「え? あ、ごめん。構えてみただけかと思ってた」
「振るわ、あほ」
 笑って、ライヒアルトが傭兵から距離を取る。リカルダは嘆息した。ぼんやりしてるんだから。
 ライヒアルトを退けて気を取り直したように傭兵は剣を軽く振る。
「――軽いな。俺の戦い方にゃ向かねえ」
「なんで?」
「俺は重量で押し切る方が好きなんだよ」小首を傾げる青年の問いに答えながら傭兵は軽く刀身を叩く。きいん、と澄んだ音が響いた。「――魔力の宿った鉱石だな。対精霊には使える」
 ライヒアルトは目を輝かせるのを見、傭兵は薄く笑ってみせた。抜身の剣を鞘に収め、その剣をライヒアルトに突き出す。
「お前の今持ってる剣よりゃ、魔力への干渉力が強い筈だぜ。お前の今持ってるやつは、護符で強化してあるだけだからな」
「よく、わかんないけど……護符で強化するのと、何か違うの?」
「まあ、強くなるっつうことだ。今お前が持ってる奴は護符が砕けりゃただの剣だが――」傭兵は今一度剣を突き出した。「こいつぁ、違ぇ。素材から、魔力剣を作る為に打ってんだ」
 ふうん、と生返事をしながらライヒアルトは突き出された剣を受け取る。そしてそれを持ち上げて感嘆の声を上げた。
「わ、軽い」
「だろ。お前は身が軽いから、そっちの方が合うかもしれん」
 嬉しげに鞘に収めたままの剣を軽く振ってみせるライヒアルトに、傭兵は薄く笑った。その表情に気付き、ライヒアルトは「ん?」と首を傾げる。
「……これも、親父の打った剣だ。親父はもう、何処にいるかもわかんねえ。だが、お前に使ってもらえりゃ、此処に眠ってるよりゃいい。剣も浮かばれるっつうもんだ」
 そう言って軽く目を伏せた傭兵に、ライヒアルトは目を丸くした。
 どこか、懇願するような響きのある声。リカルダも思わず戸惑い彼を見上げる。彼の目は、伏せられたまま。
「……俺ぁ、どこの誰とも知らねえ馬の骨に持たれるより、お前に持ってて欲しいと思うんだ」
「俺、に?」
 戸惑うようないろを浮かべたライヒアルト。傭兵は頷く。
「理由なんざ訊くなよ。……なんとなく、だ」
 傭兵は暫く、顔を伏せたままだった。しかし、やおら顔を上げるとライヒアルトの方へ手を突き出した。「――さて、今までお前が持ってた剣、寄越せ。邪魔になるだろ。しまっとこうぜ」
 もう、彼の顔に弱ったようないろは浮かんではいなかった。戸惑うようにしていた青年もおずおずと頷き、今まで腰に下げていた剣を差し出す。傭兵はそれを受け取り、倉庫にしまうと鍵を閉めた。
 ちゃらり、と小さな鍵を指先で摘み、傭兵はそれを睨む。
「また墓にしまっとくのが妥当か。それとも俺が持ってるか」
 リカルダが傭兵の掲げる鍵を見上げた、その時だった。
 鈍色の空の向こうにちいさな影がひとつ、浮かんでいた。横切る影は翼を広げ、空を泳ぐように優雅に羽ばたく。唸る風にも似た咆哮と、空を切る鈍い羽ばたきの音。
 瞬間、リカルダは身を竦ませた。本能が、警鐘を鳴らす。
「竜……?」
 ライヒアルトの震える呟きに、傭兵は身構え目を見開いた。
 こんな鳴き声は聞いた事がない。こんな大きな羽ばたきの音も、聞いた事がない。震える空気に、杖を握りしめる。だめ。あの生き物は、危険だわ――!
「――あんッの野郎ッ、ぬけぬけと……ッ!」
 唸る風音とその姿を見失うよりも早く、傭兵が身を翻していた。
 駆け出すジークムント。リカルダがはっとして幼馴染のライヒアルトに目を遣ると、彼も困ったようにちらりと彼女に視線を寄越し、そしてすぐに傭兵の後を追い駆け出す。リカルダも慌てて続いた。




 傭兵は逆上しているようだった。滅びの故郷の惨状を目の当たりにした衝撃は、彼の中で捌け口を探して燻っていたのだろうか。思わず、ライヒアルトは傭兵の背に向かって叫ぶ。
「落ち着いてよジーク、通りすがっただけかもしれないじゃない!」
「だから何だっつうんだよ、俺ぁムカついてんだよ、街をこんな風にしくさった野郎によッ!」
 ジークムントが苛立ちを抑えきれない様子で吠えた。制止も虚しく前を駆ける傭兵の背を追い、ライヒアルトはなおも食い下がる。
「だけど、追ってどうする気なの!? それに、あの竜が街をこんな風にした訳じゃ――」
「相手が誰だろうが同じだろうがよ、竜の軍勢は竜の軍勢だ。あいつをシメて親玉吐かせてやろうじゃねえか、この野郎がッ!」
 駄目だ。――ライヒアルトは頭を振る。
 もしあれが竜で、傭兵が竜を問い詰めたとしても、関係を拗らせるだけだ。彼は逆上しきっている。何を言い出すか分からない。俺がしたいのは、世界のわだかまりを生んだ大本を突き止めて、関係を作り直すことなのに。これでは、駄目だ。
 何と言ってみるべきかライヒアルトは暫し思考したが、どちらにせよ、走って追ったところで竜に追いつけるものではない。傭兵の気が済むまでついていくしかなさそうだった。
 背後で荒い息をつきながら、幼馴染の少女リカルダがやっとのことでついてきている。彼女は体力が無いのに。無理しないで待ってて、と言いたかった。けれど、傭兵に止まる気配がない以上、自分も立ち止まることは出来ない。彼女を一人待たせておいたところで、どこから現れるともしれぬ魔物に襲われてしまうかもしれない。
 既に一行は街外れまで来ているようだった。この街に外壁は無いが、家並みがまばらになってきている。
 空を仰ぐと、竜と思わしき影は僅かずつではあるが高度を下げているようだった。地面に下りるのだろうか?
「ジーク、この先には何があるの!?」
「――鉱山だ。鉱山の方に奴は向かってる。大方、魔物の親分気取りなんだろうよッ!」
 ライヒアルトは前方に目をやる。見える鉱山らしきものはさほど遠くはないが、近くもない。走って行くには体力がもつかどうか微妙なところだった。少なくともリカルダは力尽きてしまうだろう。
「様子を見よう、ジーク、鉱山に下りるならそれでもいい」荒い呼吸に言葉を乱されながら、ライヒアルトは前方の傭兵に向かって叫ぶ。「住処が分かってるなら、ゆっくり進んでも構わない筈だよ、ねえ。こんな所で体力使うのは――無駄だ、そうでしょッ!?」
 彼の言葉が届いたのか、否か。傭兵が足を止めた。
 ライヒアルトも足を止めた。はあ、はあ、と肩で息をし、暫く息を整える。全くジークは、火が付いたら、止まらないんだから。
 やっとのことで追いついたリカルダが、よろよろとしゃがみ込んだ。胸のあたりを抑え、苦しそうに引きつった声混じりの息を吐きながら、少女は乱れる呼吸を整えている。ライヒアルトは幼馴染の少女に近寄り、軽く背中を撫でてやった。
 ジークムントは、他人に歩調を合わせない。それが悪いとは言わないが、少女が文句ひとつ言わないでついてこようとするだけに、何だか痛ましい。ライヒアルトはちいさく嘆息した。体力が無い彼女に合わせていては旅もままならないだろうが、それでももう少し気遣ってやりたいのに。ちらりと、傭兵に視線を向ける。彼はただ、じっと先に横たわる鉱山を凝視している。
「――ジーク、竜はどう? 鉱山に下りそう?」
「ああ」
 視線の先には、ぬけるような青空が覗いていた。空に踊る、美しい瑠璃色をした翼ある巨躯。その姿は挿絵で見たままの竜の姿。
 竜はそのまま、ゆっくりと優雅に山の方へ降下する。邪悪な生き物というよりは、優美な印象。そして、その背に――
「ジーク……人が、乗ってる、ような、気が……しない?」
 ライヒアルトは唾を飲み込んだ。目を凝らす。何度見てもその背には、小さな影。
「……フォルツ鉱山に、竜使いが棲んでる、だと……?」
 ――《竜使い》。旅立つ前に読んだ本が脳裏を過ぎる。
 確かそこには、竜使いは竜を使役するのではなく、竜と共に生きる種族だったと書いてあった。しかし――
「アルト、くん。竜使いは……人間、なんじゃないの? 竜使いも、人間を、滅ぼそうとしてるの? 人間は、どうして、……何に、滅ぼされようと、してるの……?」
 リカルダの問う声は、未だ乱れたまま。ライヒアルトは竜の姿から目を離せぬまま、ただ黙り込んでいた。そんなことは、分からない。竜族が人間を排除しようとしたのにはきっと理由があると思っていた。知りたいと思った。けれど、人間である竜使いまで人間を滅ぼそうとしているだなんて。
「――アルト。行くぞ。俺ぁ腹の虫が収まらねえんだ」ジークムントの重低音。「首根っこ引っ掴んで、問い糺してやらあ」
 行ってどうするんだ、竜と戦って勝てると思ってるの、ねえ。
 掛けようとした言葉が、かたちにならないまま口の中で虚しく掻き消えた。胸の奥がざわりとする。
 ライヒアルトは胸のあたりをぐっと抑える。不安と恐れに、知らず体に震えが走る。怖かった。今も視界に舞う竜という生き物に対してだけではない。人間を滅ぼそうとしているのが同じ人間であるという可能性が、おぞましくてならなかった。人間が人間を憎む理由。それは?
「……アルトくん、世界大戦って……何、なの?」
 リカルダの声に、かぶりを振る。
 世界大戦。五十年続いた、高等種による人間に対する迫害。それに立ち向かった人間たち。人間は手を取り合い、それでも高等種には敵わず今は身を寄せ合ってひそやかに生きる。人間は、被害者の筈だった。けれど、もし、人間である竜使いが人間族を滅ぼそうとしているのなら――戦っていたのは、誰と、誰? どうして、戦いは起きた? 人間は――本当に、被害者なのか?
「分からない。……それを、知る為に此処まで来たんだ」
 ライヒアルトはまっすぐに前を見据える。
 聳え立つ鉱山。その奥に何が待っているのか、未だ分からずに。
 その体を襲う震えを抑える事は、暫く出来そうになかった。