「さあて、と」ジークムントは広間の壁面を前に、踏ん反り返るようにして腕を組む。「探せ探せ、愚民ども」
「ジーク、それ何の真似?」
「知らん。言ってみたかっただけだ」
 傭兵は満足げに腕組みを解くと、軽く壁に蹴りを入れた。僅かにぱらぱらと小さな欠片が崩れ落ちた以外に、特に壁面に変化は無い。
「……まぁ、普通に壁だわな。頑丈だわ。……っつっても、何かあるに違いねえんだ。おい、手分けして調べるぞ」
 自身の立てた仮説に絶対の自信があるらしい。傭兵の号令に、ライヒアルトとリカルダは僅かに顔を見合わせ、ちいさく肩を竦めた。
 ――結局あの後、立ち直ったリカルダがその場に立ち上がった瞬間、首なしの蜥蜴人を発見してまた絶叫したという一幕があったものの、ジークムントが剣を拭いていた布をかけて隠すということで一応の決着を見た。しかし当然といえば当然だが、状況的には何も変わっていない。変わっているとすれば、魔物が襲って来ないということくらいだろう。だが、その点だけでも幾分か状況はましだろう。多少戦いに慣れてきたとはいえ、やはり可能な限り戦いは避けたかった。正直なところ、前衛を担うライヒアルトも、幼馴染の少女を護り抜く自信はあまり無い。
 いつの間にか、リカルダも壁面を調べ始めていた。しっかり魔物の遺骸の無い方を陣取っているあたり、意外にちゃっかりしている。
「また魔法の仕掛けとかかなー。だって、精霊って物体を越えられる筈じゃない。なのに、此処を抜けられなかったわけでしょ」
 ライヒアルトの疑問にリカルダが振り返り、んー、とちいさく首を傾げた。
「そういえば、そうだね。その精霊がこの壁を越えて向こうに行かないなんて、変」
「ま、本当に魔物どもがこの壁を越えようとしていたら、の話だがな」ジークムントは振り向きもせずに答える。「案外皆仲良くここに住んでたのかもしれねえし。そしたら壁抜けの必要もねえ」
「えー、それじゃ俺たちスゴい悪者じゃない? それに、竜使いを探しにきたのかも説、ジークも推してたじゃん」
 そうだっけか、とそ知らぬ顔で答えるジークムントに、ライヒアルトは思わず天を仰いだが視界にうつるのはむき出しの岩肌だけだ。神様にも届かない。などと考えたが、すぐに首を振った。今はとりあえず調査が先だ。壁を調べていると、リカルダが小さく唸った。
「魔力の感知とか、出来ないかなぁ……うーん」
「魔力の感知?」
 鸚鵡返しに問うと、少女は顔を上げてことりと小首を傾げた。
「もし魔法が関与してるなら、その痕跡だけでも分かればなあって思ったの。闇雲に探すより、魔法が使われてるかそうじゃないかくらいだけでも分かったら楽でしょ?」
「確かに。……でも、そんなこと出来るの?」
 訊ねると、少女はまた難しい顔をして俯いた。少なくとも、今の彼女にその術はないらしい。
「魔力感知なあ……」傭兵が振り向き、壁に背を預けて腕組みをする。「……発想はいいと思うがな。なんだ、その、魔法使いっつうもんはそういうの感じられねえのか? 気配探るみてえによ」
 傭兵の言葉に、リカルダは困ったように小首を傾げ、うぅん、と呻った。傭兵は、ぴっ、と人差し指を立ててみせた。
「出来ねえなら、今試してみろよ。あれだ、精神を集中させる、みてえなよ。何かあんだろ、そういうの」
 少女が、えぇえ、と小さく呻いた。言うのは簡単だが、やる方としてはまた別の話なのだろう。ライヒアルトは小首を傾げる。
「俺わかんないんだけど、魔法使う時ってどういう感じなの?」
「う、うまく説明できないよぅ……」リカルダが弱りきった声を上げた。そのまま彼女は困ったようにおろおろと視線を彷徨わせる。――そして。「……あら?」
 どうしたの、と訊ねるライヒアルトに、彼女はその細い指をジークムントの方に突き出した。指を突き付けられた傭兵は、訝しげに片眉を跳ね上げる。
「んだよ、小姑。俺になんかおかしい所でもあるっつうのか」
「ジ、ジークさんじゃなくて、あそこ、壁の下の方」少女は弁解するように慌てて首を振り、指先で視線を促す。「変な紋様があるの」
 傭兵は僅かに目を見開くと、背後の壁を振り向き片膝をついた。少女は歩み寄り、もう一度壁を指差す。その指の先、少女の胸元ぐらいの高さの位置に、不思議な図形の羅列。ライヒアルトはすぐ傍まで近寄り、屈み込んでそれを覗き込む。さほど長くはないその羅列は、文字のようにも見えた。
「これ、ええと――神々の言語=H」
「ううん、違う……」屈み込んだまま見上げて問うと、彼女はふるふると首を横に振った。「でも、これ……ううん、似てるわ。神々の言語≠ノ、似てる。だけど……」
 ぶつぶつと彼女はひとり考え込む。その様子を、ジークムントは屈み込んだまま暫く黙って見ていたが、再び壁面に視線を戻す。
「しっかし、よくこんなん見つけたよな。俺全然見えなかったわ」
 傍らのライヒアルトにぼそりと呟くジークムント。背の低いリカルダにとっては胸元の位置だったが、背の高いジークムントから見ればその紋様は腰ほどの高さだ。ぱっと見には目につかないだろう。ライヒアルトは、あはは、と無邪気に笑った。
「リカ、ちっちゃいからねえ。背の低い子の特権だよね」
 間髪入れず、少女に頭を叩き落とされた。

  †

 不意に感じたのは、恐れ――だったのかもしれない。
 何かが音を立てて壊れて崩れ去ってしまうような、変わりゆくものへの底知れぬ恐怖。
 遠く、微かに音がする。
 少年はその細い顔をすっと上げた。微かな陽光が、その肌を僅かに照らす。まるで光に透けて溶けて消えてしまいそうに病的な白い陶器のような頬に、繊細な睫毛の影がおりる。
「大丈夫だよ、シャハル」
 傍らに身を横たえる、そのやわらかな羽毛に覆われた巨躯が、少年の声に応えるように僅かに身を起こし、小さく高い声を上げた。少年はその繊細な長い指で、軽くその巨躯の主の頭を撫でる。僅かな陽光をに縁取られたその毛並は、深緑から瑠璃色へとうつる美しいグラデーション。不意に、それはゆっくりと目をひらく。琥珀にも似た美しい金が、ぐるりと視線を巡らし、己を撫でる少年の顔を見た。
「大丈夫。……大丈夫だから」
 その言葉はきっと、己に言い聞かせているだけなのだろう。
 そう、思った。思いながら、認めたくは無かった。その恐怖を認めてしまった瞬間、本当に全てが崩れ落ちる気がして。
 少年の恐れを嗅ぎ取ったのだろうか、その夜明けの色にも似た美しい竜がのそりと頭をもたげ、まるで少年を宥めるようにその鼻先を押し付けた。




 リカルダはひとつ、咳払いする。
「――多分、これは陣術用の形なんだわ。神々の言語≠元にしてるものだと思っていいと思う」
 彼女は壁の図形をその細い指先で軽くとんとんと叩いた。首を傾げるライヒアルトは分かっていない様子だ。リカルダは補足する。
「えっとね、陣術っていうのは、紋様や文字を刻んで、それを魔術の発動結界として指定するものなの。リヴェーラの塔の転移装置も、多分陣術の一種だと思うわ」
 本で読んだ事があるだけだから詳しくはわからないけど、と彼女は小さく付け加えた。屈み込んだままの傭兵が低く唸る。
「つまり、ここは魔術の発動結界になってるっつうことだ。……いよいよ、きなくせえな、こいつは」
 紋様を睨み付けているジークムントに、少女は頷いてみせる。
「ただ、今もその発動者がここにいるかは、わからないですけど……陣術は、発動結界それ自体が効力を持つ事があるから。……それがいつまで長続きするかはわからないけど」
「どういう術なのかって、分かる?」
「……自信はないけど、多分、障壁……だと思うわ。物理的な干渉を弾くものだと思うの」
 ライヒアルトの問いに少女が答えると、ジークムントが訝しげに片眉を跳ね上げた。
「だがよ、さっき蹴り入れたらちいっと崩れっちまったが。あれでも物理干渉を弾いてるって言えんのか?」
「う、うぅん……でも、文字の組み合わせとしてはそういう感じだったし、多分」
 途端に少女が自信無さげに両手で杖を握りしめた。恐らく、心許ない時の癖なのだろう。ライヒアルトは僅かに首を傾げて、問う。
「解除する事って出来るの?」
「刻まれた文字を破壊出来ればそれが一番だと思う」
 少女の言葉が終わるのを待たずに、ジークムントが立ち上がる。広間の隅に捨て置かれた荷車の中から握り拳二個大程の石を取り上げてから戻ると、そのまま紋様へ振り下ろした。紋様の刻まれた位置に確かに食い込んだ筈のそれは、しかし紋様を傷付ける事も無く。
「……こぼれもしねえな」ジークムントは石で壁をがりがりと引っ掻く。「さっき壁を蹴った時はこぼれたっつうのに」
「そっか、もしかしたら……、陣術用の図形それ自体に物理障壁がかかってたら破壊出来ないんだわ……」
 少女はきゅっと杖を両の手で握る。困ったように、屈み込んだままのライヒアルトにちらりと視線を落としてくる。青年は立ち上がり、頭を掻いた。
「うーん……じゃ、魔法で壊そうよ」そして、名案を思い付いたように表情を明るくして、ぽん、と手を打つ。「あ、あれ、あれ使おうよ。じいちゃんが拡張工事する時の」
「穴掘る魔法?」
 そうそれ、と頷くライヒアルトに、少女は考え込む。
「精霊が通れないってことは、多分何らかの形で魔力障壁もかかってるとは思うし、弾かれるかもしれないけど……やってみるだけやってみよっか。……ちょっと待っててね」
 少女は背嚢から呪文書を取り出し、詠唱を始めた。養父の口から聞いた事のある響き。きっと養父も得意としていた地術を娘の為に呪文書に書き連ねたのだろう。
「――壊岩破(エクスカベイト)」
 少女が杖を前方につき出し発動の呪を唱えた瞬間、尖った円錐型をした岩のようなものが現出した。それはそのまま、眼前の壁面を抉る――かと思いきや、そのまますっと突き抜けてそれは消えた。ライヒアルトが目を丸くして首を傾げる。
「あれ、だめだね。消えちゃった。これが魔力障壁ってこと?」
「よくわからないけど、失敗なのかなぁ」リカルダも困ったように小首を傾げた。ライヒアルトの方を見上げてきたその顔は、眉を顰めて不思議そうだ。「全然、かすりもしなかったね。魔法が失敗した感じはしなかったんだけど……」
 うーん、と首を傾げ、ライヒアルトは眼前の壁面、円錐の消えたその場所をじっと見据えた。一体、どういう――
 不意に、ばきばきという木の裂けるような音が響く。
 刹那、眼前の壁面が消失した。
「……へっ……?」
 ライヒアルトの素っ頓狂な声。他の二人も言葉を失っている。幻が消え去るように不意に消失したそれを眺め、ライヒアルトは目を瞬かせた。何が起きたのか、理解が出来ない。
 正確に言うならば、壁が全て消失したわけではなかった。紋様の刻まれていた付近、丁度人が二人通れるほどの幅の壁面だけが消え、細い通路が伸びている。その通路の高さはちょうど、ライヒアルトの頭二つぶん高い程だろうか。遠く、奥の方から仄かに光が差し込んでいる。現れたその通路を前に、狐に化かされたような気分で狼狽しながら、彼は仲間の方に振り返った。
「……道、出来たね?」
 リカルダは目を見開いたままだ。目どころか口許もぽかんとあけたままである。ジークムントは暫し眉間に深い皺を寄せた後、ぽり、と頭を掻いた。
「――よく、わかんねえが、まあ……そうだな」
 少女は未だにぽかんとした表情を浮かべている。開いた口が塞がらないとはこのことを言うらしい。暫くそうしていた後、少女はこれ以上曲がらないのではないかと思うほど、首を捻った。
「な、なんでえ……?」
 そんな事が分かる筈も無い。少女の不思議そうな声に、ライヒアルトは困ったように笑い、頬を掻いた。




 何かが砕け散る音がした。
 竜が、その金色の瞳をぐるりと巡らせた。警戒にひかるその瞳に、傍らの少年は目を見開く。
 幾十年破られることの無かった静寂が、音を立てて崩れ始めた。
 少年は立ち上がる。傍らの竜が、それに付き従うように頭を持ち上げ、その前肢で地を踏む。
「――シャハル。ついておいで」
 竜は咆哮する。
 踏み出す少年の後を、その巨躯はゆっくりと追った。




「――ねえ、さっき聞いた声がする」
 後方のライヒアルトの声に、リカルダは振り向いた。眉を顰める。
「竜の声……ってこと?」
「分からないけど……風の音じゃないよね、たぶん」
 細い洞窟に吹き込んだ風の音が竜の声に聞こえた、という逸話はいくつも耳にしたことがあるが、地を這い、うなるようなこの声は、そのような音には聞こえなかった。竜の咆哮と呼ぶに相応しい声。
 思わず震える。彼女の代わりに、前をゆく傭兵が低い声で答えた。
「何か居やがるな。……光が近い。気を付けろよ」
 男の言葉に、前方に目をやる。伸びる通路の先に差していた光が、先程よりもずっと近付いていた。道の終わりも近いのだろう。光が現れた為、既に少女は光の魔法を消している。通路の先の僅かな光でも進む事が出来るようになった為でもあるが、恐らくこの先いつ襲われるとも限らないからだろう、と彼女の緊張した様子から察する。光魔法を展開している間は、他の呪文を扱えない。
 狭い通路に、声はよく響く。自然、一行の声は小さくなった。反響する足音と、傭兵の背負う剣が揺れる音。何か居た堪れない気持ちになりながら、リカルダは極力足音を潜めようと務める。この静寂を打ち破る事に、不思議な罪悪感さえ抱いていた。そして、言い知れぬ恐怖。この静寂を乱す事に慣れてしまった時、気配を感じようと意識する事を怠ってしまった時、ふっと気付かない内に魔物が現れてくるのではないかという不安に、自然と少女の杖を握る手に力がこもった。
 辿り着いた道の先、砕け散った何かの隙間から光が差す。その歪な輪郭は何だろう?
「さっきの小姑の魔法がぶっ壊したの、これだな、多分」
 ジークムントが注意深くその歪な輪郭を観察する。その歪で尖ったものは、木片――に見えた。恐らくは、扉のような。
「もしかして、さっき消えた壁、この扉に関係があるのかな。あの壁は幻術で、これがその術の発動の要だった、とか……」
「かもしれないね。でも、リカはそれを破ったんだ。すごいよ」
 少女は口籠った。とんでもない。破ったからどうだというのだ。実体の無い幻に刻まれた陣術から物理障壁を展開するだなんて、恐ろしい芸当であるようにリカルダには思えた。だとすれば、この先に居るのは、優れた魔術師だ。その危険性を僅かながら感じ、少女は身を震わせる。そんな彼女をよそに、扉のようなものの右手の方についた取っ手にライヒアルトが触れる。
「ドア、かな。ノブがある」
「退いてろ」
 傭兵の言葉に、ライヒアルトとリカルダは数歩下がる。傭兵は軽く足を持ち上げ、事も無げにドアに叩きこんだ。ばきりと音を立て、崩れ落ちるドア。竦み上がる青年と少女。少女は恐る恐る、訊ねる。
「……壊す必要、ありました?」
「馬鹿言え。景気付けだ。得体の知れねえ相手と戦う時にゃあ最初が肝心なのよ」
「でも、刺激しちゃったら――」
 少女がぼそぼそと抗議の声を上げた、その時。
 咆哮。近い。空気を震わせるそれに、一行は身を竦ませる。
 一行は弾かれたように視線を声の方へ。おぼろげな光を遮る大きな影。僅かな光をその琥珀の瞳に宿らせ、巨躯はただこちらを見据えている。得体の知れない影に、思わずライヒアルトは唇を噛んだ。低く唸るような声は、こちらを警戒しているとしか思えない。そして、此処へ来た経緯を鑑みるに、この巨躯は間違いなく竜だ。竜などと相まみえることなど、初めてだった。経験は、何も役に立たない。そうだ、追うということは出会うということ。どうしてそれに気付かなかったのだろう。自分たちはここで殺されてしまうのだろうか。それとも、竜と出会うことを好機に出来るだろうか?
「……シャハル。落ち着いて」
 まとまらない思考を縒り合せているうち、ふとその竜の前に佇む小さな影がすっと手を上げた。竜は、その中性的な声に従うように声を潜める。そんな事が出来るのは、紛れもなく竜使い≠セ。
 この人物の出方次第で、自分達の処遇はどのようにでも変わる。表情を窺って見るも、よく見えない。が、光に縁取られたそのシルエットに、明らかなる違和感。
「……角……?」
 頭部に伸びたふたつの角。人ならざるそれを見、ライヒアルトの声に、緊張が滲む。ジークムントが背に負った大剣に手を掛けた。リカルダの杖を握る手に力がこもる。
「――お前達は何者だ」
 角を戴く小さな人影が、澄んだ中性的な声で問う。まるで、まだ年若い少年のような声。
 その人影の瞳も、背後の巨躯と同じ琥珀に似た金のいろだった。