殺戮姫。――耳慣れぬその響きに、体が震えるのを自覚する。そんなライヒアルトを一瞥し、竜人は醒めた瞳のまま続けた。
「――他の《エヴァ》達は、爆弾みたいなものだった。彼ら自身自分の力を制御出来なかったから、不安定になれば力を暴走させて甚大な被害を出した。それは、高等種達を脅かしたけど、人間たちにとっても賭けだったんだと思う。でも、殺戮姫は違った。あの女は、完全に自分の力をものにして――そして、その意のままに竜族を屠った。本当に恐れられていたのは、その才覚だ」
 ライヒアルトの脳裏に、以前絵姿で見た黒蝶姫が浮かぶ。絵姿の彼女は、美しく柔和な笑みを浮かべていた。その姿と、殺戮姫という名とを重ねることが、どうしても出来ない。
「あの女の力は、異常だった。次第に、人間達もあの女を持て囃し始めた。戦場でのあの女の姿なんて知らない能天気な人間達は、あの女を英雄だとはやし立てた。あの女の絵姿を人間の都市で見た事がある。……随分、優しげに描いたものだと思ったよ。あの女が悲鳴を聞き、血を見て嗤う時の瞳は、紛れもなく殺戮者の瞳だった。一度、僕も見た事がある。――背筋が凍りつくようだった」
 浮かんだ景色を消し去るように、竜人トゥーレは目を伏せる。
「あの女が戦場に降り立ったが最後、立ちはだかるものは誰であれ屠られた。そうして続いたカミラとの戦いで、竜も数が少なくなった」そして、傍らの瑠璃色の竜の鼻先を軽く撫でる。「この仔は貴重な竜の仔だ。まだ、若い。……僕が地図を描いた頃、一緒に空を駆けた竜から託された仔だ。そして、かつての愛竜ももう、いない」
 そのまま、竜人は憎悪の籠った瞳でライヒアルトを睨み上げる。
「僕の愛竜は、人間に殺された。殺戮姫、カミラにだ。……人間達があんな者を持ち出さなければ……」
「それ、は」
 ライヒアルトは口篭る。そんな事を言われてもどうしようもない。自分は、黒蝶姫=\―いや、殺戮姫カミラではない。けれどそう言った所でその言葉が竜人に響くとは思えない。それに、彼自身、真実を知らず、嘘を信じ続けていた。同罪なのではないかと、ふと思う。いや、彼の語る言葉が真実かどうかさえ、自分には分からないのだ。何を信じていいのか、分からなかった。唇を噛み、俯く。
 俯き口籠った彼の代わりに口を開いたのは、傭兵だった。
「――確かにはじまりは人間だったんだろうよ。だがな、それから何年経ってると思ってやがる。五十年だ」低い声で言い放つ傭兵ジークムントに、トゥーレが強張った顔を向けた。「てめえらは長い長い寿命があるだろうが、あの頃てめえらに戦いを仕掛けた連中の殆どは、もういねえ。今生き残ってるのは、戦乱の時代に生まれて戦乱の時代しか知らねえやつが大半だ。俺達は、俺達だ。過去の人間なんざ知らねえ。人間なんつって、ひとくくりにするんじゃねえ」
「だから何だって言うんだ。……自分たちは関係ない、だから自分たちに罪がない、と――そう言うつもりなのか?」
 聞いているライヒアルトも、どちらの立場に立つべきなのか分からないでいた。トゥーレの言い分も、ジークムントの言い分も、どちらもよく分かる。自分には与り知らぬこと、と切り捨てる事も出来る立場だ。だが、そうして切り捨てたところで、憎み合う道しか残されていないのではないか。選択しきれぬままに、弱った視線を傭兵ジークムントに向ける。
 傭兵は歪む表情を抑えるように、口許を真一文字に結んでいた。平行線の会話に苛立っているのだろうということが明瞭に分かる。その引き攣った苛立ち混じりの表情に、竜人は僅かに怯んだように唇を噛んだ。
「……俺達が土下座すりゃあそれで満足か。罪が消えるとでも? だがな、俺達が全面降伏したところでお前の気が晴れるとは思わねえがな」
「……何故だ」
「人のせい、人のせい、つってよ。てめえには自分のせいってもんがねえんだろうな」
 僅かに狼狽の色を見せる竜人に、ジークムントは歪んだ笑みを浮かべて顎をしゃくった。
「てめえ、さっき自分の描いた地図を戦争の道具にされたっつったな。本当のとこ、お前は自分の地図のせいで戦争が起きたと思ってるんじゃねえのか。そうでなきゃあ、こんな辺鄙な所に引き籠ってる理由がないよな。どうなんだ、ええ?」
「――っ、うるさいッ!」
 竜人の瞳が金色に煌めく。厭わしげに腕を横に払う動作と同時に、虚空に金色に煌めく紋様が浮かび上がる。瞬間、傭兵の体が弾き飛ばされた。思わず「ジーク!」と声を上げるが、ジークムントはすぐに体勢を立て直し立ち上がる。そして、腕を払った体勢のまま、目尻を釣り上げて息を荒げる余裕の無い様子の竜人に向かって、傭兵は不敵に笑ってみせた。
「おら、いいぞ。やっと本性が出てきたようだな」相手を挑発するようなにやりとした笑みに、竜人はぐっと唇を噛む。「図星を突かれたってとこか? やっぱりそうなんだろうが。お前は、高等種共から戦争を引き起こした厄介者として爪弾きにされたんだろ、え?」
「うるさいッ!」
 竜人トゥーレの足が苛立たしげに地を踏む。彼に余裕が無くなれば無くなるほど、傭兵の笑みは深くなる。彼は続けた。
「どこの集落にも属せずに独りっきりでこんなとこに隠棲してるっつうのはそういうことなんだろうが、ええ? それを、あれが悪いの、これが悪いの、そうやって誤魔化してるだけなんだろうが。お前の中にはお前の嫌いな人間の血が流れてんだよ。それさえ否定して、自分は悪くねえっつう面しやがってよ」そこまで言い切ると、傭兵は俄かにその顔から笑みを消した。代わりに、苛立たしげな、憎々しげな険しい表情で竜人を睨み付ける。「――逃げてんじゃねえよ。気に入らねえんだよ、てめえみたいな奴はよッ!」
「――っ、うるさい、うるさい、うるさいッ!」
 傭兵の言葉を撥ね付けるように、竜人は頭を振った。
「結局、お前たちも一緒なんだ。どんなに過去の人間とは違うと言い張っていても、どうせ気に入らないから他人を排除するだけなんだろう!? きれいごとばかり並べるなッ! そうやって、僕の、友達は、人生は、地図は――」
 竜人は再度手を振り上げた。瞬間。
「――やめて!」
 響いたのは、少女の声だった。はっとしたように、トゥーレもジークムントも声を上げたリカルダの方へ視線を向けた。彼女が声を上げるとは思っていなかったライヒアルトも、同様に戸惑う視線をリカルダに向ける。彼女はただ、不安げに身を縮めていた。
「……ジークさんも、トゥーレさんも、やめてください……落ち着いて、ください」怯えるように、リカルダは杖をきゅっと両手で握りしめていた。勇気を振り絞るように、彼女はさっと顔を上げて叫ぶ。「こんなの、話し合いじゃないわ。どうしてそんな風に怒鳴り合うの? こんなので、何かが解決する訳がないじゃない――!」
 しん、と静まり返る広間。竜の低い唸り声だけが、響く。ジークムントは僅かに気まり悪げに頭を掻いた。
「俺ぁ、別にこいつと話し合いがしてえ訳じゃねえよ。自分は悪くねえみたいな顔してんのが、腹が立つんだ。それが悪いっつうのか」
「悪いとか、悪くないとか、そういうことじゃなくて……」リカルダの声が、小さく萎む。「……おばあちゃんが言ってたわ。憎みそうになったら、まず知りなさいって。……こんな、罵り合いなんて、何も、生まないわ……」
 ライヒアルトは思わずはっとした。そうだ、何が正しいとか、何が間違っているとか、そんなことに惑わされている時じゃない。過ぎ去った時の中に、一体いくつもの偽りが散りばめられていたのか、今は知る術もない。だからこそ、今本当に求められるべきは真実ではない。――これから選び取るべき、道だ。
「――リカの言う通りだよ、ジーク。それに、トゥーレさん」
 黙り込んでしまった少女に代わって、そう静かな声で諭すように告げるライヒアルト。暫くして、手を振り上げていたトゥーレが、おずおずと手を下ろす。ジークムントは不満げに口を噤んだままライヒアルトに視線を向けた。
 何を信じていいか分からない。けれど、それは自分だけでは無い筈だ。竜人トゥーレも、そしてきっと高等種も、人間を信じられないと感じている。それを払拭する為に、俺に出来ること。きっとそれは、信じるに足る振舞いをすることだけ。
 ライヒアルトは、その碧眼を真っ直ぐに竜人に向ける。
「……トゥーレさん。俺は、何も知らなかった。竜族は人間を襲わないって聞いてたから、竜族が人間を襲い始めたとすれば原因はこっちにあるんじゃないかとは思い始めてたんだ。だから、人間が謝らなくちゃいけないって思ってた。だけど、原因どころか――人間が侵略者だなんて、思った事も無かった」
 人間が竜に攻撃を仕掛けるなんて、誰が想像できただろう。ライヒアルトはそっと目を伏せる。
「俺達は五十年前に戦争を引き起こした人たちとは違う。だけど、だからって、その責任を投げ出せるとも思わない。あなたたちに戦いを仕掛けた人たちを、許してくれとも……言えない」
「アルト、お前……」
 背後から投げ掛けられたジークムントの言葉に、ライヒアルトは振り向きもせずに首を横に振った。そのまま、続ける。
「人間達は、自分達の欲の為に他者の領域を侵そうとした。……俺だって、そんな風に攻め込まれたら許せないと思う。自分の大切なものを護るために、きっと戦う」
「……そうだ。だから、人間はその為に滅ぼされても、仕方がないんだ……」
 力無く竜人の呟いた言葉に、しかしライヒアルトは首を横に振る。
「俺は……俺の大切な場所を護りたい。大切な人たちの未来を護りたい。だから旅に出たんです。そして、きっと戦争で生き残った人たちも、戦いよりもきっとそれを望んでる。俺達はきっと、生きていたい。人間も、その他の種族も、きっと。……だから」
 ライヒアルトは逡巡するように唇を噛む。罪を、責任を、擦り付け合うよりも、何も知らない自分達に出来ることが必ずある。そうしなければ、戦いは終わらない。口を、開く。
「……一緒に、新しい時代を作ることは、できないでしょうか。俺は……そう、したいんだ。ずっと、憎みあったままでいるなんて、俺は――嫌だ」
 静寂。
 ――暫く、誰も口を開かなかった。




「馬鹿ね、トゥーレ。そんなことばっかり言ってるから村の皆に馬鹿にされるのよ」
「僕がいつ馬鹿にされたんだよ」
 まだあどけない顔をした頭に角を戴く少年が、不貞腐れたようにぼやく。彼より僅かに背の高い少女が、その頭に手刀を喰らわせた。
「いっ――たいな! 何するんだよ、マルヤーナ!」
「馬鹿なことばっかり言うからだわ。不満なら言えばいいのよ。そこから動き出せばいいの。いつまでもいつまでもそこでうじうじしてるから、何も変わらないんだわ」
「だからって、どうしろっていうんだよ」
 不貞腐れた顔のまま、手刀を喰らった頭を擦る。少女は、くすりと笑った。
「新しい事を考えましょうよ。もっと、楽しいことをするの。恨み言を言うより、その方がずっといいわ。ねえ、あなた、地図を描いてたじゃない。あれ、もっとやりましょうよ。世界の全部、描くの。そしたら、あなたは不満たらたらの何も出来ない偏屈男じゃなくなるわ。きっと素敵よ」
 偏屈男はないだろ、とぼやく。
 でもそれはきっと、素敵≠ネものだ。僕には出来る事がある。それなら、何もしないでいるのは勿体ないのではないだろうか?
「あら、結構乗り気ね?」
「うるさいよ」
 含み笑いをする少女に、不貞腐れた声を返した。




 静寂が続く広間。竜人トゥーレは、ぼんやりと考え込んでいた。
 数少ない、人間の友人。生き別れてしまった故郷の少女。その言葉が、脳裏に浮かぶ。
新しい事を考えましょうよ。もっと楽しい事をするの。恨み言を言うより、その方がずっといいわ……
 どうして僕は、ずっと恨み言を抱えていたんだろう。それはきっと、僕自身がそういう性格だからだ。それに、僕が間違っていた訳じゃない。間違っていた訳じゃないんだ。人間が居るから、人間が居たから、僕は――
いつまでもいつまでもそこでうじうじしてるから、何も変わらないんだわ……
 うるさい。うるさいよ、マルヤーナ。分かってる。分かってるよ。
 脳裏で、懐かしい少女の声が笑う。
 僕だって、もう――誰かを恨みたい訳じゃ、ないんだよ。




「――ごめんなさい、トゥーレさんの家にいきなり乗り込んでおいて、こんな事を言うなんて、自分でもどうかと思うけど」
 静寂に耐えかねたように口を開いたライヒアルトの言葉に、竜人トゥーレははっとしたように顔を上げた。青年は続ける。
「少なくとも分かって欲しいのは、俺は誰かを傷付ける為に剣が欲しいんじゃ、なくて……」その端正な顔の青年は、気まずげに頬を掻く。「身を護るためと、――もし出来たら、中立の民に認められた証として、ドワーフに剣を打って欲しいと思ってるんです」
「ドワーフ、に――?」
 戸惑うようにそう繰り返す竜人の声に、ライヒアルトは頷いた。
「はい。……トゥーレさん、ドワーフ族の居場所を知っているなら、教えて欲しいんです。きっと、あなたは知ってるはずです」
「……、何を根拠にそう言うんだい? 五十年、ここに隠棲していた僕に、それが分かるとでも」
 しらを切るように視線を外したトゥーレに、ライヒアルトは首を横に振った。ちらりと顔を上げる竜人の目を彼は真っ直ぐに見据える。ひと欠片の邪気も感じさせない、澄んだ碧い瞳。
「あなたは世界地図を描いた。つまり、この世界のどこに何があるのか、知っているはずなんだ。この地図は、正確です。だからこそ、あなたの地図には争いを引き起こす程の価値があった。例え中立の民であるドワーフ族を護る為にその居場所を記さなかったのだとしても、あなたは知っているはずです。……違いますか?」
 問いには答えず、再び視線を外して口籠る。握りしめた拳が、僅かに震えるのを感じた。彼の言うとおりだ。僕は、知っている。
「……たとえ、僕がそれを知っていたとしても。お前に、僕が教えるとでも思ったのかい?」
「……でも、お願いしなくちゃ、絶対に教えてもらえないから。そうでしょう?」
 ライヒアルトは、にこりと笑ってみせる。
 竜人トゥーレは、その邪気の無い笑みを前にして、唇を噛み俯いた。背後で瑠璃色の竜が鼻先を押し付けてくる。ああ、もう、何だよ。考えてるところなんだよ、やめて、シャハル――
 確かに何かが動き出す音がする。踏み出すのは怖い。何かが変わってしまうのはとても恐ろしい。
 それでも。
いつまでもいつまでもそこでうじうじしてるから、何も変わらないんだわ……
 遠い日に、閉ざされた竜人の心を開いた懐かしい幼馴染の少女の言葉が、笑い声が、脳裏で木霊する。トゥーレは頭を振った。やめてくれ、分かってるよ。僕は五十年間、こうして此処で生きてきた。こうして、このまま、変わることなく生きていく事も――新しい道を選ぶのも、僕次第なんだ。知っているよ。
「お願いします――俺に、道を示してください。あなたがかつて、世界中の人にそうしようと、したように」
 碧い瞳が、真摯な色を浮かべたままトゥーレの瞳を真っ直ぐに見据える。その真っ直ぐな光を、ふと眩しいと思った。ただ真っ直ぐに他人の心に触れようとする無謀さも、愚かとさえ感じるほどに誠実なその態度も。
 不意に、トゥーレは嘆息した。深い溜息と共に、胸の内にわだかまっていたものを吐き出すように。それは、諦めの感情にも似ている。五十年間続いた恨みを、ようやく、諦められる。喪失ではない。これは――解放感と、呼ぶのだろうか。
 嘆息した彼に、ライヒアルトがその碧眼を見開く。彼の戸惑いには触れず、竜人トゥーレはただ彼にすっと手を差し出した。
「貸して。地図だ」
 ライヒアルトは慌てて地図を差し出した。トゥーレは広間の中央に据えられていた作業台の上にそれを広げ、インクの蓋を開く。近くに転がっていた羽根ペンをインクにつけ、地図にさらりと印を付けた。そしてそれを再び、ライヒアルトにつき返す。
「……言っておくが、僕はお前たちを信用したわけじゃない。中立の民ドワーフが、お前たちを見極めるだろう。彼らは公明正大だ。もし彼らがお前たちのことを認めなかったなら、その時は僕も容赦しない。――目障りだ、早くここから去るんだな」
 不貞腐れたような声音。身を翻し、彼らに背中を向けた。
 トゥーレ自身にも、自分の感情がよく分からなかった。彼らを信じた訳ではない。それでも彼らに手を貸してやろうとしたのはきっと――トゥーレ自身、変わりたいと思っていたのかもしれないと思う。五十年続いた、他人を呪う生き方から。
「――あ、ありがとうございます!」
 ぶっきらぼうなトゥーレの様子に僅かに戸惑う様子を見せたライヒアルトだが、やがて地図を受け取るとそう言って頭を下げる。トゥーレは僅かに振り向いたが、どんな顔をしていいのか分からずに再び背を向けた。そのまま、続ける。
「長い道程になる。よく準備をして行かないと、のたれ死ぬよ。……、別に、それでもいいけど」
「……ったく、ひねくれやがって」
 傭兵の低い声。僅かにトゥーレは身を強張らせる。
「ジ、ジークさんっ」
「へいへい」
 咎めるような少女の声に、傭兵が渋々引き下がる。トゥーレはどうしていいか分からずに、彼らに背を向けたまま視線を彷徨わせた。そうしているうちに、一歩踏み出す足音が聞こえた。僅かに視線を背後にやると、ライヒアルトの真摯な碧眼がこちらを見ていた。
「トゥーレさん、本当にありがとうございます。俺、きっと、新しい時代を作る為の、足掛かりでもいい、何か出来るように頑張るから――」
 その声音を、不快だと思う訳では無かった。けれどそのあまりにも真っ直ぐな響きを聞いていると、自分のひねくれた態度が恥ずかしくなる。トゥーレは自己嫌悪を振り払うように、首を横に振った。
「分かった。分かったよ。……期待してないけど、でも、――約束を破ったら承知しないよ」
 竜人の小さな声に、今一度ライヒアルトがありがとうと感謝を述べた。そして、また会いましょう、と。竜人は答えない。ただ、背後で一行が踵を返すのを感じる。足音が遠くなる。
 こうして再び静寂が訪れるのだろう。いつも通りの日常が再び戻る。そして――その後、一体世界はどうなるのだろうか。
 分からない。トゥーレはひとり、頭を振った。自分の為したことは、今度は本当に正しいのだろうか。
 地図を描いた時、決してそれが過ちだとは思っていなかった。しかし、それが引き起こした事態に、心から恐れを感じた。たったひとりの、小さな存在である自分の行いで、世界は姿を変えてしまった。そのことへの恐怖と罪悪感に、もう誰にも関わりたくなくなった。だからこうして、ずっと此処に篭っていたのに。
 今度は正しい振る舞いが出来ただろうか。彼に道を示す事は、世界をどう動かすのだろうか。
 分からない。怖い。――けれど、賽は投げられたのだ。後はもう、事態は動き出す他無いのだ。
 ――不意に、ぱたぱたと小さな足音が再び近付いてくる。トゥーレは振り向いた。彼らが姿を消した先からひとつの影。
 先程まではずっと大人しく話を聞いていた少女。リカ、と呼ばれていた娘。単身現れた彼女に、トゥーレは目を丸くする。
「君は……」
「わたしは、リカルダ。リカルダ=ロサスといいます。トゥーレさん、すこしだけ……お話、させてくれませんか?」
 おずおずと、少女は小首を傾げて竜人の顔を覗き込む。
 竜人トゥーレは暫く考え込んだ後、小さく頷いた。