同行者の少女の様子がおかしいことに気付くのに、そう時間はかからなかった。
 ジークムントは嘆息する。吹く風は穏やかで、魔物の気配も無い。同行者のライヒアルトとリカルダが他愛も無い話をしているのを背中に聞きながら、今日も歩き始めて早数時間になる。
「俺さー、前に魔女のばあちゃんちで読んだ本で、海水を飲み水にする、みたいなの見た気がするんだよね」
「ほんとに? どういうやり方?」
「んっとねー、海水を入れた鍋を火にかけて沸騰させるんだって。それで、水蒸気の方を集めると、その水飲めるんだってさ」
「……? でも、中身は一緒じゃないの?」
「んー、なんか分離するらしいよ。鍋には塩が残るんだって」
「ふうん……面白いね。夜、やってみようかしら」
 他愛も無い話だが、役には立ちそうである。
「やってみるのは良いが、水の民に襲われねえように気を付けろよ。連中、戦争が始まってからは人間が航海しようとするのも良く思わねえで襲い掛かったって言うからな。海辺に要注意だ」
ジークムントは肩越しに振り返り、そう茶化した。ライヒアルトが困ったように眉根を寄せ、うーん、と考え込む。
「水の民かー。……そういえば、水の民ってよく知らないなー」
「俺もよく知らねえけどよ。基本的にゃあ海の中に居る連中だから目にする事もねえしな。お前、そういうよくわかんねー世界の生き物≠ニか好きそうだけどな。本では読まねえのか?」
「今、俄然興味が湧いてるところ。そっかー、海の中に街があったりするってことだよね? それってすごくわくわくするなー」
「お前、怖い≠チつうのより面白そう≠セよな、いっつも」
「男はロマンに生きるものだからさ。ね?」
 にこり、ライヒアルトは笑う。ひと欠片の邪気も無い笑顔だ。思わず頭を掻く。いつも思うが、この男はひとつの芸術作品では無いかと思う。素直で無邪気で思ったことを次から次へと口に出すその姿は、幼い子供と変わりはしない。よくそのままここまで育ったものだと感心さえする。同行者の小娘の過保護の賜物だろう。
「もお、……心配するだけ、ばかみたい」
 少女が呆れたように嘆息する。気持ちはわからんでもない。そう思いながら視線を前に戻した、その時だった。
「――リカ、大丈夫?」
 ライヒアルトの心配そうな声。振り返って見ると、少女は立ち止ったまま杖に寄りかかっている。顔色はあまり芳しくない。
「……あ、れ?」少女の、焦点の合わない若草色の瞳がゆれる。焦燥を滲ませながら、彼女は困ったように素っ頓狂な声を上げた。「だ、大丈夫……ちょっと、立ちくらみ」
「本当に? 大丈夫?」
「大丈夫だったら。……ほら、もう、大丈夫。気にしないで?」
 彼女の言う通り、徐々に彼女の目の焦点が合い始める。そして彼女は微笑んだ。ライヒアルトの心配そうな表情は変わらない。
「……ジーク、ちょっと休憩しよ」
「ア、アルトくん、わたしなら大丈夫だったら」
「いいから。休もう」
 慌てたようにリカルダがライヒアルトに食ってかかるのを、彼は珍しく低い声で振り切った。少女がびくりとして口篭り、怯えるように不安そうに見上げてくるのを見、彼はふっと表情を和らげる。
「……俺も疲れちゃったからさ。それに、ほら。海水を飲み水にするってやつ、早くやらないと忘れちゃうし」
「で、でも、中継地の村まで急がなきゃ……飲み水作るっていっても、上手く行くかわからないんだよ」
「成功したら、もう少しゆっくり行けるようになるじゃない?」
 でも、でも、と言い募る少女を優しく諭すライヒアルト。眺めて、ジークムントは小さく嘆息した。
 リカルダの焦燥は理解出来た。この小娘はずっと、足手まといになることを恐れている。小動物のような見た目をしているが、我の強い娘だ。加えて、ライヒアルトに比べても非常にしっかりしていて、頑固と言える程に真面目な性質である。恐らく、故郷でも堅実に何でもこなしてきたのだろうということはライヒアルトに対する態度からも窺える。旅に出て、その彼女のペースが乱れ始めていることにきっと焦っているのだ。しかし、その焦りが余計に彼女のペースを乱している。自分も昔、経験した事がある。しかし彼女はまだ若い。恐らく、挫折を乗り越えた経験も少ないのだろう。
 実際、少女は足手まといと言っても良かった。治癒術を会得しているという点を除けば、移動は遅く体力も無い為、足手まといと呼んでもいい要素は多分にある。
「……あぁ、休むか」同行者の言い合いを打ち切るように、ジークムントはそう口を挟む。「その実験やってみようぜ」
 ジークムントが口を挟んでは、リカルダもそこまで強く出ることが出来ないらしい。少女は「でも」と小さく呟いて、黙り込んだ。
 そう、少女の様子がおかしいことに気付くのに、さほど時間はかからなかった。その余裕の無さも、時折体力的にも辛さを感じているのであろうことも。彼女のひ弱な体には、この強行軍が堪えている。そしてそのことに、彼女自身がまた焦りを感じているのも。




 ふわり、と足元がおぼつかない感覚。頭がぼんやりする。だめ。しっかりしなくちゃだめ。焦点が定まらない。手にした杖を取り落しそうになって、はっとして握り直す。ちいさく震える手。どうしちゃったの、わたし――
「――とめ。ッおい、小姑ッ!」
「え……ぁ、は、はいッ!」
 飛んできた怒号に、はっとして顔を上げる。山吹色の髪の傭兵ジークムントの背が見える。つい先程、海を臨む平原で魔物に出会い、襲い掛かられたところだ。歪な顔をした小鬼のような魔物が三匹、金切り声を上げて傭兵に群がるように襲い掛かっている。そこまで認識して、リカルダははっとして視線を巡らせた。そう、戦闘中だった。ぼんやりしてる場合じゃない。ジークさんと、魔物と、そういえば、アルトくんは――?
「馬鹿野郎ッ! 何ぼんやりしてやがる、アルトがやられたぞ、早く治療しろッ!」
「アルト、く、……ぇっ、あ、は、はいっ!」
 その言葉の意味を理解したのは、数瞬間を置いた後だった。頭の中に霧がかかったようで、頭が回らない。早く呪文を唱えなくちゃ。
 リカルダが呪文を詠唱している最中も、小鬼は傭兵に襲い掛かり、傭兵がそれを迎え撃つ。そうしている間に、一匹を斬り捨てた。その瞬間、見ていたリカルダは思わず目を瞑る。目を閉じて唱えているうちに、今呪文のどこを唱えているか分からなくなってしまった。どうしよう、早く、唱えなきゃ。逸る気持ちが、彼女を混乱させた。彼女は一瞬戸惑い、再び冒頭から呪文を唱え始める。
 そうして治療魔法を発動させるのと、ジークムントが三匹目の魔物を斬り伏せるのはほぼ同時だった。
「……小姑。戦闘中に余計な事を考えるな」
 傭兵の重低音にリカルダは委縮し、杖をきゅっとかき抱いた。何かを考えていた訳ではない。けれど、無為にぼんやりしていた事を何と言い訳出来るだろう。リカルダはくちびるを噛み、震えるようにおずおずと頷いた。自分は、戦闘中に相応しくない振舞いをした。怒られるのももっともだ。
 その重低音の奥に苛立ちを抑えているジークムントと、怯えるリカルダ。二人の様子を交互に見やり、ライヒアルトは取り成すようににこりと笑って間に入る。
「責めないであげてよ。俺が怪我したのが悪いんだしさ」
 引き攣った笑みを浮かべる彼の言葉に、しかしリカルダは俯いたまま。ジークムントも顎をしゃくり、低い声で不機嫌そうに続ける。
「見当違いな事言ってんじゃねえ。アルト、お前が怪我しなかったとしてもだ。小姑がさっきみてえに薄ぼんやりしたまま余計な攻撃喰らってたらどうなるか分かってんのか。……おい、小姑。答えろ」
「……癒し手が、使い物にならなくなったら、戦闘は不利、に」
「そうだ。俺達は生命線を断たれる。更に付け加えると、何も出来ねえお荷物がひとつ出来上がるんだよ。分かってんのか」
 震える声で答えるリカルダの言葉に被せるように、ジークムントは低い声でそう言い放った。リカルダが、びくりと震える。
「ごめん、な、さ……」
 何も出来ない、お荷物。戦うことも、癒す事も出来ず、移動の負担にしかならない。それは、まさしくお荷物だ。リカルダは視線を落とす。
「その言い方はないよ。リカ、疲れてるんだよ」
 僅かに語気を強めたライヒアルトの声。顔を上げると、彼は眉根を寄せてジークムントを睨んでいる。しかし傭兵は顎をしゃくった。
「疲れてたら気を抜いていいっつうのか?」
「そうじゃなくって――」
 ライヒアルトが必死に庇ってくれている。命の危険にさらされたのは彼なのに。リカルダは思わず視線を落とす。その時、ふらりと視界が揺らいだ。ああ、やめて。疲れてるのも、体調が悪いのも分かってる。だけど、今は倒れちゃだめ。しっかりしないと、だめ。わたし、お荷物になりたくない。リカルダは頭の中の霧を振り払うように慌てて頭を振る。
「――アルトくん、やめて、わたしが悪かったの。ごめんなさい。気を付けないと、いけないのに」
「リカ、君は」
「行きましょう」
 物言いたげなライヒアルトの言葉を遮り、歩き出す。ふらつく足に、なんとか言うことを聞かせようと気を張った。上手に、歩けているかしら。せめて、今晩までもってくれたら。
 口籠ったライヒアルトと、ジークムントの視線が痛い。しかしそれでも、彼らは黙ってまた歩き始める。彼らの先を歩いていた筈なのに、またすぐに抜かれてしまった。
 関所を発って、早十日。自分の体に蓄積した疲労から、目を逸らせなくなってきたのは何日前だったろう。確かにもともと活動的な方では無く、野宿生活にも不慣れだ。体力が無いのも自覚している。けれど、倒れる訳にはいかないのに。
 この数日、彼女の口数はどんどん減り続けていた。まともに思考が働かないまま、何度路傍の石に躓いた事だろう。歩くペースも少しずつ落ち、進まない旅程に傭兵が苛立ちを滲ませ始めた。眉間に深く寄り始めた皺を恐れるように、少女はなんとか気丈にも歩き続けた。それでも、休憩は増えた。日暮れには、心配した様子のライヒアルトによってその日の旅程が打ち切られるようになった。
 アルトくんにしっかりしてって言ってるわたしが、こんな調子でなんていていいはずがないのに、どうして体が言うことを聞かないのかしら。そう考えている間にも、足元がもつれた。
 気遣わしげに隣を歩いていたライヒアルトが、立ち止まり振り向く。つられてリカルダも足を止めた。突然の事に、驚いて彼を見上げる。彼の表情はいつもの能天気な様子とは違い、ひどく真剣だった。リカルダは思わず身構える。
「リカ、休もう。見てられないよ」
「…………、どうして? まだ歩けるわ」
「足がふらついてる。無理してるなら早く言って。リカの様子が変なの、気付かない訳ないでしょ」
 有無を言わせない口調に、ぐっと詰まる。
「……、大丈夫だって言ってるじゃない。アルトくんの気のせいだよ。わたし、しっかり歩いてるじゃない」
 やや、むっとした表情のリカルダ。ライヒアルトはその端正な面に真剣ないろを浮かべ、彼女の顔をじっと覗き込んだ。少女はふと、息を呑む。そんな風に真面目な顔をした幼馴染の顔は見慣れない。凛とした眼差し。彼の瞳はこんなにきれいな色をしていたかしら、とぼんやり思う。形の良い碧い瞳に、長い睫毛。きれいな眼だ、と思った矢先に、その瞳が見ているのは自分なのだということに気付き思わずくちびるを噛む。視線が痛かった。なにか恐れにも似たような感覚を覚え、ついと目を逸らす。彼は、目を逸らさない。
「……さっきも、ふらふらしてた。ぼんやりしてる事、増えたよね。それでも本当に大丈夫だって言える?」
「なん、で。アルトくんにそんな事言われなきゃいけないの?」
 苛立ちに似たものが胸に渦巻く。どうしてだろう、どうして苛立ってしまうのだろう。うまくコントロールできない。どうして。
「俺は……確かに、いつもリカに心配されてる方だけどさ。でも、俺だって心配はするよ。あのね、リカ、迷惑かけたくない気持ちはわかるよ。だけど、リカが倒れたら元も子も――」
「……足手まといでごめんね。何回も、何回も、休憩させて、旅を邪魔して、迷惑かけて、……アルトくんはまだ戦いで怪我しちゃうから、わたしが必要なだけなんでしょ? だって、わたしは、治癒術が使えるもんね。わたしの価値、なんて、それだけ。それだけだもの。アルトくんだって、そう、思って」
「リカ!」僅かに怒気をはらむ声に、びくりとする。ライヒアルトは険しい表情のまま続けた。「俺がそう思ってるって言いたいの? 君が足手まといで、迷惑で、俺が成長したらもう君の存在が必要ないって、……俺がそう思ってるって言いたいの?」
 その口調は、今まで聞いた彼のどんな声よりも低く、険しかった。思わず、息を呑む。心臓のおとがはやくなる。アルトくんが、怒ってる。わたしに、怒ってる。手元が震える。傭兵に怒られることよりも、自分が足手まといだと悩むことよりも、何よりも怖かった。
 彼が自分を突き放す訳が無いとどこかで信じていた。彼は何を言っても許してくれるから。そんなわけが、ないのに。
 震えが止まらない。怖かった。アルトくんに見放されたら、わたしは――
 思わず一歩後ろに下がる。その時不意に、視界から色が消失した。
 あ、れ――?
 眩暈。上下感覚を失うように、ふわり浮遊感。
 その一瞬だけまるで時間が切り取られたように、遅く長くゆるやかに、グレーの視界がくるりとまわる。どうしたんだ、ろう――?
「リカ!」
「ッおい、小姑ッ!?」
 名を呼ばれる声を遠くに聞きながら、視界はくるりまわる。
 自分の身に起きた事を理解するよりも早く、少女はゆっくりと、意識を手放した。