ふわり、ふわり、揺れる。
 ざざあん、と揺れる波の音。どこか懐かしく、心地の良い感覚と、あたたかな感触。少女はそっと目をひらいた。ひとつ、ふたつ、瞬き。ここは、どこだろう。僅かに顔を上げた。
「――起きた?」
 存外近くで聞こえた声に、びくりと身を硬直させる。聴き慣れた幼馴染の声の、やわらかなテノール。
 その瞬間、何が起きていたのかすべて思い出した。
「……ア、アルトくん……わたし」
 彼の背に負われている事に気付いたリカルダは、ちいさく目を見開き身じろぎした。ライヒアルトの纏う革鎧が直に触れている。彼の外套は少女の背に。幼馴染は身じろぎした彼女には気を掛けず、一度背負い直すようにして、また歩き始める。
「まったくもう。無理するんだから」
「わ、わ、わたし、一人で歩けるわ……! だ、大丈夫だから」
「倒れた人が何言ってるの」
 ちいさく笑い、幼馴染は取り合ってくれなかった。
「……お、お風呂、入ってないから、あの」
「気にしないの。俺も一緒なんだから」
「でも、アルトくんだって疲れて……」
「だいじょうぶ。……ね?」
 包み込むような、やさしい声。倒れてしまう前の険しい声音は今はもうどこにもない。あまりにもやさしい声に、思わずくちびるを噛む。背の高い彼と同じ目線で見る世界は、いつもと違って見えた。リカルダは僅かにことりと俯く。
「……ごめん、ね。アルトくん、わたし……」
「なにが?」振り向かぬままの幼馴染は、気にしていないと示すように、ゆっくりとやさしい声音でそう返す。「こっちこそ、ごめんね。うまく、言えなくて。……迷惑だなんて、思ってないから」
 うそだわ、と言おうとして、口籠る。どんな風に思っていたとしても、このやさしい人は決してやさしい嘘を崩さないだろう。リカルダに対して悩みを話さない事も、彼女を庇うように「自分が疲れた」と言い張って休ませてくれるのも、そしてきっと、彼女のことを足手まといだと感じていることも。彼は全てやさしい嘘で包み隠そうとする。そのやさしさが余りにも辛く、もどかしかった。
「怒って……、る?」
「怒ってないよ。ちょっとむきになっただけ。だって、リカが分かってくれないから」からかうように彼は笑う。「ごめんね」
 どうしてアルトくんが謝るの? 勝手に悩んで、八つ当たりして、嫌な思いをしているのはアルトくんなのに。小さく、ごめんなさい、と呟いた。彼はやさしく、首を横に振る。
「ジークさんは……? 怒ってる……よね」
 おそるおそる訊ねる声は、震えていただろうか。ライヒアルトは「だいじょうぶ。気にしちゃ駄目だよ」とちいさく笑った。
 ライヒアルトの頭のむこう側に、物言わずただ歩き続ける傭兵の背が見える。薄闇に支配され始めた世界、傭兵の髪の山吹色もはっきりとは見えない。意識が遠のく前、まだ陽は高かったのに。
「本当はね、もうちょっと休んで行きたかったんだけど」幼馴染が申し訳なさそうな声音になる。「やっぱり、進めるうちは進みたかったからさ。ごめんね」
 謝るのは、こちらの方なのに。少女は俯く。
「……アルトくん、やさしいね。……やさしすぎるわ」
 ぽそり呟いた声に、え、と幼馴染が僅かに首だけ振り向いたのを感じた。顔を上げずに、少女はまた、ぽそりと呟く。
「ほんとに……ごめんね。わたし……わたし」
 寄せては返す波の音に、消えてしまいそうなか細い声。
「謝らないの」
 幼馴染の窘めるような声の響きに、少女は小さく肩を縮めた。
 いつの間にか青年らしくなっていた、大きな背。そのしっかりとした背中に、焦燥感にも、恐れにも似た感覚を抱く。
 それが何なのか、よくわからなかった。




 歩き続けて、どれほどの時間が経っただろう。
 幸い、魔物に襲撃される事も殆ど無く、小休憩を挟みながら歩き続けた後、遠くに小さな灯りを見出した一行は、それから暫く歩き続けて集落に辿り着いた。小さな、河口の村。すっかり暗くなったその村をぐるりと囲む簡易的な外壁のような柵の隙間、入口を示すように設えられた篝火が一行を招くようにちらちらと燃えていた。
「こんな僻地にお客さんだなんて、珍しい」
 辿り着いた一行を出向いたのは、見張り番らしい中年の男性だった。彼はその細い目をまるく見開き、顎をさする。
「こんな夜遅くに、すみません。仲間が体調を崩してて……どこか、宿を取れる場所はありませんか?」
 幼馴染が、存外しっかりとした口調でそう訊ねるのを、リカルダは彼の背で聞いていた。もう歩けると言ったのに、なかなか下ろしてくれなかったのだ。何度か歩こうとはしたが、おぼつかない足取りを見た幼馴染はすぐにそれをやめさせたのだ。自分が情けない。
「そりゃあ、大変だ。そうだな、村長の家に案内しよう」
 些か慌てた口調の男性に連れられて辿り着いた大きな茅葺の屋根の家は、ふたつの篝火に入口を護られていた。先導の男性は、そこで待つように言い、家の中に入っていった。事情を説明してくれるのだろう。
「……村、そんなに遠くなくて良かったな」
「うん、そうだね。村の人もいい人そうだし。運が良かったね」
 ジークムントの言葉に、ライヒアルトは笑う。彼の背中でそれを聞きながら、リカルダは何も言えなかった。この人はどうして、笑っていられるの。疲れていて、お荷物になったわたしを抱えていて、それなのにどうして。
 答えは出ない。出る訳が無かった。わたしと彼は、違う人間だ。分かる訳が、なかった。わたしと違って、彼はやさしくて、強い。
 間もなく、先程先導してくれた男性に呼ばれて家の中に招き入れられた。夜遅くの急な来訪にも関わらず、通された家の奥では村長と思しき初老の男が穏やかに微笑んでいた。
「遠くからの客人が来られるのはいつぶりかの。ここはカイの村と言います。何も無い村ですが、存分に身を休めて下され。今、床の準備をさせております」
「ありがとうございます。……遅くに申し訳ありません」
 感謝を述べる幼馴染の言葉は、いつもの無邪気な様子とはうって変わって、しっかりとした大人の言葉だった。こんな言葉遣いが出来たなんて、知らなかった。ぼんやりと、そんなことを思う。
「お嬢さんは、こちらへ。今晩はこちらでお休み下さい」
「ごめん、なさい……」
 青年の背から下りてか細い声で謝る少女に、村長は笑う。
「長旅で、お疲れでしたでしょう。ゆっくり、おやすみなさい」
 やわからな寝床は、すぐに彼女の意識をやすらかな眠りへとおとした。




 夜が明けて一行を迎えたのは、好奇心に瞳をおどらせて村長の家に無遠慮に踏み入ったちいさな子どもたちだった。そしてその背後に、同じように興味深そうな眼差しをした大人たちがのぞく。
「もう何年も来客なんてなかったからねえ」
 物珍しそうな顔をした中年の男性が、ライヒアルトにからからと笑いながらそう言う。知らない人と話をするのは好きだ。村民に繰り出される質問に快く答えているうちに、ライヒアルトはふとジークムントの姿が消えている事に気付いた。逃げたらしい。彼は煩わしい付き合いが苦手だから仕方ない、と思わず笑う。
「……でも、皆さんいい方ばっかりで、良かったです。もしかしたら人食いで、とって食われちゃったらどうしようかと思って」
 ライヒアルトがそう言って笑うと、村民たちも笑った。
「あたしもねえ、夜中に突然来訪者が来たって言うからどんなやつが来たのかと思ったけど、あんた、ほんとにいい男だねえ」
 どう答えていいものか分からず、「ありがとうございます」と曖昧に笑う。気が付くと目の前には中年女性ばかりになっていた。
「さっきまで居た兄ちゃんもなかなかいい男だったけどね、あんたは素直でいいねえ。空みたいな碧い瞳がきれいだ。……奥にいるお嬢ちゃんはあれかい、あんたのいいひと?」
 リカルダの事を言っているらしい。ライヒアルトはちらりと部屋の奥にいる彼女の方を覗き見る。こんな言葉を彼女が聞いていたら怒ったことだろうが、幸い押しかけてきた子どもたちと遊んでいるため、こちらの言葉は聞こえていない様子だった。胸を撫で下ろす。
「いえ、幼馴染なんです。旅に無理矢理付き合わせて、結果体調崩しちゃって」
「そうかい、そうかい。女の子は大事にしなきゃ駄目だよ。小さいけど、優しそうでいい子じゃないか。いい伴侶になるよ」
「俺はよくても、多分あの子が嫌がると思うなぁ」
 女性達が口々に「えー」と不満げな声を上げた。
「あたしならあんたみたいな旦那なら小躍りして喜ぶね」
「あたしなら息子に欲しいかな。うちの息子は反抗期で困る」
 口々に言い合う女性の相手をするのにも少々疲れてきた頃、からん、からん、と鐘の音。「ああ、働きに出なきゃねえ」と囁き合った女性たちは、ライヒアルトに挨拶をして次々に出て行った。残されたのは、奥の部屋にいるリカルダと、彼女を取り囲む子どもたち。
「――そうなんだ。じゃあ、こういうお話は知ってる? 森の妖精と、お姫様のお話」
 穏やかに笑うリカルダに、幼い子供たちが首を傾げる。
「むかあし、むかし。あるところに、ひとりぼっちのお姫様がいたの――」
 見ていて、ふと懐かしくなる。昔はよく故郷の兄弟分たちに彼女がおとぎ話をしていた。周囲に座り込んだ何人もの子供たちと、穏やかな笑顔を浮かべたリカルダ。その光景は、まるで遠い故郷で見ていた穏やかな日常にも似ていて。胸が、ちくりと痛む。
「……よ、アルト。ご苦労さんだったな」
 不意に背後から聞こえた声に、ライヒアルトは振り返った。玄関扉代わりの暖簾を乱暴に持ち上げ、背に外からの光を受けて佇むジークムント。ライヒアルトが村民の相手をしている最中に姿を消した彼が、片眉を跳ね上げて僅かに笑っていた。
「取り囲まれるのも飽きたろうしよ、ちいっと外行こうぜ」
 傭兵は、くいっと親指で外を指し示した。ライヒアルトは頷く。
「リカ、少し出てくるね」
 子供たちの語り部となっていた少女が、その声にふっと顔を上げた。その視線の先に傭兵の姿を認めると、僅かに肩を縮める。
「ああ、ったく、怖がんなよ」その様子を見た傭兵は、存外優しい調子で言い、肩を竦めた。「お前は休んでろ」
 少女はおずおずと頷いたが、取り囲む子供たちに話の続きをせがまれ、再び、繕うように笑顔を浮かべて語り出す。そんな様子を横目で見ながら、男たちは家を後にした。




 昨夜は夜闇に包まれてその姿を帳の中に隠していた村も、陽が昇りその姿をあきらかにしていた。
 点在する茅葺屋根の、丸いかたちをした家屋の数はさほど多くはない。きっとこの村に住む住民の数もそう多くはないのだろう。まばらに見える人々は、畑を耕したり井戸から水をくみ上げたり、家畜の世話などに精を出している。服装はこざっぱりとしていて、飾り気のないものが殆どだ。だが、表情はみな穏やかで、こちらに気付いた村人はにこやかに手を振ってみせる。村長の家を取り囲む背の低い柵に身をもたせ掛けていたライヒアルトは、村人に手を振り返してにこりと笑った。
「人気者だな、お前は」
 ジークムントが肩を竦め、にやりと笑ってみせた。ライヒアルトも僅かに肩を竦める。
「そんなこと無いよ。ジークだってちゃんとこうやって手を振り返してあげれば、みんな喜ぶよ? さっきだって、せっかくみんな来てくれたのにジークどっかに行っちゃうんだもん」
「やだよ、めんどくせえ」忌々しげに眉根を寄せた後、彼は、ふむ、と考え込む。「……あぁ、お前が気に入られやすいのは愛想がいいからなのかもな。愛想でお前に敵うやつぁそうそう居ねえ」
 ライヒアルトはにこり笑う。
「女は愛嬌ってばあちゃんが言ってた」
「お前いつから女になったよ」
「応用できることは応用するべきだと思うんだ、俺」
「まあ、違わねえが……」
 やれやれ、と言った風に傭兵は肩を竦めた。この青年と話しているとどうにも調子が狂う。早々に本題に入った方が良さそうだ。
「……小姑の様子はどうだ?」
 傭兵がそう切り出すと、ライヒアルトの形のいい碧眼がふと翳りを帯びた。考えあぐねるように頭を掻き、すいと俯く。
「今のところ、よく休んでるよ。楽しそうに子供たちと話してる」
傭兵は、「そうか」と相槌を打ち、ふと視線を遠くへ。川岸に設えられた水車が、まわる。ライヒアルトもつられて見上げた。鈍くまわるそれをじっと眺め、暫く口を閉ざしたまま。水を掻くその音が、耳に涼しい。まるで故郷に居るようだと、ライヒアルトはふと思う。故郷である《魔法使いの穴倉》は、川のそばにあった。リヴェーラの時も、ハルドの関所を旅立ってからも、ずっと波音を聴いていた。しかし、故郷でいつも聞いていたせせらぎの音を、久しぶりに聴いたような気もした。静かな村だからこそ、余計に耳に入るのだろう。
 ジークムントが何を話したいのか、ライヒアルトにも薄々わかっていた。家の中で今は穏やかな時を過ごしている、あの少女。
「リカには、やっぱり……辛い旅だったかな」
「……あぁ、本当にぶっ倒れちまうとはな」
「怒ってる?」
「いや……別に、怒っちゃいねえよ」
 傭兵は頭を掻く。ライヒアルトは視線を落とした。
「あいつは……よくやってたとは思うぜ。文句も言わずについてきてたしな。だが、あれを見てるとよ……」傭兵はちらりと村長の家の玄関に垂れる暖簾に視線をやった。その奥で子供たちと戯れる少女を指しているのだろうということは明瞭に分かる。「小姑は……ああいう場に居る方が性に合ってるみてえだな」
「そうだね。あの子は……旅には、向いてないんだと思う」
 子供たちと笑う少女の顔は、本当に安らいでいるように見えて。その穏やかさは、今まで彼女が感じていた緊張感を逆に表しているようにも見えて、少し心苦しくさえあった。
「あいつが故郷に帰りたいっつうんなら、送り返すまで付き合ってやってもいいぜ。また、帰りも長い道程になるが」
「……ジークがそんな風に言うようになるなんて、思わなかったな」
 思わず、笑ってしまった。傭兵が顔を顰めるのを見、また笑う。
「最初はリカの事、何の理由も無く嫌ってたのにね」
「そりゃあ、まあ……そうだが。まあ、悪い奴じゃねえ、だろ、あいつ。ちっと、めんどくせえところは、あるが」
 気まずげに視線を逸らす彼に、「でしょ」と笑う。
 はじめは、こんな風にジークムントがリカルダを気遣うようになるだなんて考えた事も無かった。大きな、進歩だと思う。それでも。
「……本当は俺も、リカを連れてくることに抵抗はあったんだ。俺のわがままに付き合わせて、あの子を危ない目に遭わせたくなんてなかった。だけど、リカは頑張り屋さんだから、こうしてジークに認められるように一生懸命頑張ってた。だけど、これ以上は……」
 ふっと、視線を落とす。路傍の小さな花が、風に吹かれて揺れた。揺られて、それでも、健気に咲く花。幼馴染の少女に、似ていた。
「リカは、……強くなろうと、するんだ。俺も、それに気付かなかった。あの子は本当にしっかりしてて強い子だって思ってた。けど、あの子は、俺が頼りないからしっかりせざるを得なかっただけだ」
 出会ったばかりの、小さな頃の彼女は、ほんとうに泣き虫だった。人前で泣くことや、弱さを見せることを嫌うようになったのはいつからだったろう。どうして、忘れていたんだろう。こんな風に、甘えてしまっていたのだろう。彼女の弱さを受け止めなくてはならないのは、本当は兄貴分である自分だったのに。
「……でも、多分、リカは……帰りたいなんて言わないよ。どんなに苦しくても、言えないんだ。この間も言ったけど……途中で投げ出すなんて、出来ないんだ。あの子は」
 気丈な少女。弱くなることを、自分に許せない少女。
「ったく……強情なのも考えものだぜ」
 ジークムントは低い声でぼやき、どうしていいかわからないように、くしゃり、と後ろ頭を掻いた。